森永卓郎の戦争と平和講座

 7月26日に礒崎陽輔首相補佐官が、「法的安定性は関係ない。我が国を守るために必要かどうかが基準だ」と講演で発言したことが大きな反発を招き、国会審議では野党が礒崎氏の更迭を求めているが、安倍総理は更迭しようとしない。それは、本音では磯崎氏と同じ思いを総理も共有しているからだろう。
 しかし、そもそも「我が国を守る」というのは、一体どのようなことなのだろうか。その意味も、安保関連法案の参議院での審議が進むなかで、おぼろげながら明らかになってきた。それは、安倍総理が、安保関連法案が適用されるケースについて、これまで慎重に避けてきた具体的な対象として、中国という国名や東シナ海、南シナ海という地域名を口にしはじめたことだ。南沙諸島を巡って米中衝突が起こった時に、日本は米軍と一緒になって中国と戦うというのを、明言はしていないものの、官邸が一つのイメージとして考えているということは、ほぼ確実だろう。
 米軍と一緒になって、いつでも一戦交えるぞというポーズを取ることが、海洋権益を拡大しようとしている中国に対して、尖閣諸島への侵攻を許さないという強いメッセージになるというのが、「日本を守る」ということの意味なのだろう。
 もちろん領土を守ることは大切かもしれないが、私は官邸の「日本を守る」という考えから決定的に欠落していることがあると思う。それは、「国民を守る」という観点だ。

 7月末にハワイで行われていたTPPの閣僚会合は、最終合意には至らなかったものの、日本は大幅な譲歩を確約した。例えば、米国から輸入する豚肉は、価格の安い部位については、キロ当たり482円の関税を10年程度で50円に引き下げる。米国から輸入する牛肉の関税は現行の38.5%から15年程度で9%に下げるという。コメについては、まだ決着していないが、米国からの輸入枠を7万トンに拡大するというところまで譲歩している。小麦についても未決着だが、事実上の関税に相当する「輸入差益」を大幅に引き下げる方向が打ち出されている。
 こうした重要産品について、大幅譲歩が実現すれば、日本の農業への悪影響は計り知れない。それが分かっているからこそ、政府や自民党は、コメ、ムギ、牛肉・豚肉、甘味資源作物、乳製品の聖域5品目には、一切手を付けさせないと言ってきたし、2013年に自民党が作ったポスターには、「ウソつかない。TPP断固反対。ブレない。日本を耕す自民党」と書かれていた。
 もしTPPが発効すれば、日本の農業は大打撃を受ける。2013年に公表された政府の統一試算では、関税が撤廃されるなどのTPPの目標がほぼ完全に実施されると、農業の国内生産額は3兆円減少し、カロリーベースの食料自給率は、現状の39%から27%へと低下するという。

 戦争になったときに一番国民を苦しめるのは、食料不足だ。私は、子ども時代に多くの戦争経験者から太平洋戦争の経験を聞いてきたが、彼らが異口同音に言ったのが、ひもじさだった。戦争になったときに一番苦しいのは、食べるものがないことなのだ。だから、先進国は国内自給を目指している。現時点の食料自給率は、アメリカ124%、フランス111%、ドイツ80%、イギリス65%だ。ただでさえ先進国で最低の日本の食料自給率を、安倍政権はさらに大幅に引き下げようとしているのだ。
 太平洋戦争末期、日本の敗戦が確実であることが分かっていながら、軍部はひたすらに戦争を引き延ばし、最後は本土決戦まで主張して、結果的に300万人の人命と国富の4分の1が失われる事態となった。軍の利権を温存するために、国民と国民の財産がないがしろにされたのだ。
 今回のTPP閣僚級交渉は、ニュージーランドの反乱によって、合意が先送りされた。日本政府は今月中にも次回の閣僚級会議を開催して最終決着を目指そうとしているが、私は日本がTPP交渉から脱退する最後のチャンスが、いまなのではないかと思う。
 いくら国土を守っても、国民が失われたら、何にもならないと思うからだ。

 

  

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第68回 何を守ろうとしているのか」 に4件のコメント

  1. magazine9 より:

    安保法制、TPP、沖縄の新基地問題、原発再稼働…すべてに共通しているのは、「国民不在」で進められているということ。特に、TPPのような労働、農業、医療など生活のさまざまな分野に影響を及ぼすものを、秘密交渉や合意をまとめるための妥協などで進めてほしくありません。8月中にもTPP大筋合意に向けて閣僚会合が開かれるのではと言われていますが、私たちは本当にそれを望んでいるのでしょうか? 安保法制と同じくらい、いま注目すべき動きです。

  2. 成瀬雅俊 より:

    「国民を守る」という観点からのご意見大変参考になりました。ありがとうございます。
    私は農業の定義を「仮に一切の輸入が途切れる事態になっても、国民を飢えさせないようにするもの」と考えています。それには自給率を高いレベルで保つことが必要になります。
    今回のTPPは森永さんも指摘されているように日本の食料自給率を低下させるものです。それが意味することは、外国に日本の食糧事情の首根っこを押さえつけられるということです。政治的駆け引きにも使われるでしょう、。
    農業、酪農は一度止めてしまうと、復活させるのに時間がかかるものです。「足りないからやっぱ作る」といった簡単なものではありません。ただの金勘定で農業と産業を同様のものとして扱う政府の姿勢に憤りを感じます。

  3. katute より:

    安倍政府の言う「国民の生命・財産」とは何でしょう。
    そもそも、そこでの国民の定義はどうなってるのでしょう。

  4. 小池 隆夫 より:

    農業だけでなく,医療や保健、食品添加物などでも,それぞれの国の利益や基準が、グローバル企業の餌食になっていくのではないでしょうか。安保法制には批判的なマスコミも、ほとんどが賛成に回っているのも、理解できません。問題点をこれからも取り上げてください。

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森永卓郎

もりなが たくろう:経済アナリスト/1957年生まれ。東京都出身。東京大学経済学部卒業。日本専売公社、経済企画庁などを経て、現在、独協大学経済学部教授。著書に『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)、『年収120万円時代』(あ・うん)、『年収崩壊』(角川SSC新書)など多数。最新刊『こんなニッポンに誰がした』(大月書店)では、金融資本主義の終焉を予測し新しい社会のグランドデザインを提案している。テレビ番組のコメンテーターとしても活躍中。

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