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ワールドカップ光と影
 
第3回
無敵艦隊の弱点――
スペイン市民戦争は何を残したのか


注目のロナウジーニョ?


子供に大人気のゴレオ
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ジーコとパレイラのサッカー観

 私が選手にボールの扱い方を教えることなどない。選手は何でもできる。教えなければならないのは、ボールをもっていないときにどうプレーするかだ――ブラジルのカルロス・アルベルト・パレイラ監督は大会前、ドイツ紙のインタビューでこんなことを語っていました。

 敵のディフェンダーを巧みにかわし、ときに強引に中央突破してゴールネットを揺らすロナウジーニョ、カカ、アドリアーノらに、伝授する技術などないのかもしれません。パレイラがやるべきは、ボールをもっていない選手の動き、そして守る際の選手の意識の統一でした。

 パレイラは、コンディショニングトレーナーとしてブラジル代表チームに加わった、1970年のメキシコ大会で優勝を経験しています。その後は中東諸国で監督を務め、1982年のスペイン大会ではクウェートを、1990年にはサウジアラビアを本大会に出場させました。そして1994年のアメリカ大会では、監督としてブラジルを24年ぶりの優勝に導いています。

 しかし、帰国したパレイラを待っていたのは、賞賛と同じくらいの批判でした。あまりに戦い方がディフェンシブだというのです。この大会のブラジルの得点は7試合でわずか11点(決勝の対イタリア戦は膠着した試合展開で延長戦の末のスコアレスドロー。PK戦でブラジルが勝ちました)。卓越した個人技で攻め込んで、点の取り合いを制するような試合がなければ、たとえ勝っても、サッカー大国の国民にはフラストレーションがたまるのでしょう。パレイラがブラジルを離れていた1980年代、ブラジル代表は「黄金のカルテット」と称されたジーコ、ソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾの中盤を中心とした多彩な攻めを展開し、観客を魅了していました。

 しかし、彼らのW杯での成績は準々決勝進出が最高でした。いくら個人技が秀でた選手を集めても、それだけでは勝てない――当時のブラジル代表を分析したパレイラは、自分が監督になると組織的な守りを重視し、攻撃は天才的なストライカーに任せるスタイルに転じたのです。

 パレイラはゴールキーパー出身。若い頃は税務署にも勤めていました。現役時代の実績をジーコと比べれば雲泥の差ですが、今回の1次リーグの結果を見ると、2人のキャリアの差が指導者としては逆転したような気がします。


国際連合に加盟する120カ国を代表する「ユナイテッド・バディー・ベアーズ」が初めて手をつないだのが2002年、ベルリン。東京をはじめとするアジアやシドニーなどの「世界公演旅行」を終え、またベルリンに戻ってきました。7月までベルリンの大通り、ウンター・デン・リンデン(ベーベル広場)で休憩した後はウィーンへと旅を続け、その後は貧困に苦しむ子供たちのためにオークションにかけられます。 (詳しくはhttp://www.united-buddy-bears.com/)
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クラブと選手の幸福な出会い

 個人の能力の高さを組織的プレーが支えるブラジル・チームの中核にいるのがMFロナウジーニョです。日韓W杯優勝後の2003年夏、彼はパリ・サンジェルマンからスペインのリーガ・エスパニョーラのFCバルセロナ(バルサ)に移籍しました。

 バルサのライバルであるレアル・マドリード(レアル)がデヴィッド・ベッカム、ジネディーヌ・ジダン、ルイス・フィーゴなどヨーロッパ各国のスーパースターをかき集めていたころです。しかし、ロナウジーニョ加盟後のバルサは2005年、2006年とリーグを連覇し、2006年の欧州チャンピオンズ・リーグも制覇。ロナウジーニョは2004年と2005年、FIFA(国際サッカー連盟)の最優秀選手に選ばれました。

 彼とクラブとの出会いはとても幸運なものでした。2006年3月21日のリーグ戦、FCヘタフェとの試合前、7万人の大観衆はロナウジーニョの誕生日を祝って大合唱。あどけなさの残る彼の表情がさらにくしゃくしゃの笑顔になりました。バルサ・サポーターのロナウジーニョへの愛情は、W杯の決勝トーナメントでスペインがブラジルと対戦したら、サポーターはスペイン代表チームよりもロナウジーニョに声援を送るのではないかと思わせるほどです。

 スペインは、地方色の強い国です。たとえば、マドリードを中心としたカスティーリャ、イベリア半島がイスラム教徒に支配されていた時代の影響が色濃い南部のアンダルシア、バルセロナなどを含む南東部カタルーニャ、スペイン人とはまったく別の民族が生活し、いまも独立運動が続いている東北部のバスクなど、スペインは独自の文化と強い自治意識をもった地方の集合体といっていいでしょう。ピレネー山脈で西ヨーロッパと隔てられ、フランス革命の影響を――たとえばドイツほど――受けなかったせいか、彼らにとっては「スペイン国民」よりも、「カスティーリャ人」「カタルーニャ人」意識の方が強いのかもしれません。

 スペインはW杯の常連国であり、その力強い攻撃スタイルから「無敵艦隊」と呼ばれています。にもかかわらず、決勝トーナメントの途中で姿を消すことが多く、決勝までたどりつけないのは、「ナショナル」チームとしての意識が弱いからだとも言われます。


カタロニア讃歌

 1936年、スペインでは内戦が起こりました。同年2月に実施されたスペイン総選挙を僅差で勝利した人民戦線のアサーニャ政権に対し、同年7月フランコ将軍が蜂起したのです。これは人民戦線を支持する国際旅団の参戦、ヒトラーとムソリーニの独伊ファッショ政権によるフランコの後押し、またソ連の影響力が絡む複雑な様相を呈しました。

 英国の作家、ジョージ・オーウェルは国際旅団に加わった1人です。共和国側に立って戦ったバルセロナ市民たちを描いたオーウェルのルポ『カタロニア(カタルーニャ)讃歌』には、軍服もない、職業も様々な人々が登場します。ファシストの攻撃に対してバルセロナ市内にバリケードをつくる男たち、ズボンをはいて薪を割る女性、列車に乗って前線に向かう義勇兵、そして彼らを見送る市民……。国際旅団にはオーウェル以外にも多くの外国人たちが加わりました。たとえば、作家のアーネスト・ヘミングウェイ、戦後西ドイツの首相となる若き日のウィリー・ブラントなど、各国から有名無名の人々が、抑圧された人々の側に立つために集まってきたのです。

 『カタロニア讃歌』では、内戦当初、人民戦線とフランコ派の兵士が小高い丘を挟んで対峙する様子が描かれています。フランコ派のなかには、この戦争の何たるかさえわからぬまま銃をとらされた若者も少なくありませんでした。そして互いに装備も貧弱な両者が行った作戦のひとつが、自分たちの食糧自慢。「こっちには、はちみつ付きのパンがあるぞ」とか「ハムとチーズがおいしいなあ」と叫んで、敵の戦闘意欲を削ぐのです。そこに牧歌的な匂いがするのは、銃を向け合いながらも、彼らが互いに権力から遠い存在だったからでしょう。

 しかし、外国が干渉を始めると、内戦は悲惨さを増します。

 ソ連が実質支配していた国際的な共産党組織、コミンテルンは、スペインで人民戦線が影響力を増すことを警戒し、彼らを「トロツキスト、ファシスト、裏切り者」などと呼び始めました。そして、数千の人々を粛清。一方、フランコを支援するナチス・ドイツは1937年4月27日、空軍のコンドル部隊をバスク地方の都市であるゲルニカへ飛ばし、無差別爆撃を行い ます。無防備都市への空爆はきたるべき第二次世界大戦の実戦演習でした。

 コミュニストとファシストの両方から攻撃を受けるなか、カタルーニャ人、そしてバルセロナ市民は、勢力を拡大するファシスト軍に最後まで抵抗します。しかし、物量で圧倒的に優るファシスト軍は1939年4月1日に勝利宣言。フランコ将軍はその後、独裁体制を敷き、カタルーニャではカタルーニャ語の使用を禁止、アンダルシアの自治運動には弾圧を加えました。

 スペインの中央集権化は第2次世界大戦後、フランコが死を迎える1975年まで続くのですが、私には、FCバルセロナのサポーターの反中央意識がスペイン市民戦争の時代に始まり現在に至っているように思えます。そして、ロナウジーニョがFCバルセロナにとっての陽気な義勇兵にも見えるのです。


日本のベア(6/24)
代表とクラブへ向ける視線の違い

 ナショナルチームとクラブチームへ注ぐサポーターの視線は一様ではありません。

 1998年フランス大会。日本の1次リーグ敗退後、私はもっぱらブラジルとユーゴスラビアに注目していました。それぞれのチームのキャプテンがドゥンガとストイコヴィッチだったからです。ドゥンガはジュビロ磐田、ストイコヴィッチは名古屋グランパスの中心選手。それまでJリーグに来る有名な外国人選手はピークを過ぎたアスリートがほとんどでした。ところが、現役Jリーガーとして普段からテレビで見ていた2人は、ナショナルチームの主将としてプレーしているのです。応援にも自然と力が入りました。

 2002年日韓大会。日本の第1戦の相手がベルギーに決まり、「グループ(ベルギー、ロシア、チュニジア)突破は確実」といった楽観論が日本のメディアに漂い始めたころです。当時、ベルリンの日本大使館に勤めていたドイツ人女性が私にこう言いました。

「ベルギーは強敵。FWのウィルモッツは私のシャルケ04の選手。油断すると痛い目にあうわよ」

 シャルケ04はドイツ・ブンデスリーガのチームです。シャルケの本拠地であるゲルゼンキルヒェンはルール工業地帯にある都市。彼女はルール地方の生まれです。

 はたして彼女の予想は当たりました。日本戦でウィルモッツはオーバーヘッドキックでシュートを決めたのです(結果は2対2の引き分け)。シャルケ・サポーターである彼女は誇らしげでした。

 そして2006年ドイツ大会。開幕を前に、日本人の知人が言いました。

「正直言って、今回のW杯、自分のなかではあまり盛り上がっていないんだよね」

 日本代表にJ1清水エスパルスの選手がいないのが理由です。彼は清水市(現静岡市)出身。三都主アレサンドロは日韓W杯後、エスパルスから浦和レッズに移籍し、日韓大会でDFとして健闘した戸田和幸もイングランドのプレミア・リーグを経て、現在は東京ヴェルディに所属しています。

 地元クラブの選手が代表に選出されないと、感情移入もほどほどに「日本代表の実力はどのレベルなのか」といった冷めた目で試合を見てしまう――彼はやや自嘲気味に言いますが、試合前には「1次リーグ突破!!」、負ければ「決定力不足……」と乱高下を繰り返すメディアに比べれば、静かな批評眼の方が代表チームにとっては有益だと思うのです。
(文・芳地隆之 写真・富田那渚)

芳地隆之●ほうち たかゆき 
1962年東京生まれ。 大学卒業後、会社勤めを経て、東ベルリン(当時)に留学。東欧の激変、ベルリンの壁崩壊、ソ連解体などに遭遇する。ベルリンの日本大使館勤務を経て、現在はシンクタンクの調査マン。著書に『ぼくたちは革命の中にいた』(朝日新聞社)『ハルビン学院と満洲国』(新潮社)など。

富田那渚●とみた なお
神戸市出身、現在、ベルリン自由大学で環境問題を専攻。日独通訳の資格も取得し、学業と仕事の二束のわらじ生活。ベルリン市公認の「2006年ワールドカップ日本人アテンドスタッフ」として、ベルリンを奔走するなか、相手の懐にすっと入っていくキャラクターで、各国の人々の表情や街角に残る歴史の断片をカメラに収めてくれました。

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