今週の「マガジン9」

 天下国家を語ることの違和感のようなものが私にはあります。「明日の日本はどうあるべきか」みたいなテレビの討論番組で、パネリストたちが口角泡を飛ばして議論する姿を見るのも苦手。己が国を背負ったかのような語り口に引いてしまうのです。
 政治に関心がないわけではないのに、どうしてだろう? そんなことを考えているとき、書店で『近代の呪い』という本が目に入りました。
 著者の渡辺京二氏には、近代以前の日本人の暮らしを外国人がどう見ていたかについて書いたロングセラー『逝きし世の面影』や、ペリーが日本に来航する以前の蝦夷地で、日本人とアイヌ人、そしてロシア人がどのように交流していたかを綴った大佛次郎賞受賞作『黒船前夜』(同書は以前、マガ9レビューで紹介しました)などの作品があります。
 『近代の呪い』は、渡辺氏が地元熊本で行った講演を基に書かれたものです。同氏はそこで、近代国家の始まりとされているフランス革命は様々な共同体(コミュニティ)を破壊し、国と個人を直接向き合わせるようにした、それがはたして自由・平等・博愛の理念に資するものであったのか、と疑問を投げかけています。
 近代以前の日本の民衆は「上の人たちがやっている事は自分たちとは関係ないとして、徹底的に無視」していたと渡辺氏は言います。士農工商の身分制度にがんじがらめにされていたという私たちのイメージとは違って、「民衆世界が上級権力によって左右されない自立性をもって」いたのだと。
 ならば、どうして近代国家が民衆に受け入れられたのか。理由は、それまでの歴史に例を見ない急速な経済発展のおかげです。19世紀後半から現在にいたるまで、技術の急速な進歩により、私たちの生活はどんどん豊かになりました。とりわけ戦後の高度経済成長時代は、昨日より今日、今日よりも明日がよくなると思えた。だから、私たちは「上の人たちがやっている事」を無視、あるいは大目に見ることができたのでしょう。
 しかし、それは近代以前の人々の自立性とは別物です。その証拠に、成長のスピードが鈍化し、貧富の差が拡大している時代にあって、少なからぬ人々はナショナリズムに収斂されているように見えます。「上の人たち」は「上の人たち」で、私たちの生活のなかに、いろいろと手を突っ込んでくる。そこにいまの時代の閉塞感の原因があるのではないでしょうか。
 とすれば、私たちに必要なのは、国と個人の中間にある様々な共同体をつくり直すこと。それによって「上級権力によって左右されない自立性」を取り戻せるかもしれません。マガジン9のような集まりもそのひとつかも──。渡辺氏の本を読んで、そんなことも考えました。

(芳地隆之)

 

  

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