戻る<<

マガ9スポーツコラム:バックナンバーへ

マガ9スポーツコラム No.013

091021up

  みんなが大好きなスポーツ!「マガ9」スタッフだってそうです。
だから時々、メディアで報じられているスポーツネタのあれこれに、
突っ込みを入れたくなったり、持論を展開したくなったり・・・。
ということで、「マガ9スポーツコラム」を不定期連載でお届けします。

運動会は神様への感謝祭だ

 今年も運動会の季節が終わった。体育の日を挟んだ連休中、町で歓声が聞こえると、私はついつい校内に入り、人だかりの後ろで爪先立ちして、グランドに目をやった。あの雰囲気が大好きなのだ。

 そもそも運動会は、近代日本の学校教育の一環として生まれた体育の成果を発表する場だった。一糸乱れぬ入場行進は、体育がよき兵士の育成を目的にしていたことを示している。いまでもときおり、日本のスポーツ界が根性論に支配されているといわれるのは、本来、「スポーツで勝つために根性が必要」なのに、「根性をつけるためにはスポーツが必要」という本末転倒が起こるからだろう。

 ちなみにオリンピックのアマチュアリズムは、ヨーロッパの貴族階級が、スポーツ大会に肉体労働者を参加させるのは不公平だとして差別したのが始まりだといわれる。日本や英国で大学スポーツが盛んなのは、そんなエリート主義の名残ではないだろうか。

 ただし、いまの運動会をそうした歴史の延長線上で見ると、ちょっと違うんじゃないかと思う。私には運動会が近代以前の村祭りのように感じられるのだ。

「負けるな、がんばれーッ!」

 子供の運動会で、隣に座っていたおばあちゃんが大声を張り上げた。彼女は私の娘の友だち(3年生)の祖母である。目の前でやっている騎馬戦は上級生の競技なので、孫は出ていない。けれども、彼女のボルテージは上がりっ放しだった。

 一方の私は、トラックを駆け抜ける子供たちに目が釘づけになったり、障害のある子が先生と手をつなぎながら走る姿に、声援を送りながら涙を我慢して、顔を歪めたりしていた。最後のリレーでは興奮しすぎて、最終走者のゴールを示すピストル2発が鳴った後、しばらく軽い放心状態になる始末である。われながら阿呆みたいだが、村祭りだから仕方がない。

 そもそも日本のお祭りは、五穀豊穣や大漁を山や海の神様に感謝する儀式であった。そして、スポーツも、近代オリンピックのずっとむかしに遡れば、古代ギリシャのオリンピアで行われた神に捧げるための儀式に行き着く。

 ならば現代の運動会は、地域の人たちが行なう感謝祭のようなものといえないか。

 お祭りだから、勝ち負けは基本、どうでもいい。ただし、遊び(=スポーツ)は――いや遊びだからこそ――真面目にやらなければならない。「パン食い競争」(最近は少なくなったが)が笑えるのは、競技者が真剣そのものだからだ。のどかな「玉入れ」だって、見る方にはそれなりの力が入る。中学生のころ、私は「棒倒し」が大好きだった。いったん競技が始まれば、敵が悪ガキだろうが、誰だろうが、思い切って突入することができる。闘争心の全面開放が許される数少ない機会だった。

 人々の生活がどんどん自然から遠ざかっていく都会にあって、運動会は数少ない地域におけるハレの世界である。だから、お父さんたちには、自分の子供をビデオに収める手をときには休め、子供たちの躍動する姿をその目で見てほしい。

 歯を食いしばっての疾走や、体操演技での満面の笑顔に、ときおり崇高なものを感じるかもしれないから。

(芳地隆之)

ご意見フォームへ

ご意見募集

マガジン9条