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年末年始合併号特別対談「〜憲法改正、私はこう考える[2007-2008]〜伊藤真(伊藤塾塾長)×小林節(慶応義塾大学教授)」

〈その1〉2007年の憲法論議をふりかえる

「マガ9」対談・年末年始特別企画ということで、読者待望のこのお二人に登場いただきました! 現在のところ、伊藤先生は9条護憲派、小林先生は9条改憲派のスタンスですが、立憲主義や民主主義、憲法そのものについての考え方は、ほぼ同じ。ということで、今回の対論では、主に9条に関するお二人のそれぞれの考えを聞きました。まずは、2007年を振り返ってひと言! のはずが、このテーマだけでも興味深い発言の数々となりました。かなりの長文ですが、冬休みの間、じっくりとお読みください。

伊藤真●いとう・まこと
伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長。1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。著書に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。『憲法の力』(集英社新書)など多数。

小林節●こばやし・せつ
慶應義塾大学教授・弁護士。1949年生まれ。元ハーバード大学研究員、元北京大学招聘教授。
テレビの討論番組でも改憲派の論客としてお馴染み。共著に『憲法改正』(中央公論新社)、『憲法危篤!』(KKベストセラーズ)『憲法』(南窓社)、『対論!戦争、軍隊、この国の行方』(青木書店)など多数。
 

■国民投票法の成立について

編集部

 まずは、2007年を振り返って、いろいろな政治的な動きや憲法に関する動きについてお聞きしたいと思います。まず憲法にとって一番大きかったのは、5月に憲法改正のための国民投票法が成立したことでしょう。この制定過程において、お二人の考え方の違いは国会における参考人としての証言からも明らかでしたが、成立した今は、どのように考えていますか?

小林

 私は、国民投票法案が可決されて、国民投票法ができたことは良いことだと今でも思っています。それから、できた内容も、人間がつくるものである以上、完璧はあり得ないという観点からいけば、今、世界中で調査して考え得る最も適当なものができたと思っています。もちろん不満な点はありますけれども、それを言って壊してしまうよりも、付帯決議もついていますから、不満はこれから3年の間に直していけばいいということで、できたことも、できた内容も、私は是とします。

編集部

伊藤先生はいかがですか?

伊藤

 私は、この国民投票法ができるに至った背景ですとか、経緯ですとか、その後の流れなども考えていくと、小泉さん、安倍さんの流れの中で、あの自民党の新憲法草案、それをまさに通そうという目的のためだけにつくっているのではないか。本当の意味で、この国の憲法をよくしようという思いでつくり上げられたというふうには思えなかったものですから、まず動機において不純であるというところが、最初に気になるところなんですね。

 それから、96条があるわけですから、憲法改正の手続きというのはどこかでだれかが決めなければいけないことであることは確かだとは思っています。私も、今の憲法のままでいいとは思っていませんから、そういう意味では、改憲論者と言われても別に反対はしません。

 ただ、今のこの流れの中でつくってしまっていいのかというところが、一番の疑問点でありました。できてしまった後は、いかにそれをうまく使いこなすか、国民がムードや雰囲気に流されずに、正しい国民投票の判断ができるようにするには、どう力をつけたらいいのか、そちらのほうに考えを集中していこうというふうに、今は思っています。

小林

 ちょっと補足していいでしょうか? 国民投票法ができる過程で、いわゆる護憲派の人々は、手続きを先に進めないことによって、改憲論議を進めないとする姿勢が1つと、もう1つは、今、伊藤先生が言ったように、あの自民党の憲法改悪案を通す手段としての国民投票法であることがはっきりしている、というふうに指摘することによって、だからこの手続きは改悪への道だから止めなきゃと。いずれにしても、護憲派はこの議論を止めようとしたんですね。

 そうこうしているうちに主権者である国民の総体と憲法が縁遠いものになってしまう。つまり、憲法改悪右翼マニアと護憲左翼マニアの一部の人々だけが熱中していて、国民の大多数には、憲法?関係ねえっていう状態になってしまっている。

 そうすると、今の状態でいくと、国民的討論も実質的に経ないうちに、一部の改憲右翼マニアが、国会対策的に、党議拘束までいって力を発揮して押し切ってしまう危険性があるからこそ──自民党の案が改悪であることは、私は方々でたくさんしゃべっています。つまり、改悪論者に表に出てきてもらって、堂々と討ち取る場面を設定するためにも、これは一歩前進して、舞台の上で受けて立つべきではないかという観点なんです。

 さらに言うと、伊藤先生と私は内容では意見が一致しますので、自民党の憲法改悪案を討ち取ることは可能だと思っているんです。

 そこが護憲論者というのは、その土俵に乗ることが負けというか、そういう議論をすることにおびえというか、嫌悪というか、示すんですけどね。そこは、ちょっと違うんじゃないかと、思うんです。

編集部

 国民投票法の成立をどう考えるべきか、という議論においては、憲法9条を守りたい、変えたくないという護憲派の中でも、かなり割れていましたね。実は、「マガ9」スタッフ内でも、かなり喧々諤々やりました。

伊藤

 割れましたよね。しかしせっかく、憲法改正に直接的に関わる法律がつくられるわけですから、その過程で、もっと憲法自体の論議ですとか、憲法改正ってどういうことなのかということを、国民を巻き込んだ議論ができたら、もっと良かったのに、というのは思います。

編集部

 たぶん今でも多数の国民は、国民投票法の内容はおろか、成立したことさえ、認識していないでしょう。

■憲法を知らない国民、そして政治家

小林

 この憲法のもとで60年も過ごしてきて国民は、一般常識レベルで憲法って何なのかとか、改正ってどういうことなのかとか、理解していない。だから、自民党の改正草案が何を意味しているのかということを、一部の確信犯は別としてわかっていない。実は書いていたり参加している自民党の議員たちもわかっていないんですよ。私が議員に警告を発すると、「先生、何でそんなことにこだわってんの?」と、本気で。おとぼけじゃなくて、私が何か意味不明なことを言っているという扱いをするほど、彼らの教養の中に「憲法」はないんです。

編集部

 なぜそういうことになってしまうのでしょうか?

小林

 一つには、何がいけないかというと・・・戦後60年、初等、中等教育の社会科の教師とかジャーナリストが、きちんとした憲法常識を共有して、憲法を国民に伝えてこなかった。その姿勢の根本に何があるかというと、彼らを教育した憲法学者の8、9割が護憲派で、その人たちに教育された「改憲論議は危ない、かかわっちゃいけない、憲法9条がいささかでも改正されたら──僕は、改正されればもっといいものになると思っているのだけれど、──憲法が改悪されたら明日、戦争になる。あなたの息子が戦争で死ぬ」そういう次元の、わけのわからない話をし過ぎて、憲法論そのものがタブーになっていったところが問題だと思うんです。

 改憲派のほうは、戦争に負けたことによって体制を変えてもらってありがとうのはずなのに、「悔しい、もとに戻したい、明治憲法こそ我らの憲法」と、そういう人たちしかいなかったのが悲劇なんですよ。

 で、結局は、国民が憲法に関する無教養状態にどっぷり。だから、今回の国民投票法案でも、国民も政治家もまともな議論ができなかった。そして最後は、政局絡みと力任せで国民投票法が成立した。

 そういった現状を見ていると、伊藤先生のおっしゃることは確かなんです。こんなやつらに草案つくらせたり、審議させたりさせ、この先に改憲、大丈夫かと。だけど、60年の長い目で見ると、今こそチャンスであって、護憲派も改憲派もお互いに、醜いやつは醜い姿で土俵の上に出させちゃうべきだと思うんですよ。

■憲法論議を避けてきた罪

伊藤

 こういう改憲、護憲の議論自体が、改憲派は改憲派の内輪で盛り上がって、護憲派は護憲派の内輪で盛り上がって、それぞれ改憲、護憲の立場の違う人が議論をする、その前提となる土俵もなかった。議論をするということに意味があるんだということすら、多分あまり認識されてなかったんだろうと思います。改憲だろうが護憲だろうが、まず議論する土俵の共有といいますか、例えば憲法とは何かとか、何のためにあるのかとか、そういう大前提の共通基盤があって、初めて議論って成り立つわけなんです。その共通基盤をつくろうという努力を、双方ともにしてこなかったなというのは、すごく感じます。

 私も、20年前から、「憲法の話を聞いてください」というふうにさんざん言っても、ほとんど関心は持ってもらえなかったですから。一部の司法試験の受験生のように試験などで憲法に利害関係がある人しか、話を聞いてくれないわけです。それは本当に教育の根本的な問題だったんだろうなと思います。

 この国が、いまだに立憲民主主義の国になり得ていないということの根本の原因は、60年間、結局国民は、ある意味では政府の考え方なり、その作戦にうまく乗せられてしまった点にある。結局、護憲派のほうもうまいこと、実は結果的に見ればコントロールされて、ここまで来ちゃったんじゃないかという思いは、すごくあります。

 国民投票法ができ、3年後には、具体的に発議していくことができるという段階に入れば、さすがに、そんなにのんびりしたことは言っていられないはずです。本質的な議論をしたり、もっと根底における憲法的常識を、国民で共有していこうという動きにしていかなければいけないと思いますね。

■見せかけの凪の状態に安心するな

小林

 このままいくと、2年半後に自民党が、今回、国民投票法をつくったときと同じで、力任せに、実質議論しないで改憲案を出してきますよ。

編集部

 2年半後にきっかり出してきますか? 5月に国民投票法ができたときは、ちょっと世論も盛り上がったというか、関心が高まりましたが、その後の参議院選挙のときに、結局は全然焦点にならなかったじゃないですか。そうこうしているうちに、政局ががたがたしちゃったので憲法の話どころではなくなってしまって。憲法審査会の設置についても、まだ衆議院でも行われていませんが、審査会ができてなくて喜ぶ護憲派もいるかもしれませんが。

小林

 それはあほですよ。議論に勝てる自信がないのか知らないけれど。審査会がないことにほっとしているんだもん。だけど、あろうがなかろうが、自民党の改憲マニアたちは、彼らの政治生命をかけてますから、時間が来たら、国民投票法を力任せに押し切ったと同じで、憲法改正、改悪ですけどね、提案してきますよ。

 だからこそ、うんと論争して、国民教育をしながら、かつ彼らのおかしな改憲案を直せるなら直してあげたほうがいい。直せないなら、それがいかにひどいものかということを、戦略的に国民に知らせなきゃいけないんですよ。

 改憲論議をやるとなったら・・・例えば、僕は、今の9条はいい9条だと思っていないですよ。それは、侵略戦争をしにくいからという意味じゃないですよ。だって、今の9条のもとで海外派兵を現にやっているじゃないですか。イラクとアフガニスタン。

 この間も、一ツ橋のシンポジウムで、この議論に対して、「今のこの不自由な憲法があるから、日本の政府はやりたいこともできなくて」なんて平気で言ってるから、僕、それに対して、「いや、もう現に海外派兵しているじゃないですか」と。でも、答える言葉がなくてにやにやして終わるんですよ。海外派兵をとめられていない護憲派は恥ずかしいと思わなくちゃいけないのに。

 だから、9条は直すべきなんです。9条の本来の精神に照らしてね。

伊藤

 そういう議論を表に出してやるべきなんですね。護憲派は、憲法が話題にならずに静かになっているのがいい状態だと、穏やかななぎの状態のようなものが、何か幸せのように誤解している人はいるかもしれない。憲法の、例えば今の状態なんかもそうかもしれないですね。改憲派の声が小さくなって、政治の中で改憲がテーマにならない、生活のほうが前面に出てきて。それは、ちょっとほっとするという気持ちになる人が、ひょっとしたらいるかもしれない。

 ですが、民主主義というのはそうじゃないですよね。考え方が違って当たり前であって、その違うものを表に出して初めて意味があるわけです。違う考えを心の中でこっそりみんなが持っていて、議論もしないで、穏やかにじっと何も動かずにいる。その状態がいい状態で平和な状態だとはとても思えないわけですから。やっぱりどこかでわっと全部出して、そこで言い合いをしたりがあって、初めて本当の平和なり民主主義なりを築けていくんだと思いますけれども、そういうことを経験しないですよね。

 ちょっと前に、ベネズエラでチャベス大統領の改憲案が否決されたじゃないですか。チャベスさんの言っていることは、よくわかるし、いいんだけど、でも、やっぱり権力をそうやって集中させることには反対なんだということで、学生がわっと盛り上がったり、国民的な議論をして、国民投票で否決して討ち取っていくわけじゃないですか。ああいうのが民主主義ですよね。日本は、ベネズエラ以下と言うときっとベネズエラに怒られちゃうんだろうと思うけど(笑)、そういう気がすごくするんだ。正しいなと思うんですよね。

チャベス大統領の改憲案が否決された・・・南米のベネズエラでは2007年12月2日、チャベス大統領が提出した改憲案の是非を問う国民投票が実施された。社会主義化を推し進めるとともに、大統領の再選制限を廃止するなど大統領の権力を大幅に強化する内容だったが、賛成49%、反対51%で否決された。

小林

 いや、ベネズエラは、日本以上ですよ。

伊藤

 きちんと改憲案が出てきて、それに対して国民が議論して、そして国民投票で否決して、大統領は、「この国に民主主義があるということがわかったでしょう」と。本当に、そのとおりですよね。「言論の自由も民主主義もある、でもおれはあきらめないからね」と。そういうのって、すごくいいじゃないですか。

小林

 そういう意味では、安倍政権はいい役割を果たしてくれたんですよ。あの人は、地位につくべき努力を一つもしないで地位についてしまった人。つまり、内的条件も外的条件も実はなしに、もののはずみでなってしまった人だから、その意味を正しく理解してはいなかったから、奇しくもばか殿を演じてくれたわけですよね。おかげで、憲法改悪派の本質が露骨に出てくれた。だから、我々も批判しやすかった。そのことに本人及び周りが気づいたから、参議院選の争点にしようとしたけど、避けちゃったんですね。でも自民党は大敗。争点にしなくたって、安倍政権の本質は丸見えでしたから、負けるべくして負けた。

編集部

 しかし福田政権になってからは、自民党は改憲のことを言わなくなってしまったから、どう考えているのか見えにくい・・・。

小林

 これを喜んでいる護憲派は、僕はおばかだと思うんですよ。つまり、自民党って巨大な政党で役割分担ですから、改憲マニアの人々は、それはそれとして3年間の時計は動いているわけで。この間、「あと2年半」とはっきり言われましたからね。その責任者に。自民党内改憲担当部門は、粛々と3年間動いてきて、はい、3年たちました。あとは、党の責任でみんな了解くださいね。いきますよ、どんと。これが自民党のやり方ですよ。だから、どっちみち来るんですよ。これは忘れちゃ困るんですよ。今の伊藤先生の“なぎ”というやつね。改憲話がおさまったと、今、ここでほっとしているのはおばかな話です。

■9条があるのに海外派兵、を黙認するのか

伊藤

 自民党というのは、自主憲法制定のために党をつくったようなものですから。参院選のマニフェストだって、一番最初に憲法改正が入っていました。口では言いませんでしたけど。

小林

 だからこそ、今、九条の会が細胞分裂のようにどんどん増殖していますけれども、それはそれでいいことだと思う。憲法論議の土台ができる。それから、護憲論議から逃げ回っていた護憲派の人たちが、護憲論議を少しずつするようになってきた。改憲論に対する議論をして。ただし、何度も言いますけど、まだそこから出ていない問題は、「今の憲法9条を守っておきさえすれば安全だ」「だから9条を触らせるな」という論調。でも、こういうことを言っているうちに、もうイラクとアフガンに派兵されているんです。この事実を、護憲派は恥じて、取り返す戦いを私はすべきだと思うんです。私がその点を指摘すると、「おまえもようやくわかったか。反省したのか」と護憲派は言う。反省なんかしてませんよ。前から、これはちゃんと考えているんでね。論点じゃなかっただけの話で。

伊藤

 最近、護憲派が、私も含めてそうかもしれませんが、小林節先生ですらこうおっしゃっているからというようなことで、引用して、勝手に利用しようとする人が多いんですよね。本当に失礼なことだと思うんです。先生がどういう思いでここまで来られて、そしてご自身の考え方を固めてこられたのか。まさに今の政治の現実を、多分、本当にこういう改憲、護憲派の議論をする中で、一番知っておられる方だからこその発言があるわけですね。

 しかし、9条を守ればいいじゃないのというだけでずっと来た護憲の人たちは、今、先生の指摘のように、結局何も守り得てこなかった。イラクも、アフガニスタンもそうだけれども、それこそその前の朝鮮戦争だとかベトナム戦争だって同じだし、もっと言えば安保条約の存在そのものだってそうじゃないですか。この安保条約の存在に対してだって、まともに、そこに議論を吹っかけて、おかしいだろうとやってこなかった。アメリカに守ってもらわなくてどうするんだ。じゃあ、どうやって日本の国防があればいいのかとか、そういうまともな、本当に現実的な議論をほとんどせずに、ただ9条を守ればいいんじゃないですかというので来ちゃって、このタイミングで、小林先生がアフガニスタンとかイラクの問題に対してこれはひどい、明らかに憲法違反だということを指摘されると、これを都合よく引用して、何か自説を補強するというのは、私を含めてそれはひきょうだと思うんです。前提が全然違うし、今までの現実に対してどう向き合うかという、その厳しさにおいても決定的に違うと私は思いますから。

小林

 僕は、自民党の中で孤独な戦いをやってきたわけです。無批判な御用学者じゃないんです。憲法でできることとできないことを彼らに教えてきたわけですね。だから彼らも、うれしいことに改憲論議を言うときは、必ず枕詞みたいに、「日本国憲法の三大原理を守ります」と言わなきゃ土俵に乗れなくなった。あれは、僕が教えたんですよ。ところが、「守ります」と言っておきながら、それはそれとして、良心の自由を侵害している、愛国の義務を負えとかわけのわからないことを平気で言うわけでしょう。

 それから、「平和主義を守ります」と言いながら、国会の相対多数決で海外派兵は幾らでもできますと。そういうことを抵抗なく言えちゃうところが、彼らの限界なんです。僕は、今、それと戦っているわけです。

 そうしたら多くの護憲派が、「おまえ、ようやくわかったか」とか、あるいは「遅くても反省したから結構」とコメントくれたり。俺を採点するなと(笑)。当事者じゃなかった人々がね。僕は、最前線で体を張ってやってきたんですよ。 伊藤先生とは、慶応大学で2年間、共同講座をやっていますから、それが伝わったんだと思うんです。毎週いろいろなことを報告してますから。だから、すごく伊藤先生に救われているんです。

編集部

 憲法の本質をわからない人だらけで、伊藤先生がいなかったら・・・さらに孤独だったかもしれませんね。

小林

 憤死してます。日本人やめてます。

伊藤

 小林先生がそんなことになったら、それは日本の損失ですよ。改憲論者にも、護憲論者にも。憲法にとっての損失です。

■憲法の「いろは」の「い」も知らない

編集部

 そういった小林先生が憤死しそうになる、憲法の誤用というか無理解というのは、具体的には、どういうことなんでしょうか?

小林

 今日も、自宅に届けられた月刊誌や週刊誌を見ていてびっくりしたのが、「改憲論議は下火になったけれども、もう一度やらなきゃいかん」と、コラムに書いているわけです。その論点に「今の憲法は権利が多過ぎて義務が少ない」と挙げ「今のこの乱れた世の中は、憲法のせいだ」と。こんなことをメディアで常識のように言わせておいて、それが世間に広がっちゃっているということは、憲法が何かを、本当にみんな知らないということでしょ?

 本当に、大学の憲法の教員、それから、それに習った初等、中等教育の社会科の教師及びジャーナリスト、これはみんながその感覚を持っていないんですよ。伊藤先生とか僕みたいにきちんと憲法を勉強した人は、そんなのは常識と思って、まさか説明する必要もないと思っていたわけですよ。 それがここに来て、ここ1、2年、その説明ばっかりですよ。そうすると、最後に多くの人は、「そうか、憲法ってそうなんだ。民法や刑法や商法と違うんだ」と言って、最後に、「でも、そういう考え方もありますよね。そうでない考え方もあっていいんじゃないですか」と。また、もとに戻っちゃうんです。

編集部

 法律が国民の自由を制限するものであるのに対して、憲法は国家権力側を制限して国民の自由を守るもの。私も学校ではなく、伊藤先生の本で学びました。

伊藤

 私は最近、「六法」という言葉は失敗だと思っているんですよ。

小林

 1プラス5法か。

伊藤

 憲法も法律と一緒にしちゃったじゃないですか。あれは、明治維新の後に、明治時代の法学者、箕作麟祥(みつくりりんしょう)だったかな、「六法」という言葉をつくっちゃうんですよ。当時は、フランスやドイツなんかの考え方を持ってきたりするんだけれども、まだ行政法もあまりできてなかった時代なんですね。そうすると、憲法というものの理解が日本人も不十分だし、法律の1つだろうとくくっちゃったわけですよね。全然違うわけですよ。憲法プラス5、ないしは行政法を入れて6で全く異質なんですよね。全く性質が違う別の法なんだというところが、まず出発点じゃなくちゃいけないのに、単なる行政法、国の統治の仕組みを定める行政法の一部になっちゃったわけです。

 憲法は、根本的に、行政法を含めたさまざまな法律とは違うんだという、それは本当にいろはの「い」の前くらいのことなんだけれども、そういう常識が共有できていないわけですよね。

 自分のこの理解で、例えば憲法は国家権力を拘束するものであって、法律とは全く違うんだということを、最近、逆向きに矢印を書いたりして話をするわけですよ。そうすると、いまだに批判されますからね。「憲法は、何も国家権力を拘束するだけじゃないだろう。私人間効力だってあるだろう。私人の間だって、憲法は適用するじゃないか」と一方で言われ。そして「法律は国民を拘束するというけど、国民に権利を与える法律だってあるだろう」と。そんなものはわかっているけど、根本の本質の違いをとらえなかったら、先へ進まないでしょう。

小林

 我々がなぜ存在するか。なぜ人間は1人で生きられない国家的存在かというところから、国家の存在は拒否できないとなると、国家は何のためにあるか。これは、やっぱりサービス機関ですよ。  となれば、国家は権力機関であって、個人を超えた権力を持つ。しかしそれには個人しかなりえないわけで、その個人というのは不完全なものだから、放っておくと“(北朝鮮の)金さん”になるから、それをさせないために憲法で縛るんですと。これは真理で、こういう国家のあり方論から語らなきゃいけないんだけど、僕もそういう教育を学校では受けた覚えがないんです。

■新しい憲法の概念は作られるものなのか

編集部

 「憲法の新しい概念」ということを言い始めた憲法調査会の委員の方たちがいましたが・・・憲法は、国家権力を縛るものだという考え方もあるけれども、これからは、国民と政府が手をつないで、一緒に国づくりをするのが新しい憲法の概念だなんていうことをおっしゃっていて。

小林

 保岡興治さん、あの人、中央大学出身の裁判官上がりの弁護士でしょう。あの人が言ってましたね。つまり、近代の憲法は悪しき権力を国民、大衆が管理する。でも、現代の権力は、あなた方が選んだ権力で、あなた方の延長線上にあるじゃないですか。だから、何であなた方と我々を──「我々」って、エスタブリッシュメント、権力者のことですが、──敵対関係に考えるんだと。権力、即ち国家と国民が協力する場面が必要だなんて言っている。しかし保岡さんも2世議員だからね。

 これは勘違いで、同じ国民同士でありながら、国家という異例の権力を持っている側と、一切権力を与えられていない非権力の国民と協力しろというのは、虎と猫とで協力しろというようなもので、猫ちゃん、踏みつぶされますよ。

伊藤

 どっちに有利な協力になるかって、それは明らかですね。

小林

 そう勝ち目ないじゃない。で、代議士は、選挙民を領民と思っていますよ。世襲議員なんかなおさらそうでしょう。それで、伊藤先生と一緒に衆議院の憲法審査会に呼ばれて、参考人として並んでいるときに、その手の議論をやっちゃった。

 例えば高市早苗さんというのは、自民党の勉強会の講師仲間として議員になる前からの知り合いですけれども、彼女は神戸大学で経営学をやって、松下政経塾を出た人ですね。でも法的教養がないからためらわずに、「法には授権規範と制限規範があって」と。だから、制限規範という側面で国民に義務を課すことだってあっていいと。これは、論評にも値し得ないぐらいぶっ飛んだ議論です。法の機能としてそういう説明があるのはいい。でも憲法というのは、国家権力担当者に、具体的に言えば、国家権力担当の生身の人間に授権するわけです。と同時に、その授権の範囲を超えるなと。確かにそういう機能はあるんですけどね。

 それで振り返って、「汝ら国民に義務を課す、即ち行動を制限する。そういうことがあったっていいじゃないですか」とか言うから、「いや、そういうものじゃない」と。それで僕が、最初は、「ばか」って感じで突っぱねたんだけれど、彼女が説明を求めたから説明したら、それに対して反論しないで、「私はそういう考えはとりません」で終わりです(笑)。

編集部

 あのやりとりについては、「衆議院TV」で私も拝見しました。憲法の原理原則を曲げてまで、どうしても国民にたくさんの義務を負わせたいのだなという風に受けとりました。

小林

 彼らの特色は、無教養の自由なんですね。よく、「知識は我らを解放す」とか言うじゃない。物を知ることによって、我々は、不安の暗やみがなくなって自由を獲得するとか言うけど、うそで、無知ほど自由なものはないんですよ。我々は教養があるから、していいことと悪いことを知っているの。彼らは、教養がない自由があるんです。白紙に何でも絵をかけちゃうんです。でも、言っておきますけど、それは護憲派の総本山である東大教授以下、戦後日本憲法学がいけないんですよ。きちんと国民に教育してこなかったから。これが1つ。

 それからもう1つは、彼らは単なる無知ではなくて、長いこと、権力を持ち続け過ぎた。権力は、私たちのもの。私たちに逆らうものは非国民という発想が、体質になっているんです。

 その原因は、長期政権なんですよ。つまり自民党の一党独裁が長く続いたため、彼らは2世議員、3世議員であって、中には4世議員なんて呼ばれているのもいますから。生まれついての権力者、別の世界の人なんですよ。

 だから、権力は自民党ないしはおたくさまのものではなくて、権力は国民、大衆のものだということを知らしめてあげなきゃ。その点では、この間の参議院選挙はよかったんです。自民党が権力を奪われてオタオタしているでしょ。政権交代が必要ですよ、政権交代。

■憲法が想定する世界、謙虚さと緊張感

伊藤

 憲法の誤解というか、勝手に、憲法というものはこうしたっていいんじゃないですか、こういう新しい憲法もあっていいんじゃないですかという発想は、人間とか人類に対する謙虚さが全くないんじゃないかと思います。人間が、人類として歴史を営んできた中で、やっぱり人間というのは弱い生き物だな、どんなにすばらしい人でも、権力の座につくと間違ってしまうこともあるかもしれないと気づき、そういう中で、憲法という道具を生み出して、間違いを最小限にしようと努力してきた。憲法という道具を生み出してきたのは人類の英知だと思うんですね。そういうことに対する謙虚さが欠けている。

 そして、自分にもひょっとしたらそういう弱さがあるかもしれない。だから、憲法というものは自分にとっても大切なものなんだ。合理的な、自己拘束として自分を縛る。そうでないと、人間というのはおよそだれもが危険なんだということを忘れてしまう。権力の座に長いこといると、謙虚さと全く無縁の生活に多分なるんだろうと思うので。

小林

 そうそう。みんな“金さん”化現象なんだよ。

伊藤

 憲法そのものに対してとか、人間そのものに対しての謙虚さを失ってしまっているんだろうなと思うんですね。

 小林先生のおっしゃった、政権交代が必要なのは全く同感です。やっぱり権力の座に1つのグループが長いこと居座り続けるということによって、そこで、甘い汁を吸うこともできるでしょうし、何よりも情報をコントロールできちゃいますよね。獲得する情報もそうだし、国民に流そうとする情報もそうだろうし。そして、その地位をひっくり返そうとしてもなかなか難しくなる。その地位に固定化されてしまうのが、普通だろうと思うんですね。いわば、それを仕組みでそうさせないようにしていこうというしかけが、憲法の考え方でもあると思うし。それを、現実の政治の中に生かしていかないといけないわけです。

 憲法は、だれもが知っている三権分立。だれにも権力は集中しちゃいけない、固定化させちゃいけない、お互いに監視、監督し合わなくちゃいけないという根本で、でき上がっているわけです。

 ですから現実の政治も、何らかの形で交代をして、監視、監督し合う。そして、その利権なり情報なりを特定のグループだけが独占するようなことがあってはならないんだ。常にチェックし合う、批判し合うという緊張関係が必要です。その緊張関係というのは、政治家グループ同士の緊張関係もそうだし、国民と政権担当者の間の緊張関係も同様です。

 2世、3世議員というのは緊張がないんだと思うんですよ。精神の緊張というかな。人間としての緊張というか。国民から託されて政治をしていて、いつひっくり返るかわからないぞ、自分たちだってあなたの側にいつでも戻っちゃうから、だから、今、頑張りますという緊張です。自分の政策を実現するためには、国民を説得して、国民にとって幸せになる政策ですから、これは実現しますということを一生懸命説得しないと、いつひっくり返るかわからないわけじゃないですか。そういう緊張関係を保つことの中で、より間違いが少なくなり、よりよい方向に進んでいく。それが、憲法が想定する世界だと思うんですよ。それが、現実にほとんど機能していない。そこは、この国の非常に不幸な面の1つだと思います。

写真:岸圭子
構成:塚田壽子(編集部)

次回は、いよいよ9条をめぐる対論に入ります。
9条の精神を生かした改正とは? その場合の国際貢献はどうする?
自衛軍のコントロールはどうやって? 日米安保との関係は?
などなどお二人の考えをさらに聞いていきます。お楽しみに!

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