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2011-09-28up

柴田鉄治のメディア時評

第34回

その月に書かれた新聞やテレビ、雑誌などから、
ジャーナリスト柴田さんが気になったいくつかの事柄を取り上げて、論評していきます。

鉢呂経産相を辞任に追い込んだメディアのおかしさ

 野田内閣が発足して僅か9日目で原子力行政を所管する鉢呂経産相が辞任した。事故を起こした福島第一原発の周辺を視察した翌日の記者会見で「死のまち」と語ったことと、視察から帰京した当夜、記者団に「ほら、放射能つけちゃうぞ」と言って袖を近づけるしぐさをしたことの責任をとったのだという。

 こんなバカな話があるのだろうか。もちろん、この辞任には政党間の争いや党内の足の引っ張り合いなど、いろいろ絡んでいるのだろうが、ずばりといえば、この辞任騒ぎはメディアが主役、メディアが辞任に追い込んだものだといえよう。

 日本のメディアは、ここまでおかしくなってしまったのか。

 まず、「死のまち」という表現だが、新聞記者が周辺地域をルポしても「死のまち」と書くだろうし、あるいは同じ意味で「ゴーストタウン」と表現するかもしれない。いずれにせよ、「死のまち」と語って何がいけないのか。

 いや、そうではない。地元の人や自治体の人たちがその言葉を聞いて怒ったのは、「死のまちにしたのは電力会社や経産省ではないか。その責任者が他人事のように言うとは何だ」ということなのだろう。それは分かるが、就任直後のことであり、「死のまち」にした当人ではないので情状酌量の余地はあるはずだ。

 本来なら「死のまち」と語ったあとで「死のまちにした経産省の代表者として責任を痛感している」とでも話せばよかったのだろうが、大臣になったのは初めてという人だから言葉が足りなかったのだ。

 もう一つの「放射能をつけちゃうぞ」のほうは、まさにメディアの問題だ。衆院議員宿舎の前で待ち受けていた記者団の前に姿を現した鉢呂氏が、質問に答えて視察の感想を語った中での出来事だったようだが、そのときは誰一人、問題発言だと感じた記者はいなかったのだ。その証拠に、そのときすぐに報じた記者は一社もいなかったのである。

 それが、翌日の記者会見での「死のまち」が問題になるや、「前夜にも」と一斉に報じはじめたのだから何をかいわんやだ。どのメディアも「一連の不適切な言動に対して政権内の受け止めは厳しく、結局、辞任に追い込まれた」と報じていたが、事実は「政権内の受け止め」ではなく、メディアが「問題だ、問題だ」と大合唱して辞任においこんだのである。

 しかも、辞任を報じたあとのメディアの論評も大半が「辞任は当然」「首相の任命責任も問題に」というトーンなのだから、驚くほかない。

 ところが、辞任から4日後の朝日新聞の社説の下に載る「社説余滴」というコラムを読んで愕然とした。論説主幹代理が「何ともグロテスクな辞任騒ぎ」と題して、私が抱いた感想とそっくり同じ内容が載っているのだ。

 その一部を紹介するとこうある。「メディアが問題にし、政治家が反応し、それをまたメディアが取り上げ、そのたびに騒動が肥大化、深刻化し、肝心の問題は置き去りになる。そして閣僚の首が飛んで終わる。このメカニズムは健全ではない」

 こんなまともな意見があるのなら、なぜ、そのときに紙面に出ないのか。たしか、そのときの社説には、この意見とは正反対の「辞任はやむを得ない」と出ていたはずだぞ、と思ったら、このコラムの中にその内幕が出ていた。

 筆者が上記のような意見を述べたら「論説委員室では政策責任者の言葉だから問題なのだという反論を受けた。『放射能をつけちゃうぞ』という言動も緊張感を欠きすぎているとして、社説は辞任やむなしとなった」というのである。つまりこのコラムの筆者は少数意見だったのだ。  

 これはいったい、どういうことなのだろう。社内で葬り去られた少数意見をあとで紙面に載せるというのも、悪いこととは思わないが、「あれはやりすぎだった」と反省するのならきちんとそう言ってほしいし、あとでちょっぴり釈明するようなやり方は中途半端としか言いようがない。朝日新聞としてはどう考えるのか、はっきりしてもらいたい、と思うのは私だけだろうか。

 何とも後味の悪い辞任騒ぎだった。

「さようなら原発5万人集会」の扱いまで二極分化

 作家の大江健三郎さんらが呼びかけた「さようなら原発5万人集会」が9月19日、東京・明治公園で開かれた。どんな様子かな、と私も出かけて行ったが、想像以上に大勢の人が集まり、大変な熱気だった。

 まず、最寄りのJR線・千駄ヶ谷駅で降りたら、ホームから改札口まで人でぎっしり。身動きもとれないほど。やっと改札口を出て会場に向かったが、駅から明治公園までの道路がまた人人人…。会場にたどり着くと、すでにぎゅうづめといっていいほどの大群衆だ。

 主催者発表6万人(警察発表3万人)だったが、私はもっと多かったのではないかと思うほどの人並みであり、熱気ムンムンだった。

 集まった人たちの雰囲気が、また、普段の集会やデモとはちょっと違う感じだった。政党や労組などの動員で集まったという感じではなく、みんな自らの意思で出てきた、といった様子なのである。

 鎌田慧さん、大江健三郎さん、落合恵子さん……演壇にたった人たちの呼びかけも、スローガンを叫ぶのではなく、みんな自分の言葉でそれぞれ思いをこめて語っていた。

 この集会とその後のデモ行進をメディアはどう伝えたか。テレビは、NHKの7時のニュースがほんのちょっぴり、むしろ民放のほうが、翌日特集したテレビ朝日をはじめ丁寧に報じていたようである。

 新聞はどうか。原発をめぐる新聞論調が二極分化したこと、つまり脱原発派と推進派に「朝日・毎日・東京 対 読売・産経・日経」と分かれてきたことは前回記した通りだが、この集会の扱いも、それとそっくり同じ形に二極分化したのである。すなわち、朝日・毎日・東京は一面に写真入で報じたのに対し、読売・産経・日経はいずれも第二社会面に写真なしで、読売は2段、産経・日経はベタ記事で、集会があったことだけを報じたのだ。

 それで、思い出したのは、2003年のイラク戦争が始まる直前の反戦デモの扱いである。開戦間際の緊迫した空気の中で、反戦デモが世界中に広がり、日本でも大規模なデモが行われたが、それを、イラク戦争に反する朝日・毎日は一面で報じたのに対し、イラク戦争に賛成していた読売・産経は一面には出さず、目立たないように報じたのである。

 本来、新聞の主張する論調とニュースの扱いとは、別であるべきものなのだ。論調に多少は引きずられるのはやむを得ないとしても、ニュース価値はしっかりと的確に判断されてこそ信頼される新聞というものだろう。

 その点では、今度の集会の報道でも、朝日新聞は一面に写真を出したとはいっても、記事はまったくお粗末だった。一面に空から見た大群衆の写真を載せ、集会の様子を社会面トップで詳報したうえ、特報面にも大展開した東京新聞の丁寧な報道ぶりとは雲泥の差だった。

 朝日新聞は、当日の報道を反省したのか、あるいは、読者からの抗議が殺到してそれに応えたのか、理由はともかく、それから4日後の25日の朝刊3面に集会の様子を詳報する記事を出している。「うねる直接民主主義 原発のあり方私たちで考え決めたい 反対集会に6万人」という見出しは、続報・解説のような形をとっているが、内容は当日の紙面にそのまま載ってもよかったものだ。それがなぜ4日も遅れてしまうのか。

 朝日新聞は、論調も紙面の編集の力も少しおかしくなっているのではないか。今回のメディア時評は、朝日新聞にとくに厳しいものになってしまったが、リーディング・ペーパーだと名乗る以上、それだけの期待をしても当然だといえよう。

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まさにメディア不信を募らせるおかしさだった、
鉢呂経産省の辞任をめぐる一連の報道。
「9・19」集会についての報道も、
特に実際に参加されていた方には、納得のいかないものが多かったのでは。
「日本のメディアは、ここまでおかしくなってしまったのか」。
柴田さんの言葉が突き刺さります。

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柴田鉄治さんプロフィール

しばた・てつじ1935年生まれ。東京大学理学部卒業後、59年に朝日新聞に入社し、東京本社社会部長、科学部長、論説委員を経て現在は科学ジャーナリスト。大学では地球物理を専攻し、南極観測にもたびたび同行して、「国境のない、武器のない、パスポートの要らない南極」を理想と掲げ、「南極と平和」をテーマにした講演活動も行っている。著書に『科学事件』(岩波新書)、『新聞記者という仕事』、『世界中を「南極」にしよう!』(集英社新書)ほか多数。

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