原発のある地域から


昨年、「下北半島プロジェクト」で青森県下北半島を訪れたマガ9スタッフ。短い時間でしたが、核施設のある六ヶ所や東通も訪れ、地元の方ともお話しする中で、主要産業であり雇用の場でもあった原発を、即座に否定はできない事情や空気があるということを感じました。と同時に膨らんできたのが、他の原発立地地域はどうなのか? という関心。日本各地の「原発のある地域」で、反対運動をしてきた方のお話などをシリーズでお送りします。

山田勝仁(やまだ・かつひと) 1955年、青森県・大間町生まれ。夕刊紙勤務。AICT(国際演劇評論家協会)会員。著書『寺山修司に愛された女優-演劇実験室◎天井桟敷の名華・新高けい子伝』(河出書房新社)。


下北半島の先端、本州の最北端に位置する大間町。豊かな自然に恵まれたこの町はまた、1980年代から大間原発の建設計画が進められてきた、下北「核」半島の一角をなす場所でもあります。計画はどのように持ち上がり、地元の人たちはどうそれと向き合ってきたのか、そして建設工事が中断された3・11以降、大間原発を取り巻く状況や人々の思いはどう変化しているのか--。少年時代を大間町で過ごし、東京に暮らす今も頻繁に故郷を訪れているという山田勝仁さんがレポートしてくれました。

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 全原発停止後、7割近い国民の反対(毎日新聞5月調査で63%)を押し切って再稼働した福井・大飯原発(関西電力)。毎週金曜日の官邸前抗議行動に参加する市民は回を数えるごとに増大、7月1日の大飯再稼働を控えた6月29日には20万人もの参加者が議事堂周辺を埋め尽くした。7月16日に代々木公園で行われた「さようなら原発」集会には17万人が集結。7月29日の国会包囲行動には20万人が参加(いずれも主催者発表)、脱原発のうねりは日ごとに高まっている。

 しかし、菅内閣時代に掲げた政府の「脱原発依存」方針はブレ始め、既存の原発の廃炉ロードマップも定まっていない。計画中の原発、上関原子力発電所(中国電力)は準備工事をめぐり紛糾。浪江・小高原子力発電所(東北電力)も福島の事故を受けて浪江町議会が誘致を白紙撤回した。こうした中、08年に工事に着工し、14年の稼働を目指していたのが電源開発(Jパワー)が青森県下北郡大間町に建設中の大間原発だ。

 しかし、脱原発運動が燃え広がる中、大間原発に関してはほどんど報じられることがない。工事進捗率37.6%。完成すれば世界に例を見ないフルMOX原発となる大間原発はこれからの脱原発運動の帰趨を握る大きな問題をはらんでいる。大間原発とは何か。

大間ってどこにあるの?

 大間の名前が全国的に知られるようになったのは、マグロの最高級ブランド・大間マグロに負うところが大きい。マグロの一本釣り漁師の苦闘を描いた映画「魚影の群れ」(83年=相米慎二監督)やNHKの朝の連続ドラマ「私の青空」(2000年)で徐々に知名度が上がっていたが、決定的なのは正月の築地市場での初セリで1本2200万円の高値がついた2001年あたりからだろう。テレビの特番で一本釣りに賭ける漁師の”生きざま”が繰り返し放送されたこともあって、大間マグロ人気は急上昇。12年には1本5649万円という最高値をつけている。いまや大間の観光資源の大きな目玉となっているのがマグロといえる。

 しかし、大間町がどこにあるかといえば青森県民でさえ即答できない人が多い。

 大間は本州最北端の地、その形から「まさかり半島」とも呼ばれる下北半島の刃の切っ先に当たる部分に位置する。函館まで約18キロ。晴れた日には北海道が一望できる。人口約6300人。半農半漁の集落であり、漁業従事者は葉モノと呼ばれるコンブ、ワカメなど海藻類の採取、ブリ、タイ、カレイ、ヒラメ、クロソイ、イカなどの漁獲で現金収入の大半を得ている。マグロの町と喧伝されるが、マグロだけで生計を立てている漁師はごく一部である。あまり知られていないが、かつては高級干しアワビの産地として上海、香港などで名を馳せた。「大間」は高級アワビの代名詞であり、グラム単位、金の値段と同じといわれる高値で取引きされたが、近年は温暖化の影響か、アワビも大型のものは獲れなくなり、「大間アワビ」の名もすっかりかすんでしまった。

 青森出身の劇作家・寺山修司はかつてこう書いた。

<下北半島は斧の形をしている。大間村から北海岬へかけての稜線が、その刃の部分である。斧は、津軽一帯に向けてふりあげられており、「今まさに頭を叩き割ろうとしてる」ように見えるのが青森県の地図である。しかし、惨劇はこれから始まろうとしてるのではない。すでに竜飛岬から鼻繰岬へかけての東津軽は、一撃を受け、割られたあとなのである>(寺山修司著『わが故郷』)

 寺山がいう斧とはドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの振り上げた斧であり、寺山がそれに見立てた下北半島は早世した寺山が予期しなかったであろう「核半島」となってしまった。

 「斧」の付け根には六ヶ所核燃再処理工場、「背」には東通原発、「ノド元」にはむつ中間貯蔵施設(リサイクル燃料備蓄センター)、そして「刃の切っ先」には大間原発(出力138.3万kW。改良型沸騰水型軽水炉=ABRW)が建設中なのだ。下北半島は商用原発13基が立ち並ぶ若狭湾沿岸と並び、原子力施設が集中する原子力半島だ。

迷走した建設計画

 ここで大間町の概要を述べてみたい。大間町の前身は大奥村である。1889年に町村制施行により大間村・奥戸(おこっぺ)村の両村が合併してできた村で、1942年に町制施行・改称して大間町となった。

 元々は隣接する2つの集落であったため、漁業協同組合は別々。入会権争い、漁業区域設定問題などで両地区に確執が生まれ、その遺恨は近年まで続いていた。

 私が幼少時(1960年代)には両地域の子供たちが互いの町内に立ち入るのは危険水域を侵すのと同じことだった。ささいな遺恨から両地域の小・中学生同士が村境に広がる白砂海岸で集団決闘(未遂)をしたのも語り草になっている。いわば「犬猿の仲」だったのだ。その白砂海岸が電源開発に買い占められ、原子炉建屋、関連施設が集中する一帯になっているのは皮肉な話ではある。

 かつての白砂海岸は文字通り白砂青松の地。珪素を多く含んだ真っ白な砂浜が広がり、夏になると真っ赤なハマナスの実と青い葉が白砂に映える景勝地だった。

 お盆の祭りの神事に欠かせない砂もこの海岸から採取したもので、白砂は祭りの天狗行列を先導するように、道に点々と配置された。むろん、今はその光景はない。

 また、この一帯は藩政時代、南部藩の官牧牧場が置かれた場所であり、「南部九牧」と呼ばれる9つの馬産地の2つを占めていた。奥戸牧は天正年間(1573~)、大間牧は元和年間(1615~)に開かれたとされ、広大な土地が馬の放牧地として利用された。

 縄文時代の土器、矢じりなどもよく発見された。

 さて、大間に原発誘致が持ち上がったのは1976年のこと。大間町商工会が地域活性化のために大間町議会に原子力発電所新設に係る環境調査実施を請願したのだ。

 当時の大間町の人口は約8000人。そのうち1000人が県外への出稼ぎ者といわれる。「地元雇用が4千人生み出される」「温排水でヒラメやアワビの養殖もできる」という夢のような話に町の有力者が飛びついた。

 これを受け、82年、原子力委員会は電源開発を実施主体とする新型転換炉実証炉計画を決定。84年に大間町議会は原子力発電所誘致を決議する。当初はカナダ産の原発「CANDU炉」を予定したが、大量の重水を使用するため、コストが莫大となる。そのため、85年には電源開発が新型転換炉(ATR)実証炉計画への協力を申請する。

 しかし、その間、漁師を中心に反対運動が巻き起こる。74年9月1日に原子力船むつが試験航海中に起こした放射線漏れ事故により、陸奥湾産ホタテが風評被害で暴落したことも、漁師たちの危機感を募らせた。

 だが、87年に大間漁協が原発対策委員会を設置、88年には「原発交渉は一切拒否」を掲げていた強硬派の奥戸漁協(正組合員297人=当時)も12票の僅差で対策委設置を可決する。

 「窓口」が開設されればあとは圧倒的な物量作戦を展開できる電源開発の独壇場となる。

 コンブの集荷、稲刈り、町内会のドブ掃除、祭事の手伝い、50キロ先にあるむつ病院への送迎、結婚式でのビデオ撮影、果ては、大学野球OBの社員が大間高校野球部で指導。地元との融和作戦が展開された。これは60~70年代に千葉・三里塚空港建設反対闘争で学生たちが行った援農(農業支援)を原発推進勢力が逆手に取った慰撫・懐柔策といえる。

 もちろん、全国の原発を見学する町主催の「視察旅行」が頻繁に実施され、町民のほとんどが観光気分で全国の原発立自治体に行く。「良いところ」しか見せない視察旅行を繰り返せばそのうち原発への危機感は薄れていく。2泊3日の研修費用は国の「広報・安全等対策交付金」が充てられる。「日本の原発立地町はほとんど回りました」というのは元町議で「大間原発に反対する会」の佐藤亮一さん。

 「当初、強硬に反対した漁師たちの子弟はその後、ほとんどが原発関連会社に就職した。いってみれば人質のようなものだ」(50代の漁師)。

 こうした懐柔策が奏功し、94年には電源開発は大間・奥戸両漁協と漁業補償協定を締結する。

 ところが、その締結を待っていたかのように翌95年に原子力委員会はATR計画を中止し、フルMOXのABWRの計画を決定する。

 一度、漁業補償を締結した漁協にこの変更を拒む力は残っていなかった。

 「94年から98年に段階的に結ばれた漁業補償は総額150億円。組合員1人に数百万から1200万円の補償金が支払われ、家の新築、漁船の改修、漁協からの借金の返済などに充てられ、結局、漁師たちの手には何も残らなかった」(ある漁師)

 98年には電源開発と大間・奥戸2漁協の間で変更漁業補償協定が締結。99年には電源開発は原子炉設置許可を申請。町内で唯一売却を拒んでいた故・熊谷あさ子さんの土地取得を断念し、2003年に炉心の位置を変更、08年に国は原子炉の位置変更を許可し、大間原発建設の着工となる。

 その3年後に東日本大震災。工事進捗率37.6%で建設は中断する。

 以上が大間原発建設、及び中断に至るおおよその経緯である。

史上最悪のフルMOX原発

 大間原発は通常のウラン原発と異なり、燃料にウランとプルトニウムの混合酸化物(MOX)燃料を使用する。しかも全炉心にMOX燃料を装荷する「フルMOX原発」は世界で初めての試みだ。

 プルトニウムはウランの20万倍も毒性が強く、角砂糖5コの量で日本人が全滅するといわれる毒性を持つ。

 MOX燃料を軽水炉で使用することをプルサーマル方式という。MOX原発は「たでさえ危険な原発にさらなる危険要素を上乗せした原発」(小出裕章氏=京都大学原子炉実験所助教)というシロモノなのだ。

 現在、プルサーマルの装荷があるのは、東京電力福島第一原子力発電所3号機(廃炉)。九州電力玄海原子力発電所3号機、 中部電力浜岡原子力発電所4号機、四国電力伊方原子力発電所3号機、北海道電力泊原子力発電所3号機、関西電力高浜原子力発電所3号機・4号機のみ。すべて運転停止中だ。

 MOX燃料がどの程度装荷されているかといえば、試験運転した日本原子力発電敦賀原子力発電所1号機でのMOX燃料装荷実績は全308体中わずか2体。福島第一3号機での“計画”で548体中240体(約40%)。泊原発など、ほかのプルサーマル原発でも最大30%(実装は9分の1以下)。872体全部にMOX燃料を装荷する大間原発の無謀さには驚愕するしかない。

 なぜ、それほどの危険を冒してまでフルMOXに固執するのか。

 「答えは六ヶ所の再処理計画の頓挫にあります」と佐藤さんは言う。

 「六ヶ所村の再処理工場では使用済み核燃料から燃え残りのウランと新たに生成されるプルトニウムを取り出し、燃料として再利用する計画でした。しかし、利用が予定されていた高速増殖炉はトラブル続きで稼働する見通しはゼロ。そのため、再処理燃料をどこかで消費する必要があったのです。それをMOX燃料として軽水炉で燃やそうというのがプルサーマル計画なんです」

 つまり、プルサーマルの目的は日本が大量に保有しているプルトニウムの消費にある。六ヶ所再処理工場には使用済み核燃料2919トンがあり、国内の2割が集中している。

 大間原発が稼働した場合、プルトニウムの消費量は約1.1トン。これは国内18基のプルサーマル計画の2割に当たる。

 大間原発の真の目的は破綻した核燃料サイクル計画を糊塗するために、プルトニウムを大量に消費させることであり、発電は二の次の原発なのだ。東京電力の送電線を使って首都圏へ送電するというが、距離800キロ。送電ロスがあまりにも大きいことからも、大間原発が持つ性格は明らかといえる。

 しかも、恐るべきことに、建設主体の電源開発(Jパワー)は水力、火力の建設実績はあっても原発の建設・運転の実績はない。

 原子力資料情報室の澤井正子氏によれば、大間原発は「初めてづくし」の原発だという。

1、世界初のフルMOX原発である。

2、新耐震指針の最初の設置許可原発である。

 「99年に設置許可申請をしましたが、未買収地があるため2001年に安全審査一次保留願を提出。03年には未買収地取得を断念し、原子炉位置を200メートル移動しました。04年には設置許可(旧版)を取り下げ、新版設置許可を申請するというドタバタ。05年に一次審査が終了し06年に耐震安全審査指針が改定され、08年に原子炉設置許可が出るという、二転三転した原発なんです」(澤井)

3、火山に近い原発である。恐山(休火山)まで約50キロ。

4、大都市に近い原発である。人口30万人の函館市までわずか18キロしかない。

5、東洋大・渡辺満久教授や広島大・中田高名誉教授の研究で大間原発の前面海域(大間沖)に活断層の存在が指摘されている。

 こんな「初づくし」の原発は例がない。出力138万kW、温排水は毎秒91トンという膨大な量。これが津軽海峡に流れ込めば確実に生態系に悪影響を及ぼす。

 「原子炉立地審査指針」の3条件というものがある。万一の事故に備え、公衆の安全を確保するためには、原則的に次のような立地条件が必要であるということだ。

1、原子炉からある距離内は「非居住地域」であること。大きな事故の要因となるような事象、例えば立地場所で極めて大きな地震、津波、洪水や台風などの自然現象が過去になかったことはもちろん、将来にもあるとは考えられないこと。

 また、災害を拡大するような事象も少ないこと。例えば隣接した人口の大きな都市や大きな産業施設があるとか、陸、海、空の交通の状況などの社会環境や、地盤が軟弱といった自然条件を考慮すること。

2、 「非居住地域」の外側は「低人口地帯」であること。原子炉は、「その安全防護施設との関連において」十分に公衆から離れていることが必要。平常時は勿論、事故時にも基準値または規制値以上の放射線被曝を公衆に与えないように設計し管理されていること。

3、 原子炉の敷地は、その周辺も含め、必要に応じて公衆に適切な措置が講じられる環境にあること。つまり、敷地が十分な広さをもち、周辺もそれほど過密でなく、万一の場合には退避等が可能なこと。

 以上の3条件を満たす場所といえば、有体にいえば過疎地しかない。要は原発は被害が最小限に済む過疎地に建てろ、ということなのだ。

 大間は人口約6300人、隣接の風間浦村は約2500人、佐井村は約2400人。そしてむつ市は7万5000人。下北地域の人口は9万人足らずだ。

 9万人の生命、健康を担保にする原発とはいったい何なのか。

その2につづきます

 

  

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