伊藤塾・明日の法律家講座レポート

2016年3月7日(月)@東京校

「けんぽう手習い塾」でおなじみの伊藤真さんが主宰する、資格試験学校の伊藤塾では、
法律家・行政官を目指す塾生向けの公開講演会を定期的に実施しています。
弁護士、裁判官、ジャーナリスト、NGO活動家など
さまざまな分野で活躍中の人を講師に招いて行われている
「明日の法律家講座」を、随時レポートしていきます。
なお、この講演会は、一般にも無料で公開されています。

【講師】
金平茂紀 氏
(TBSテレビ「報道特集」キャスター)

●講師の主なプロフィール:
東京大学文学部社会学科卒業。1977年TBS入社、報道局記者として勤務。以降、一貫して記者、ディレクター、プロデューサーとして報道現場にたずさわる。1988年から「ニュースコープ」副編集長、1991年からモスクワ支局長、ソ連の崩壊などを取材。帰国後、1994年から『筑紫哲也 NEWS23』編集長。2002年、ワシントン支局長として渡米。2005年に帰国後、報道局長、2008年TBSアメリカ総局長としてニューヨークへ転出。コロンビア大学東アジア研究所の客員研究員として2年間在籍し多くの論文を発表。2010年、執行役員、2016年3月で退任、TBSを退社。同社顧問。2010年10月より『報道特集』のメインキャスターを務めている。

はじめに

 2016年2月、高市早苗総務大臣が国会で「電波停止の可能性」について言及したことに対し、ジャーナリストの金平茂紀氏は、田原総一朗氏や鳥越俊太郎氏らとともに緊急記者会見を開き抗議声明を発表されました。現在の日本のテレビ報道界に蔓延する息苦しさについて、金平氏は「政治権力からの圧力・介入といった外部的な要因よりも、むしろメディア組織の内側にある要因が、この息苦しさの本質ではないか」と仰います。今回の講演では、時の権力とメディアの関係性や本来のジャーナリズムの在り方などについて、豊富な具体例とともにお話しいただきました。

プロパガンダの道具としてのテレビ

 TBSに勤めて39年、僕はニュースが好きでテレビ報道ばかりやってきました。また、10年ほどの海外勤務を通して、いろんな国のいろんなテレビや同業者を見て来ました。これまで自分自身が経験してきた時代や、世界のメディアを見てきて思うのは、現在の日本のテレビ報道をとりまく環境は非常に息苦しくなっているということです。とりわけ現政権は非常にメディア・コントロールを強めているように感じます。
 日本の現政権はとにかくテレビが大好きです。彼らは、テレビを自分たちの主張を広報するための「道具」として見ているのではないかと思うことがあります。例えば、欧米では、政府の記者会見は、内容がととのったら時間帯に関係なく速やかに公にするというのが通例ですが、日本では大事な記者会見は必ず夕方に集中させます。なぜなら、日本では夕方にニュース番組を生放送しているので、その時間帯に合わせて記者会見をすると、ニュースで大々的に生中継してもらえるからです。こうして政府は、貴重なニュースの時間を実質的に占拠し、自分たちの主張を編集されることなく直接国民に届ける事が出来ます。特に現政権は、集団的自衛権、特定秘密保護法など重要な記者会見は全て夕方に集中して行っており、テレビをプロパガンダの手段として利用しようとする度合いが他のどの政権よりも強いといえるのではないでしょうか。
 少し過去の事例を見てみましょう。『田英夫(でん・ひでお)キャスター「解任」事件』をご存知でしょうか。田英夫さんは日本で最初のニュースキャスターで、国民に非常に信頼されていた方です。1967年、田さんはベトナム戦争について「日本にいて知らされる情報は南ベトナム側=アメリカ側の視点のみ。北ベトナム側からはどう映るのかを知りたい」と、自ら北ベトナムに乗り込み、爆撃される側の視点で戦争を報じました。この放送から間もなく、田さんは、ある日突然テレビ画面から姿を消します。当時の自民党政権の幹部が「報道が反米的である」として、TBSの社長に対して圧力をかけ、田さんは解任されてしまったのです。
 また、1972年6月17日に行なわれた佐藤栄作元首相の退任記者会見では次のようなことがありました。佐藤元首相は会見の冒頭で「文字になると内容が変わってくるので、偏向的な新聞は大嫌いだ。テレビカメラはどこにいる? 僕は国民に直接話がしたい。記者の諸君は帰ってくれ、テレビを中心に据えてくれ」と発言しています。ここからも、テレビを「道具」として見ていることが分かります。この佐藤元首相の発言に対し、ある記者が「先ほどの発言は許せない」と抗議すると、元首相は「では、出て行って下さい」と応戦し、その場にいた記者が、新聞社も通信社も、そしてテレビの記者も全員が会見場から出て行ってしまいます。記者のいない記者会見というのは単なるプロパガンダのセレモニーでしかありません。当時はメディアの側にも気概があり、政府にけんかを売られても、しっかりとそれを正面から受け止めて抗議をしていました。しかし、今はどうでしょうか? 同じような状況になったら、メディア側の人間はどんな行動をとると思いますか?

政府の圧力より恐い「忖度」の力

 2014年11月、自民党からテレビ局各社に「選挙時期における報道の公平・中立ならびに公正の確保についてのお願い」という文書が送られてきました。出演者の選定やゲストの発言回数などテレビ局の編集権に関わる部分にまで介入、干渉するような内容で、非常に問題をはらむ書面でした。また、2015年4月には、自民党の情報通信戦略調査会がテレビ朝日とNHKの幹部を委員会に呼びつけ、直接事情聴取をするということが起きました。テレビ局のあいだにはBPOという自律的な矯正指導機関があります。ひとつの政党が報道機関の幹部を呼び出して事情聴取をすることは、報道の自由を侵害するような行為です。これらの政府の行動は、それ自体が大きなニュースであるはずなのに、テレビではわずかしか報じられませんでした。
 一方で、ここ数年NHKは政権に対する批判的なコメントを言わなくなりました。例えば、昨年6月23日の沖縄の「慰霊の日」に開催された沖縄全戦没者追悼式で、安倍総理が参列者から「何をしに来たのか」「帰れ」「戦争屋」等、多くの野次が飛ばされました。厳粛な雰囲気をもつ追悼式典で野次が飛ばされるのは非常に珍しいことですが、ちょうど安保法制の議論のさなかの頃で、特に沖縄戦争を経験した方々にとっては、政府の力ずくのやり方に我慢がならなかったのかもしれません。この様子は、海外メディアによって世界中で報じられましたが、NHKではヤジが一切カットされていました。
 2016年2月、高市早苗総務大臣が国会の質疑で「政治的公平性を欠く放送を繰り返した場合、電波停止を命じる可能性がある」と発言したことで、メディア関係者は大騒ぎになりました。旧知の仲間内で互いに声を掛け合い、急遽2月29日に「私たちは怒っている」と題して緊急記者会見を行いましたが、その事実さえも放送しなかったテレビ局がありました。NHKは取材にも来ていません。それが、僕らが今おかれているテレビの現状です。
 この息苦しさを生みだす大きな原因は、政権による直接的な介入というよりは、報道機関の内部で忖度・自主規制する風潮の方が強いのではないかと思います。沖縄の「慰霊の日」報道についても、「このヤジの映像を流して良いのかな?」「カットした方が良いのでは」と自主規制する空気の中で判断されたのではないでしょうか。この「空気を読みあう」「波風立てないように様子見をする」など、内部で忖度し合う力こそが危険だと思います。
 3月末で、デイリーの報道キャスター3名が番組を降板しました。同じ記者として僕もかなり事情を細かく取材しました。取材していく中で、3名それぞれに複雑な事情があることが分かり、とても一括りに「政府の圧力のせい」だとまとめることは出来ません。しかし、この時期に政権監視の視点を重視したキャスターが3人同時に降板する、というのは偶然というよりは、やはり時代の空気を象徴する「何か」があったのだと思います。

「情報」は誰のもの? 「法」は何の為にあるの?

 さて、法律家を目指している皆さんには是非一緒に考えて頂きたいのですが、マスメディアから流れる「情報」はいったい誰のものでしょうか。
 本来マスメディアから流れる情報というのは、市民に伝わり活用されて初めて意味があるものだと思います。僕は、テレビから流れるすべての情報は「公共財」だと思っています。典型的な例として、緊急地震速報等の人の生死に関わる情報は、国民に伝達されて初めて意味があります。放送されずに政府が情報を抱えていたらどうなるでしょうか。実際に、2011年3月に起きた東京電力福島第一原発事故の際には、政府だけが知っていて外に出さなかった情報がありました。SPEEDIに関する放射線分布情報などがそれにあたります。政府や役人の大部分は「情報はまず自分たちが最初に知り得て、都合のいい悪いを判断した上で、メディアを使って国民に提供してやっている」くらいにしか思っていないのではないでしょうか。
 では、「法」は何の為にあるのでしょうか。法というのは、役所が都合のいいように解釈して権限を行使するためのものではありません。市民の権利、基本権を守るため、いわば「楯」のようなかたちで権力の暴走・横暴を防ぐのに役立つ為に作られたものだと思います。みなさんは、「法匪(ほうひ)」という言葉をご存知でしょうか。去年9月に行われた安保法制の中央公聴会で、元最高裁判事・濱田邦夫さんがこの「法匪」という言葉を使って実に明快に口述されましたが、今の社会は「法匪が跋扈する社会」だと思います。まるで物事が逆転しているかのように、政府は法の精神を都合の良いように解釈しています。「法は何の為に有るのか」という基本精神がまるで分かっていません。
 ジョージ・オーウェルの小説『動物農場』をご存知でしょうか。動物たちが農場主を追い出して理想的な動物ユートピア共和国を築こうとするのですが、リーダー格の豚が独裁者と化し、恐怖政治へ変貌していく過程を描いている小説です。まるで現在の日本社会を活写しているかのような、ブラックユーモアに富んだ内容ですので、是非読んでみて下さい。
 そのなかのエピソードをひとつだけ紹介します。彼らが動物共和国を樹立して最初にやったことは憲法をつくることだったのですね。そのなかに「すべての動物は平等である(All animals sre equal.)」という条文があったのですが、それが独裁が進むにつれて、いつのまにか次のように書き換えられていたのです。「すべての動物は平等である。だが、ある動物は他の動物よりもより平等である。(All animals are equal.But some animals are more equal than others.)。」法律をこのようなものにしてはいけません。

メディアの役割と視聴者の心得

 「変わらぬもの、それはこの番組のありようです。力の強い者、権力に対する監視、機能を果たすこと。移ろいやすいこの国の中で少数派である事をおそれないこと。多様な意見をなるべく登場させる事で自由な気風をつくり出すこと。これからも変わらずたゆまず努めて参ります」
 これは、2008年に亡くなったニュースキャスターの筑紫哲也さんが、『ニュース23』最後の出演時に発したメッセージです。このとき、彼は全身を癌で侵されており普通では立っていられないくらいの状態でした。今考えれば、これはメディア関係者や視聴者に対する遺言だったのだと思います。現在、メディア関係者は、この方の遺言をちゃんと守れているのでしょうか。僕には反省すべき事の方が多いように思います。
 人と違うことを言ったり個人の意思を貫き通したりすることが難しい現在の同調圧力の蔓延する社会において、僕たち一人ひとりに必要なことは何でしょうか。
 一つ目は、無謬主義(間違いをしないという前提で物事を進めること)という病理から脱却すること。人は、組織は、国は、必ず、間違いを犯します。間違いの無いところなんてありません。僕たちは、この無謬主義からどれだけ自由になれるでしょうか。
 二つ目は、外と繋がることです。僕らは群れたがり、群れの外の人とは交わろうとしなくなります。異業種、異地域、異国、異文化など、自分と全く異なる価値観をもっている人と、どんどん繋がっていきましょう。
 三つ目は、横とも繋がることです。例えば、配偶者、同僚、家族など、横と繋がることほど難しいことはありません。面倒くさい話はなるべく同僚としないようにしよう、というのが日本特有の距離の取り方です。より身近な人、隣の人との関係を丁寧に築いていきましょう。
 四つ目は、いつも心にユーモアをもつこと。どんなことも笑い飛ばすくらいの気持ちが無いとダメです。
 また、かっこよさ、創意、遊び、お洒落なども大切です。これらは、SEALDs(シールズ)の人たちを見ていてすごいな、と感じる部分です。彼らのデモは、ノリが良くてかっこ良く、明らかに昔の労働組合などのデモと違います。ある種の文化革命とも言えるでしょう。
 そして、知ることの喜びを感じること。例えば試験勉強など、苦行のように知識の断片をインプットするというのは、人間としての成長や知る事の喜びとはかけ離れています。全然聞いた事のない音楽、映画、ドキュメンタリー、本など、新しい事を知るという事は面白いものです。「学び」というのは、生きてゆく価値そのものだと思っています。

 最後に、ある国の憲法の条文を紹介して話を終えたいと思います。「公民は、言論、出版、集会、示威及び結社の自由を有する。国家は、民主主義的な政党、社会団体の自由な活動条件を保障する」。どこの国の憲法でしょうか。正解は北朝鮮です。条文では立派なことが書かれていますが、現状はどうでしょうか。日本も同じような事態にならないように一人ひとりが意識して行動していきましょう。

 

  

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