雨宮処凛がゆく!

 東日本大震災から、もう6年が経とうとしている。

 あの頃、6年後のこの国や自分自身なんて、まったく想像できなかった。

 ただただ世界が終わってしまうような恐怖の中、スーパーやコンビニから消えた水や食料を買い求めたり、ネットで放射能についての情報を集めては何が正しくて何が間違ってるのかわからなくて混乱したり、津波の映像に泣いたり、情報がない中、結果的に原発近くに置き去りにされてしまった動物たちの映像を観ては眠れなくなってうちの猫をずっと抱きしめていたり、なんだか全部夢のような気がしてぼんやりしたり、そんなことを繰り返していた。

 原発事故から数日後、ある週刊誌から電話取材を受けた。原発事故についてどう思うか、という取材だった。自分の中でも何も整理されていなくて、ロクなことは答えられなかったと思う。だけどその時のやり取りで印象に残っているのは、記者の方がおそるおそるという調子で言った、「脱原発、反原発とかって言ってる人って、左翼っていうか、ちょっと特殊な人たちですよね…?」という言葉だった。

 その言葉に、私は「違うと思う」と言えなかった。原発が爆発して数日、まだこの国では脱原発デモは始まっていなかった。「原発反対」という言葉のハードルは、原発が爆発したにもかかわらず、なんだかとてつもなく高かった。ネット上で原発反対を言う人などは、「代替案を示せ」とか、なぜか攻撃されてもいた。そうして震災から一ヶ月後、高円寺で「原発やめろデモ!」が開催された。代替案も何もなく、ただ「危ねぇ!」「恐ろしい!」「安全だって言ってたのに爆発したじゃねーかコノヤロー!」という怒りの勢いのみのデモに1万5000人が集まったあの日、ポンと瓶の蓋が外れるように、「脱原発」という言葉は「解禁」された。

 なぜか「脱原発」と言えなかった一ヶ月。あれも一種の正常性バイアスだったのだろうか。

 そんなことを思い出したのは、小熊英二氏の『首相官邸の前で』を読んだからだ。

 同タイトルの映画については、この連載の343回でも書いた。本書にはこの映画のDVDもついているのでぜひ観てほしいのだが(名作!!)、3・11以降の脱原発運動の広がりを描いたドキュメンタリー映画を観て、そして震災直後の小熊氏の日記やその後の運動についての論文などを読んで、改めて、随分と変わってしまったこの国で、私たち自身も変わったのだということに気づかされた。

 ちなみに映画でも本書でも、20万人が集まった2012年の官邸前抗議が多く取り上げられている。組織ではない「首都圏反原発連合」の呼びかけに呼応して集まった人々。新築した家に一度も住むことなく原発事故が起き、避難してきた女性がマイクを握って官邸に怒りをぶつけ、やはり福島から避難している女性が「帰りたい、けど帰れない」と涙ながらに訴える。そんな中で大飯原発を再稼働させようとする政権に声を上げた人々の怒りが、当時の野田首相を話し合いの場に引きずり出した夏。

 本書の「波が寄せれば岩は沈む 福島原発事故後における社会運動の社会学的分析」は、戦後の日本社会と3・11以降のムーブメントを読み解く非常に興味深い論文である。

 この論文は、以下の3つの問いからなる。

1 原発事故後の官邸前抗議は、どのような人々に担われた運動であったのか
2 運動の高揚が選挙結果に影響を与えていないのはなぜなのか
3 日本における原発と社会運動の将来はどうなるのか

 以下、同書からの引用だ。

 これらのクエスチョンは、日本という特定の地域、脱原発という特定のイシューに、限定されるものではない。2011年以降、世界各地で大規模な大衆運動がおきた。代表的な地名を挙げれば、カイロ、ニューヨーク、マドリッド、台北、香港などがある。東京では大規模な脱原発集会が行われていた2011年4月から2012年9月は、カイロと香港の中間にあたる時期であり、ニューヨークやマドリッドとほぼ同時期であった。大規模な運動がおきながら、選挙結果にそれが十分に反映しないという点で、これらの現象は共通点を持っている。

 そうして原稿では戦後の日本の政治状況が分析され、小泉政権以降の「プレカリアート(不安定なプロレタリアート)」運動と、原発事故後、プレカリアート運動と関係のあった者たちが「原発やめろデモ」を呼びかけたこと、その後も運動の担い手たちが「認知的プレカリアート」だったことなどが指摘される。

 一方で、自民党の「衰退」にも多くの頁が割かれている。

 1991年には547万人だった自民党員数は、2013年には79万人まで減少。その背景にあるのは「グローバル化、新自由主義改革、そして日本社会の高齢化」。本稿によると、自民党愛知県連の党員数は1998年から2007年にかけて、13万5957人から4万5307人まで減少しているという。当然、得票率も落ち続けている。

 自民党の比例区得票数は、2012年衆議院選挙が1662万票、2013年参議院選挙が1846万票、2014年衆議院選挙が1766万票である。これらの数字は、自民党が民主党に惨敗した、2009年衆議院選挙の1881万票を下回っている。

 しかしながら、選挙で勝ち続ける自民党。それは「低投票率と他党の分裂・衰弱に助けられて」いるからだ。ちなみに自民党が民主党に敗れた2009年の衆議院選挙の投票率は、なんと69%。

 このときは、ほかの野党が民主党に選挙協力した。この選挙で比例区での民主党の得票は、2984万票だった

 2009年。たった8年前の話なのに、なんだか随分遠い過去のように思えてくる。

 そうして小熊氏は、3・11以降の社会運動を分析する。

 2012年、首都圏反原発連合の官邸前抗議以降、官邸前に集まって抗議するという政治文化が定着した日本。そんな政治文化を受け継いだ、2015年の安保法制反対運動。

 MCAN(首都圏反原発連合)やSEALDsは、21世紀の社会を象徴する運動である。彼らはフレキシブルで、不安定で、組織を持たず、インターネットで結びついており、特定の世代や属性の人々ではない。それは、原発産業や自民党に象徴される、20世紀の経済と政治のシステムとは、およそ異質である。異質であるがゆえに、彼らは20世紀の政治システムに、なかなか影響を持ちえない。また2015年夏の運動の高揚は、2012年の夏がそうであったように、長くは続かなかった。
 しかし、原発産業と自民党は、小さくなっていく岩である。それに対し、彼らに代表される新しい波は、強くなる傾向にある。組織を持たない運動には、必ず高潮と退潮が伴う。しかし20世紀の政治システムが、21世紀の社会と調和せず、機能不全が意識され、不満が蓄積するという問題は、そう簡単に解決しない。それが続く限り、21世紀型の運動は、今後もくりかえし、トピックを変えて台頭する可能性がある。
 そしてこの問題は、日本という特定の地域、脱原発という特定のイシューに限定されない。それは、グローバル化と情報化という、世界のすべての人々に関わる問題なのである。
 SEALDsの奥田は、2015年9月のインタビューで、2012年の官邸前抗議について、こう述べている。『あの時デモを観ていたから、いま毎週国会前で抗議をしている。いまの運動を見た次の世代が何かを始めたら、また新しいステージに入るのかもしれません』。日本社会は、安定と繁栄の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の時代から40年を経て、新しい段階に入りつつある

 3・11から、6年。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代から40年。そして「失われた」時代が始まって20年。

 たとえ原発事故がなくとも、私たちは原発に象徴されるような20世紀型の政治や経済の限界と向き合わざるを得なかった。そして6年前、はからずも、あらゆる「限界」が原発事故によって剥き出しとなった。

 そうして、多くの人が声を上げてから、6年。

 森友学園のことを受けて、政権支持率は落ちている。

 3・11から6年の日を前に、改めてこの6年間に起きたことを振り返りつつ、これからできることを考えている。

首相官邸の前で
(小熊 英二/集英社インターナショナル)

 

  

※コメントは承認制です。
第407回3・11から6年に思うこと。の巻」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    自分たちが暮らす社会について、根底から見直しをせまられたような出来事から6年。「反原発」よりも以前に、福島原発の電気を自分が使っていることさえ無自覚でした。しかし、3・11を機に仕事を変えた人、住まいを変えた人、政治へのかかわり方を変えた人…そんな人たちに会う度に、社会の奥底では確実に何かが変わり始めていると感じます。表面的には大きな変化が見えないとしても、社会の「行き詰まり」が変わらない以上、この動きが消えることはないのではないでしょうか。

  2. James Hopkins「反戦ネットワーク(2002/08)」賛同 より:

    magazine9編集部からのコメントの後がつづかないようなので、敢えて添えたい。
    きょう3月8日は、”国際婦人デー/International Women’s Day”である。”magazine9”HPには「ルポ,母子避難」の著者である吉田千亜さんのインターヴュー記事もアップされている。
    いまなおひきつづいている”核燃料プラント”深刻事故をめぐる今日只今政府による避難住民政策にして心胸おだやかならざるものがある。何故にしてこれほどまでに、実際の事態状況実情をないがしろにした”虚言妄言”とも云えるアナウンスを平然と重ねながら、”平気な風情”でいることができるのだろふか。
    その虚言、曰く”言語を絶する”と云ふべきなのか、否、むしろ”言語道断”とするべきだろふ。
    かつて、当今宰相安倍晋三は議会の質疑答弁で、大地震等による深刻事態における”原発”核燃料発電所の緊急バックアップ用全電源喪失はありえないと悠々公言して、その危険性を全面否定してこと足れりとしていた。しかしこれは残念ながら”文字通りの虚言”であったことがすでにあきらかである。
    震災下の深刻事故をひきつぎつつも、大見得のつもりなのか”アンダー・コントロール”と言って、取り繕っている?つもりらしいが、燃焼暴走溶融した核燃料がいったいどのような状態になりまたあるのかさえいまだに判然としていないのが現状である。
    阿武隈山系から海へ流出する地下水系が、かろうじて溶融露出した核燃料をこころなしか冷却状態にしているのが現状ではないだろふか?
    大量の地下水系の水位が下がるか変位変遷することで、冷却状態が後退すれば、核燃料は再び温度上昇とともにその核分裂反応燃焼状態を高めることになるのではないだろうか?
    ここ最近の情報伝聞によれば、プラント炉心付近で観測される放射線測定レベルが上昇しているといふこともある。まして原子炉建屋の外壁覆いカバーが外されている状態では、炉心内部空間から大気中への放射性物質の放出もつづくだろふ。むろん地下水系をつうじた海水への放出もつづいているとおもわれる。
    なにより放射性物質汚染による被曝からの当該住民の避難権利は原則的に認められなければならない。これは憲法25条の条文規定内容に拠る判断決定とされて然るべきである。
    深刻事故に係わる事故責任はあくまで追及されなければならない。いわゆる”国策”国家政策として準備推進されてきたものである以上、その被害住民に係わることどもについては国家政府が責任を負うことは当然の理である。
    顕著に増加していると報告されている小児甲状腺がん等の件についても同様である。それらに係わる保健衛生については国政府機関が直接責任を担う義務がある。
    現今政府内閣がその責任を全うしようとしないのであれば、そうした内閣政府は一刻も早く退場させなければならないだろふ。
    憲法が規定命令することこそが政府の使命任務でありかつ義務だからである。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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