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いま、山本周五郎が経営者だったら。企業のセーフティネット化を考える。斎藤駿(カタログハウス相談役)

斎藤駿 さいとう すすむ●1935年東京都生まれ。出版社の編集者を経て、1976年に(株)カタログハウスの前身、日本ヘルスメーカーを設立。1982年に「通販生活」を創刊。著書に『100冊の徹夜本』(カタログハウス)、『なぜ通販で買うのですか』(集英社新書)がある。

はじめに

 すごくうかつな話だが、08年暮れにテレビで放映された年越し派遣村の光景を見るまでは、わが国の地盤がこれほど歪んできているとは気づかなかった。気づきたくないという無意識が働いていたんだろと冷やかされそうだが、私の頭の中ではパキスタンやイラクの子どもたちのほうが優先順位トップだったので本当に気づかなかった。

 あわてて貧乏や格差を語るテキストを何冊か読んで考えてみた。当然のことながら、貧乏の生態分析が主眼で貧乏軽減対策はつけ足しの本ばかりだった。貧乏対策に奇想天外な妙案があるはずはないから、どのテキストの軽減対策もおおむねは次の3本くらいに収れんされていた。

(1)市民同士の相互扶助

(2)国のセーフティネット充実

(3)企業のセーフティネット義務

 何冊かのテキストを読んでいるうちに、貧乏対策というか、貧乏とのつき合い方なら社会学者や経済学者の本よりも、ひょっとして山本周五郎の貧乏時代小説のほうがテキストとして有効かもしれないぞ、と思った。

 貧乏を語らせて山本周五郎の上をいく人はいないし、時代小説はそのときどきの現代人が髷を結って活躍する現代小説だからだ。そこで描かれる貧乏対策は小説の登場人物によって語られ、実行されるからだ。貧乏への取り組みが血肉化されて語られていると言ったらいいか。その意味ではNGOの人たちが書いているテキストに近いが、助けられる側の屈折、助ける側の無意識の優越感といった人間観察は小説家だからさらに深い、と言ってもNGOの皆さんに叱られることはあるまい。

 あるいは、どんな対策システムをつくっても、それを動かす人たちの熱意や真心が注入されなければシステムは機能しない。そんな熱意や真心の事例つきシステムの物語化が、経済学者や社会学者の理念的、生態分析的テキストと決定的に異なる小説テキストの長所だ、と言っても学者の皆さんに叱られることはあるまい。

(1)と(2)については、昭和30年代に山本周五郎が書いた貧乏小説から今日の貧乏に共有されている問題意識をとり出すよう心がけた。周五郎を読んだことのない若い人たちには、ぜひ引用した小説を読んでいただきたい。私とはまた異なったあなたの解釈が出てくるかもしれない。

(3)についてはさすがに山本周五郎は書いていないので、私のオリジナル。といっても私の経営者観は山本周五郎につよく影響されているので、全くのオリジナルというわけではない。企業のかたちは今すごくゆれているので、貧乏の軽減に有効な雇用対策や格差対策についての説得力のある主張なんてだれにも語れない。とくに貧乏の発生に大いに責任のある経営者たちは、とても自分の口から「企業セーフティネット論」なんて語りたがらない。私も「アルバイト」や「派遣」を何人も雇用している経営者なのであんまり語りたくない一人なのだが、ここはひとつ、山本周五郎から勇気をもらって語ってみようと思う。企業のセーフティネット化は雇用される側と雇用する側が組んずほぐれつしないと本物にならないからね。

 ところで、何冊かのテキストを読んでいて気づいたことがあった。近頃は「貧乏」よりもやたら「貧困」が頻用されていることだ。とても気に入らない。「貧困」にはまるで生活的、人間的な匂いが感じられないもの。貧困人、貧困神、貧困ゆすり、貧困くじなんて言うか? もちろん、「貧困」が文語だってことくらい知ってるよ。でも、「貧乏」が文章から消えてしまったら、そのうち死語になってしまうのではないのか。経済学においても昔は「貧乏」が使用されていたのだ。私が大学に入った頃は経済学者、河上肇の『第二貧乏物語』(完全版・三笠書房51年刊)が左翼学生の必読書、これを読まずに社会変革は語れないとされていた。生活の苦しさを表現するときはやはり「貧乏」でないと実感は伝わらない。

 待てよ。「貧乏」より「貧困」が使われるようになった理由は、ひょっとすると「貧乏」が恥をかかせる侮蔑的な言葉だ、と思われているせいかもしれない。冗談じゃないぞ。「貧乏は自己責任から発生したものではないのだから、恥ずかしがることはないんだ」と説明する人自身が、相手に恥をかかせると思って「貧乏」を自主規制してどうするの?  自己責任を感じていようといまいと、貧乏に落ち込んだ本人にとっては、貧乏はいたたまれないくらいに恥ずかしいものだ。貧乏は恥ずかしいんだよ。貧乏を恥ずかしがらない状況とは、国民の半分くらいが貧乏になっている場合だけなんだよ。

 たとえば、私の幼少期から青年期に至る昭和10~30年代までは、貧乏人のほうが社会の多数派を構成していた。私は昭和10年に東京は駒込神明町の三軒長屋(借家)で生まれたが、近所は貧乏人だらけだった。近所でいちばん有名な貧乏人は志ん生一家で、私の姉は馬生と同級生。貧乏人のほうが多数派だったから、だれも貧乏を恥ずかしがってはいなかった。小学校(国民学校)3年生のときに学童疎開で栃木県烏山のお寺に避難させられた。国は命令しただけで日々の食糧まで担保したわけではなかったので、このとき生涯忘れられない飢えを体験させられた。しかし、このときも飢えを恥ずかしいとは思わなかった。学校ぐるみで疎開してきたからだ。同じように飢えている友だちに対して、自分の飢えを恥ずかしがるはずはない。

 敗戦になって学童疎開が解散されたとたん、貧乏が恥ずかしくなった。家を焼け出されたわが一家はほぼ着のみ着のままで栃木県小山市郊外の村にある親戚を頼ったが、疎開組は極少数派だったから小学校へ持っていく弁当のことで地元の同級生によくからかわれた。あちらは白米、こちらはよくて麦めし、しばしば配給のふすまでつくったパンだったからだ。来世は農家の子に生まれてこようと心に誓ったくらいだ。

 そんな少数派としての貧乏人の恥ずかしさを体験している私だから、それにこんなおかしい社会をつくってしまったのはそもそも私たち年長世代だから、若者を苦しめている今日の「貧乏」について発言する資格もあるし、義務もある。昔の貧乏と今の貧乏は性格が違うから安易に比較しないでよという異論もあるらしいけれど、なに、貧乏の恥ずかしさ、つらさに昔も今もあるもんかい。

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時代小説家、山本周五郎が現在に生きる経営者だったら、
果たしてどのような「貧困対策」をとったのか?
彼の小説を題材に、企業のセーフティーネットについて、
経営者の立場からの思索と提言を、全7回でお送りします。
来週は「将監さまの細みち(昭和31年)」を題材に、
いよいよ本題に入っていきます。お楽しみに! 

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