森永卓郎の戦争と平和講座

 7月1日、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定がついに行われた。戦後ずっと続けられてきた平和主義が大きな曲がり角を迎えたことになる。
 閣議決定の直接のきっかけは、これまで与党内部で慎重姿勢を貫いてきた公明党が、最終的に自民党案を受け入れることにしたからだ。「平和と福祉」という公明党の基本理念に反する「解釈改憲」を公明党は認めたことになる、
 公明党執行部は、「政策より政治を選んだ」と言いたいのだろう。もし、公明党が連立政権に参加していなかったら、自民党はもっとひどい解釈改憲に走ったはずだ。公明党が連立に参加していたからこそ、集団的自衛権の行使に厳重な歯止めがかかった。だから、公明党は日本の平和を守るために大きな貢献をしたのだ。公明党執行部が言いたいことは、だいたいこんなところだと思われる。

 確かに表面的にみると、公明党が一定の歯止めになったようにもみえる。武力行使の3条件についても、当初、「他国が攻撃された場合」となっていたのを「日本と密接な関係にある国が攻撃された場合」と修正し、「日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由と幸福の追求権が根底から覆されるおそれがある場合」としていたのを「明白な危険がある場合」と、自民党が集団的自衛権の行使の条件を厳しく限定したのは、公明党への配慮だった。
 しかし、問題はこうした条件が本当に歯止めになるのかということだ。与党内協議では、集団的自衛権の行使に該当する具体的な事例について、個々に検証を行ったが、そこに示された事例は、完全な机上の空論であり、日本が抱えることになる本当のリスクについては、まったく検討がなされていなかった。本当のリスクとは、米国が理不尽な戦争を起こし、その戦争への参戦を日本が要請されたときに、拒絶できるのかどうかということだ。
 日本が集団的自衛権行使ができるようになった場合、最大のリスクとなるのは、アメリカだ。軍事的に世界で最も凶暴な国はアメリカだからだ。原爆を実戦で使用したのはアメリカだけだし、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争、アフガニスタン戦争と、太平洋戦争後もアメリカはずっと戦争を続けてきた。近い将来、イラクに再び軍事介入する可能性も極めて高いだろう。
 そのアメリカから圧力がかかったときに、日本が拒否できない体質であることは、TPP交渉をみれば明らかだ。自民党は選挙公約で、コメ、小麦、牛肉・豚肉、乳製品、甘味資源作物の重要5品目の聖域は守ると宣言していた。まだ正式な発表はないが、これまでの交渉で、すべての品目の関税が大幅に引き下げられることが、事実上合意されたと報じられている。特に豚肉は、国内畜産農家が完全崩壊するほどの関税引き下げだ。
 そうした日米の力関係なかで、憲法9条による集団的自衛権の行使否定が、アメリカからの参戦要求を拒否するための重要な口実だったことは、間違いのない事実だ。
 ところが、武力行使容認の3条件は、下記のとおりとなっている。

1)わが国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある

2)わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない

3)必要最小限度の実力を行使する

 これでは、米国から参戦要請があったときに、それを拒否する根拠にならない。アメリカからの要請を拒絶するためには、「わが国と密接な関係にある他国」をいう表現を削除しなければならなかったのだ。つまり、公明党が心血を注いだ字句修正は、米国からの参戦要請という現実問題に関しては、何ら歯止めにはなっていないのだ。
 公明党は、政策の段階から政治に進んだのではなく、政策を捨てて政権を選んだのだと言うべきだろう。
 毎日新聞が6月27日~28日に実施した世論調査で、日本が集団的自衛権を行使できるようにした場合、他国の戦争に巻き込まれる恐れがあると思うか聞いたところ、「思う」が71%で、「思わない」の19%を大きく上回った。私は、この国民が感じている感覚は正しいと思う。
 しかし、そうした漠然とした不安が国民を覆うなかでも、集団的自衛権行使という平和主義の根幹を揺るがす事態に、国民が必ずしも大きな関心を持っていないのは、集団的自衛権の行使容認によって、日本に何が起きるのか、具体的なイメージを持っていないからだろう。
 自衛隊員が死ぬかもしれないというイメージは、間違っている。米国の戦争に巻き込まれれば、日本は米軍と一体とみなされるのだから、日本も敵国からの攻撃にさらされる。つまり、自衛隊員が死ぬのではなく、国民が死ぬのだ。
 もう一つの問題は、自衛隊員が死ぬかもしれないということではなく、米国と一緒に戦争をすれば、自衛隊員が人殺しになるということだ。米国は利権のために戦争をする。だから、大量破壊兵器を保有していなくても、石油の利権を得られるイラクは攻撃した。大量破壊兵器を保有していても、利権の得られない北朝鮮は攻撃しない。
 つまり、米国の戦争に、もとから正義などないのだ。そのことは、米国からの参戦要請で自衛隊が参加すれば、自衛隊員が単なる殺人者になるだけでなく、「殺人鬼」になることを意味するのだ。

 私は、自衛隊員が「殺人鬼」になることに、とても耐えられない。公明党は、それに耐えられるのだろうか。

 

  

※コメントは承認制です。
第64回 集団的自衛権問題で
公明党は何ができたのか
」 に5件のコメント

  1. magazine9 より:

    先週更新の「この人に聞きたい」でも、報道カメラマンの石川文洋さんが、集団的自衛権が行使されて自衛隊が海外での戦争に参加した場合に、「殺されるだけではなく殺す側になる」可能性を指摘されていました。さらには、日本が「戦争の当事者国」となる以上、報復攻撃を受ける可能性、テロの標的になる可能性ももちろんあります。
    集団的自衛権の行使を認める=海外での武力行使を認めるとは、そういうこと。それがなぜ、「国民の安全を守る」ことになるのか? 納得のいく説明には、いまだ出会えないままです。

  2. 小池隆夫 より:

    日本国憲法をアメリカの押しつけだとする安倍とその取り巻きが,なぜアメリカの支配のもとで戦争に従うのか。
    まさに奴隷根性というべきではないか。魯迅が嘆く「暴君治下の民衆は暴君よりも暴なり」という言葉がよぎる。
    戦争を煽っていた政治家を乗り越えて、民衆の不満が武力行使を要求するようになるのをふさぐためにも、メディアや言論人が腹をくくって安倍たちの横暴を徹底的に批判すべきだと思う。 (横成十郎)

  3. くろとり より:

    あまりの現状認識の無さに愕然とします。今、アメリカは可能な限り戦争をしない方向へ向いています。それが度を越してしまったがゆえに国際的な発言力、影響力の低下を招き、日本にとっては逆に極めて危険な状況となってしまっているのです。
    軍事的に世界で最も凶暴な国はアメリカでは無く、中国です。アメリカは民主主義国家であり、戦争を起こすにも国際的な大義名分を必要とし、必ず協力する国を確保し単独で戦争を起こすような事はしませんし、出来ません。また、国内で反対されても戦争を継続出来ません。
    共産党独裁国家で国民の意思には左右されず、チベット、東トルキスタンでホロコーストを今現在も継続し、以前にはベトナム、インド、アメリカ、ロシア(旧ソ連)等々と武力衝突を起こし、今現在もベトナムから「戦争も含むあらゆる可能性に備える」などと言われているような国の方が明らかに凶暴でしょう。
    日本がアメリカに逆らえない例としてTPP交渉を挙げておられますが、アメリカのいう事に逆らえないのならなぜ、今までTPPの交渉が長引いているのですか?挙句の果てにアメリカ内部から「日本を外して締結しよう」などと言う声も出ているのですか?日本がアメリカに逆らっている証拠ではないですか。
    また、イラク戦争に関してもアメリカを支持こそしましたが、日本が実際に自衛隊をイラクに派遣したのは戦闘行為が終了してから国連からの依頼と言う形で派遣していますが?
    あまりに日本の自主性を無視した暴論ではないでしょうか。
    どうもアメリカ憎しで目の前が見えていないように思えます。現状ではアメリカの戦争に付き合わされる危険性より、中国からの脅威に巻き込まれる危険の方が大きいのです。中国の脅威を無視して集団的自衛権の話をする事自体が現状認識が出来ていない証拠ではないでしょうか。

  4. 家畜124号 より:

    どうやら米国は自国と同じ組織を持たないから日本は一人立ちができないんだと思っているようです。一方で日本は米国の言われた通りにすれば後の事は何とかして貰えると思っているようです。世界は軍神カミカゼが米国に揺さぶり起こされる様を見守っています。我々人民はどこへ連れて行かれるのでしょう。

    恐らく米国が日本に期待したのは責任を分けあえる表向きの共同軍事です。軍事なので自衛隊ではなく軍隊です。日本がその要求に集団的自衛権などという無理な想定を使ったところで米国の右腕にはなれません。日本は東京五輪までには憲法を変えると約束します。選挙で「世界と交渉できるのは我が党だけだ、日本の安全と発展は我が党が作った、それを維持するのも我が党の責任だ」と強調すれば政権の選択肢は「我が党」以外自動的になくなりますから次期以降も安泰です。首相は与党第一党の推薦で決まりますから「首相の判断にお任せ」の法案をいくら作っても独裁者の首相が生まれる事はありません。国民を黙って従わせるための格付け法案作りも着々と進んでいます。秘密保護法の成立以来、マスメディアと公務員の自発的な自粛が促され、言論統制も完璧です。日本はすべて「完全にコントロールされている」という訳です。後は米国が何とかしてくれます。
    と、これは概ね昨年までの私の考えです。しかし現実はもう少し残酷なようです。

    今も昔も軍隊による自衛とは、人を守るものではなく国を守るものです。国は国民を守ると言いますが、それはただの数字です。大切な人を守る訳ではありません。
    代わりの命はいくらでもあります。戦争で千人死んだら一万人産ませれば良いだけの話です。それで国が持つ数字はプラスになります。他国の数字は自国の評価にはなりませんし、むしろ減ってくれた方が好都合です。だから国作りに没頭する為政者の脳内では、国を守るために戦争をし、人間同士の殺しあいで国民を守る事に何ら矛盾が生じないのです。
    普通に考えれば「数字の繁殖を極める」という同じ目的を持つ者同士が互いの数字を0に近づけあう事に何らメリットはないはずなのですが、昔から「勝つ気のない者の言い分は聞かない」という支配制度上の暗黙の了解があるらしく、ここは大抵極めて情緒的に否定されます。
    何もかもが私の道徳観、法的価値感とは相容れません。私にとっての「敗け」は「大切な人より先に死ぬこと」ですからかろうじて勝つ意思だけはありますし、「己の勝ちを得るための盗み脅し人殺し」は人類で共通の反則技です。

    憲法の定めにより自衛隊は軍隊ではありませんから、国ではなく人を守るための活動だけをずっと続けてきました。自衛隊が自衛隊のままであれば、疑う余地もなく日本はすべての大切な命を守るでしょう。可能な限り、隊員の命も、相手国の命でさえも。
    閣議決定された集団的自衛権にそのような発想はありません。単に国が国を守るというだけです。
    もし日本が「国境を超えても人を守る」と言うのなら少なくとも憲法違反ではありませんでした。しかし日本は集団的自衛権を行使可能にすると言っているのですから、事実上の軍隊化です。個人の尊厳より国の威信が優先され、命は数字になりました。

    だから私はこう問いたかったのです。
    「国を失ってでも大切な人を守りたいのか、大切な人を失ってでも国を守りたいのか」
    でももう、その問いは意味をなさないのかも知れません。
    元々日本は、国も失わず、人も守る特別な方法を使っているからです。自国民は人を守り、他国家が国を守ると。その相手に唯一適任なのは米国です。「特別な憲法」を持つ日本だからできた事です。
    その一方で米国は覇者であるが故のジレンマを抱えたまま、自国の数字も他国の数字も減らし続けていました。「絶対に数字が減らない国」をどんな面持ちで見ていたのでしょうか。それは「特別な権利」を持たない国からすれば身勝手な思いかも知れません。でもこのまま戦争を続けたところで、国という観点では何のメリットもありません。
    しかし、「自国の数字を減らさない裏技」が、ひとつだけあります。極めて情緒的でなく、極めて事務的に。
    戦争に自国の数字を使わなければ良いのです。

    例えばの話です。安全保障条約を結んだ同盟国に、自国の指揮の下で戦闘を行わせる。その相手に適任なのは勿論、絶対に数字が減らない国。
    話を持ちかけられた国家は長く続いた敗戦の汚名を一刻も早く返上したかった。だから自国の防衛を担う隊員に、米兵の印をつけて兵器と共に貸し出せば、自国は責任を負うこともなく、憲法にも触れずに要求を満たせると考えます。そうすればこの国は第二の世界の警察となり、名実共に大国と呼ばれるようになると。
    背筋が凍りました。
    その方法なら確かに「日本は」戦争をしません。それどころか自衛すらしません。消耗品としての人間を輸出するだけです。
    解っていたのに、見えていませんでした。まさか為政者たるものそこまで盲目になれるとは思わず頭の中で打ち消しました。私は馬鹿な人間です。命はとっくに数字だったのです。

    もしそれが私の妄想でなく、あらかじめ予定された筋書きならば、人間とは一体何に献上するために生産される生け贄なのでしょう?
    それが現実ならばあまりに残酷すぎる結末です。
    このままでは国内の感情も国外の感情も高ぶりを抑えられず、どう足掻いても「平和のための戦争」が勃発するのを防げません。
    ひとたび戦争をしてしまえば人間は例外なく狂わされてしまうのでしょうか。あるいは指導者と呼ばれる人種は皆そうなのでしょうか。守りたいものがあるから人は社会を作ったのではないのですか?争わないために国を分けたのではないのですか?
    私の思い過ごしであることを祈って止みません。でも自国の命を散らしても他国の命を散らしても得られるのは空虚。積み重ねた国家の業が逃げ道を欲しているような気がしてなりません。
    戦争に人間の勝者はひとりもいないのですね。海外派遣帰りの自衛隊員が自殺しやすい理由が少しだけわかりました。

    私は怨念に飼われる家畜ではありません。貸し借り可能な数字ではありませんし、献上される生け贄でもありません。
    私は人間です。故にすべての国家間紛争に反対します。
    すべての国家に武力行使の権利を放棄することを人間として要求します。

  5. hiroshi より:

    <納得のいく説明には、いまだ出会えないままです。>
    その通りだと思うのですが、
    http://www.magazine9.jp/article/juku/12750/
    http://www.magazine9.jp/article/shudanteki-jieiken/13160/
    現実には有り得ないとか、有り得るとか、集団的自衛権が無いと守れ無いとか、いや個別的自衛権で対応出来るとか、色々議論は有りますが、集団的自衛権の行使を容認するのに、何故、改憲が必要でないのか、納得のいく説明には、いまだ出会えないままです。

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森永卓郎

もりなが たくろう:経済アナリスト/1957年生まれ。東京都出身。東京大学経済学部卒業。日本専売公社、経済企画庁などを経て、現在、独協大学経済学部教授。著書に『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)、『年収120万円時代』(あ・うん)、『年収崩壊』(角川SSC新書)など多数。最新刊『こんなニッポンに誰がした』(大月書店)では、金融資本主義の終焉を予測し新しい社会のグランドデザインを提案している。テレビ番組のコメンテーターとしても活躍中。

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