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もくじへ マガ9的!2006ワールドカップ
ワールドカップ光と影
 
いよいよ始まりました!ドイツワールドカップ。
毎夜の熱闘に睡眠不足の人、続出のニッポン列島ですが、
『マガジン9条』でも、ワールドカップにちなんだコラム&現地レポートをお届けします。
まず、第1回は、「ドイツサッカーの<奇蹟>と忘れ去られた<過去>」。
ドイツサッカー協会が、戦後60年を経た今、
ナチスドイツの時代における自らの過去を明らかにしたという姿勢について、考えます。


第1回
ドイツサッカーの<奇蹟>と
忘れ去られた<過去>


2005年5月に、ベルリンに創られ一般に公開されている「第二次世界大戦でヨーロッパにおいて、虐殺されたユダヤ人のための、慰霊碑」。 ユダヤ人の世界的建築家、ピーターアイゼンマンによってつくられたこの碑は、様々なイメージを想起させる2,711個の巨大な長方形の集合体からなり、見る人に圧倒的な印象を受け付ける。

開幕戦のコスタリカ戦を、
(4−2)の勝利で飾り、
よろこぶドイツサポーター



イタリアのサポーター
(ガーナに2−0で勝利)



クロアチアのサポーター
(ブラジルに0−1で敗戦)


復興の始まり

 去年、日本で『ベルンの奇蹟』というドイツ映画が公開されました。舞台は、第二次世界大戦終了から9年が経った、1954年にスイスで開催された第5回ワールドカップ(W杯)。主人公はドイツ西部、ルール工業地帯の町、エッセンに住むマチアス少年です。

 前回1950年のブラジル大会に、敗戦国ドイツは参加を認められませんでした。その前年、東西に分断されてW杯どころではなかったこともありますが、戦争で疲弊したヨーロッパにW杯を主催するだけの余裕のある国はなく、唯一立候補したブラジルで開かれたのです。1954年のスイス大会はドイツにとって戦後初めてのW杯でした。

 ちなみに日本も、1951年のサンフランシスコ条約締結により国際社会への復帰が認められ、スイス大会からW杯への参加が認められます。しかし、日本が本大会の桧舞台に上がるには、それから44年を待たなければなりません。

 さて、大のサッカー・ファンであるマチアスですが、地元クラブチームのヘルムート・ラーンがドイツ代表フォワード(FW)として出場するスイス大会に行きたくてしかたありません。そんなとき、ソ連から父親リヒャルトが帰ってきます。リヒャルトは戦後10年に及ぶ抑留生活で、すっかり生きる気力を失っていました。しかも、父親不在の間、戦後アメリカの影響を受けて育った子供たちは、古きドイツの厳格な父親を理想とするリヒャルトとことごとく対立します。

 父親にとってはサッカーも最悪なもののひとつでした。彼が幼少だった20世紀初めのドイツでは、サッカーはアルコールと同じく、若者を「中毒」にするものと見なされていたのです(サッカー発祥の地イギリスでフーリガンが登場したのもこの頃でした)。

 ところがマチアスの情熱に押されて、ドイツ対ハンガリーの決勝戦が行われるスイスのベルンへ向かったリヒャルトは、息子の英雄であるヘルムートの決勝ゴールによって祖国が優勝する光景を目の当たりにします。それは、リヒャルトだけでなく、敗戦に打ちひしがれた多くのドイツ国民に自信と希望を与えるものでした。

 そして「ベルンの奇蹟」の後には、ドイツ経済の高度成長、いわゆる「奇蹟の復興」が始まります。一方のドイツ代表チームも、第10回西ドイツ大会(1974年)、第14回イタリア大会(1990年)を制覇し、優勝回数でブラジル5回に次ぐ3回の強豪チームになりました。


スウェーデンのサポーター
(トリニダード・トバコと0−0で引き分け)



ブラジルのサポーター
(クロアチアに1−0で勝利)


祖国の英雄から絶滅収容所へ

 しかし、「奇蹟」はかつてドイツサッカー界に名を馳せた2人の代表選手の記憶を置き去りにします。ゴットフリート・フクス(1889年生まれ)とユリウス・ヒルシュ(1892年生まれ)。ドイツ南部、カールスルーエのクラブチームに所属するFWコンビです。

 1912年に開かれたストックホルム・オリンピックでのロシア戦で10ゴールを上げるという離れ業をやってのけたフクス(この記録はいまだに破られていません)、同年に行われたオランダとの国際試合で4ゴールを上げたヒルシュ(試合は両雄一歩も引かぬ5対5の名勝負でした)――2人のプレーは伝説として語り継がれていました。

 それが突然、沈黙に変わったのは、1933年にアドルフ・ヒトラー率いるナチスが政権を獲得した直後です。反ユダヤ主義を公然と掲げる「総統」ヒトラーに、いち早く忠誠を表明したのが当時のドイツサッカー連盟(DFB)でした。サッカー界からユダヤ人追放が始まったのです。

 フクスとヒルシュはユダヤ人でした。2人は現役引退後も属していたカールスルーエ・サッカー協会の会員資格を剥奪され、かつて「あんたのゴール、最高だったよ!」と気軽に声をかけてきた地元のサポーターも、彼らを避けるようになりました。DFB内では、反政府的な考え方の持ち主を当局に密告したり、反ユダヤ主義的な言動を平然と行ったりする者まで現われます。

 フクスは1937年、カナダへ亡命。ヒルシュは「祖国」に残りました。「血統」がどうであろうと、自分が「ドイツ国民」であることに変わりはない――第一次世界大戦にドイツ軍兵士として戦い、勲章を受けているヒルシュには、祖国が自分にそれ以上の仕打ちをするとは思えなかったのです。

 しかし、1941年からヒルシュは他のユダヤ人と同様、外出するときはユダヤ人を示す「ダビデの星」を服に着用することを義務づけられます。さらに1943年には「労働力」としてアウシュヴィッツ行きを命じる書類を受け取りました。親しい郵便配達人に「危険だからドイツを去るよう」強く勧められたにもかかわらず、祖国に留まったヒルシュは、それから数週間後の3月1日、カールスルーエからアウシュヴィッツに移送されます。その2日後、ポーランド南部のユダヤ人絶滅収容所から娘宛に送ったバースデーカードが、ヒルシュの消息を示す最後のものでした。


セルビア・モンテネグロのサポーター
(オランダに0−1で敗戦)



オランダのサポーター
(セルビア・モンテネグロに1−0で勝利)

過去への落とし前

 戦後60年が経った2005年9月、歴史家ニルス・ハーヴェマン著『ハーケンクロイツ(カギ十字)下のサッカー』が出版されました。1933年から1945年のナチスドイツの時代におけるDFBについての記録です。DFBは2006年4月、スポーツ界、学術界、政界、教会のトップレベルの関係者を集めて同名のシンポジウムを開催し、DFBが「過去」とどう対峙するか、2日間にわたって議論が交わされました。

 テオ・ツヴィンガーDFB会長はシンポジウムの最後にこう述べています。

 「私たちはこの2日間で、私たちの暗い過去により近づこうとしました。(中略)でも、あえて強調したいのは、ナチス時代におけるDFBの過去の清算はその途上にあるということです。今回のシンポジウムは始まりでも終わりでもないのです」

 戦後40年の議会演説で当時の西ドイツ大統領、リヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカーは「過去に目を閉じる者は、未来に対しても盲目になる」と語りましたが、戦後60年経ってツヴィンガー会長は、DFBが過去と向き合いながら未来を見据えることを宣言したのです。

 DFBは2004年に、サッカー界において自由や人権の擁護に貢献した人や団体を称える「ユリウス・ヒルシュ賞」を創設しました。第1回の受賞者はバイエルン・ミュンヘン。2002年の日韓W杯の最優秀選手に輝いたドイツのゴールキーパー、オリバー・カーンの属する名門クラブです。

 戦前のバイエルン・ミュンヘンの会長、クルト・ランダウアーはユダヤ人であったがゆえに解任され、スイスに亡命するのですが、チームはナチスからの圧力に屈せず、その後もランダウアーのもとを訪れたといいます。そして戦後、ランダウアーを会長に復帰させました。そもそもバイエルン・ミュンヘンには、戦前、戦中からフランス輸入の麦わら帽子をかぶったり、ボヘミア文化を愛したりと、異文化を好む選手が多かったそうです。

 このように統一ドイツとして初めての開催となるW杯を前に、DFBが自らの過去を明らかにしたのは、対外的な配慮もあったのでしょう。実際に、なぜ60年もDFBは沈黙を続けたのかという批判も聞かれました。それでも、DFBに、歴史に対して「自ら落とし前をつけよう」とする意志があることに変わりはありません。


メキシコのサポーター
(イランに3−1で勝利)



イランのサポーター
(メキシコに1−3で敗戦)

味方に飛ぶ罵声

 かつてベルリンの日本大使館に勤めていたころ、「大使館対抗サッカー大会」に参加したことがあります。

 各国4〜5チームずつ数組に分かれて、リーグ戦を行い、上位チームが決勝トーナメントに出場するというW杯と同じ形式。試合はハーフコートで行われたにもかかわらず、ピッチに立って5分と経たないうちに息が上がりました。

 縦横斜めを緩急つけて走り続けるサッカーは過酷なスポーツです。しかも敵は、この日のためにトレーニングを積み、揃いのユニホームに身を包んだドイツ外務省、ポーランド大使館、トルコ大使館、マケドニア大使館の面々。にわか仕立てのわれわれ日本大使館チームはFW1人を前線に置き、残りは全員でゴールを守るという「超」守備的布陣(?)で戦わざるをえませんでした。

 結果は3敗1分の最下位。なかでもドイツ外務省チームの強さは際立っていました。

 彼らはほとんどの時間、ボールを支配しても、決して気を緩めません。ちょっとでも味方が怠慢なプレーをすれば、他の選手から「サッカーをしろ、サッカーを!」と野太い罵声が飛んできます。お前、それでサッカーをしているつもりか? という叱咤、あるいは皮肉。相手チームが強かろうと、弱かろうと、自分たちがどうプレーするかが重要なのですが、これは「外国が批判しようと、黙っていようと、自分たちがどう歴史を認識するかが重要なのです」と言い換えられないでしょうか。

 ドイツのスポーツ・メディアやサポーターには「勝ちよりも負けを深く記憶する」傾向があると思います。たとえば2001年の日韓W杯の欧州予選。イングランドとの一戦でドイツはFWオーウェンやMFベッカムに翻弄され、1対5で敗れました。しかもブンデスリーガの常勝チーム「バイエルン・ミュンヘン」のホームグラウンドで。翌日の新聞は敗戦結果に「恥!」との見出しを掲げ、その後もことあるごとに、この試合の内容を批判的に取り上げました。

 これは、たとえば日本のメディアがかつてのドーハを「悲劇」として記憶するのとは、ちょっと違います。劇的な勝利よりも、惨敗の教訓を後々まで語り継ぐメンタリティといえばいいでしょうか。もちろん「自虐」的な態度ではなく、次の勝利のために記憶しておこうとする姿勢なのです。

 さて、今年のドイツW杯。残り時間9分でオーストラリアに3ゴールの大逆転を食らい、肩を落とす日本選手の姿を私は忘れないでおこうと思います。未来のために。
(文・芳地隆之 写真・富田那渚)

芳地隆之●ほうち たかゆき 
1962年東京生まれ。 大学卒業後、会社勤めを経て、東ベルリン(当時)に留学。東欧の激変、ベルリンの壁崩壊、ソ連解体などに遭遇する。ベルリンの日本大使館勤務を経て、現在はシンクタンクの調査マン。著書に『ぼくたちは革命の中にいた』(朝日新聞社)『ハルビン学院と満洲国』(新潮社)など。

富田那渚●とみた なお
神戸市出身、現在、ベルリン自由大学で環境問題を専攻。日独通訳の資格も取得し、学業と仕事の二束のわらじ生活。ベルリン市公認の「2006年ワールドカップ日本人アテンドスタッフ」として、ベルリンを奔走するなか、相手の懐にすっと入っていくキャラクターで、各国の人々の表情や街角に残る歴史の断片をカメラに収めてくれました。

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