女性が動けば変わる!


 グリーン・ウイメンズ・ネットワークとのコラボ企画でお送りする《女性が動けば変わる!》シリーズは、「エネルギー×地域×食と農×女性」をキーワードに、「ジェンダー平等」実現のためのコンテンツをお送りしていきます。具体的には、自然エネルギー、食、農そして子育てなど命の問題に直結する現場などで、女性がリーダーシップをとり、活き活きと取り組んでいる具体的な事例を中心に紹介していく予定です。企画意図についてはこちら。

 今回は、瀬戸内海の西端に浮かぶ小さな島「祝島」で、対岸わずか約4キロの山口県熊毛郡上関町の浜「田ノ浦」に予定されている原発建設計画(注)に対して、計画が最初に持ち上がった1982年から32年間にも及ぶ長い年月、抗い続けている女性たちを取り上げます。

 祝島、そして田ノ浦の前に広がる海は、目にも美しい景色を有しているだけではなく、海面の下には「海の命のゆりかご」とも呼ばれている藻場が広がり、瀬戸内海の多様な生態系を育む世界的にも豊かで貴重な「場所」。小型クジラのスナメリや海鳥カンムリウミスズメなど、稀少生物が生育していることも認められています。このような自然豊かな海を埋め立てて、原発を作る計画はとうてい認められないとする原発に反対する人々と、過疎が進むこの地域において、国からの補助金による安定した財源を確保したいという原発を容認する人々との、地域を二分する激しい対立が続いてきました。そして、いよいよ埋め立て工事が進むかと思われたその時に東日本大震災と福島第一原発事故が起き、山口県知事は工事の計画を一旦白紙にもどすことにつながる方針を発表。しかしその後、自民党への再びの政権交代により、事態は一変しました。
 『原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ』(岩波新書)の著書があり、祝島の「おばちゃん」たちとの交流も深い、ノンフィクションライターの山秋真さんに、3・11以降、祝島に何が起こったのか? そしてそこに暮らす女性たちがいかにして、巨大な国家事業である原発計画に抗ってきたのか、丁寧な取材を元に書いていただきました。

(注)上関原発計画についての詳しい経緯は、「STOP!上関原発!」のホームページを参照してください。祝島の反対運動の公式の住民団体のブログはこちら「上関原発を建てさせない祝島島民の会」

◆「おじいちゃん」「おばあちゃん」の
いない島

 西瀬戸内海に浮かぶハート型の島・祝島。ここに「おじいちゃん」「おばあちゃ ん」はいません。大人の男性や女性への呼称は、何歳になっても「おじちゃん」「おばちゃん」だから。もっとも、むしろ名前が活躍します。名前に「ちゃん」や「坊」を付けたり、名前の語尾を言いやすく変えて最後に「サー」を付けたり。男性も女性も、結婚しても離婚しても、年齢を問わず、こうして呼びあいます。

 過疎・高齢社会の先進地ではあります。面積約7.7㎢、周囲約12kmの小さな離島でもあります。そのうえ集落の目の前4kmほど先に原子力発電所(原発)をつくる計画があり、国策・原発との対峙を32年も強いられている地でもあります。それでも島人の約9割が人生を賭け世代を超え、原発計画にあらがいつづけることができている――それが祝島です。

◆女性たちがはじめた
「原発いらん」デモ

 島人は毎週月曜の晩にデモをつづけています。この9月1日で1200回を数えました。始まりは、山口県上関町田ノ浦に原発をつくる計画が浮上した1982年の、11月のことでした。「原発はいらん」という自分の思いを言いたくて女性たちが歩いたところ、「それはデモいうもんで、許可をとらなきゃならん」と言われて、それから許可をとってやるようになったそうです。

 祝島のデモは「エイエイオー」のコールが特徴。そのコールひとつにも道のりがあります。「『エイエイオー』って言って拳を上げるのも、最初は小さな弱い声で『エイエイオー』って言うて拳を前に突きだすのが精一杯。だんだん声が大きくなり、拳も斜め前に上げるようになって、いつの間にか、拳を真上に突きあげるようになったのよ。その頃には『エイエイオー』も大きな声でね」。

 デモに限らず彼女たちは動きます。当初は、原発計画を推進する立場の議員も祝島にいました。不審な動きがあれば、すぐ連絡が入ったとか。だから「あのころは寝間着を着ずに寝とった」。いざというとき機敏に動くため、いつしか服装も変わりました。夏はスカートを履いていた祝島の女性たちが、原発問題がでて夜も寝間着を着て寝なくなってから、夏もズボンを履くようになったのです。「みんなズボンを履いとるから、『あそこへ誰それが行った』『集まれー』いうたらすぐ集まって。その家の前で、ずっと番をせちょるんよ。出てくるまで待ってるの」。

 彼女たちは新たな産業も興しています。びわとみかんの産地としても知られる祝島。特にびわは、農薬を使わないので美味しいうえ安心です。実だけでなく葉も無農薬。その葉でお茶をつくり、昔から飲んでいました。その経験をもとに、祝島特産のびわ茶を商品化したのです。こうして生まれた「祝島びわ産直グループ」のびわ茶。原発に反対する運動の一環として、原発マネーに頼らない町づくりと島おこしを目指してつくられています。販路の開拓には、全国各地の女性たちの協力もあったそう。女性を中心に力をあわせて約30年。押しも押されもしない看板商品に育ちました。

◆おばちゃんたちの毎日
「非暴力直接行動」

 中国電力(中電)が原発建設のため海の埋め立て工事を始めようとした2009年秋から、祝島の人びとは連日の直接行動をはじめます。工事の台船がしばらく海上から姿を消したあと、漁師たちは数隻の快速船を中心に警戒をつづける方向に転じました。いっぽう女性たちは、2010年1月から交代で毎日数人ずつ、祝島から田ノ浦の浜へ通うようになります。

 3・11直前の2011年2月21日から数日は、未明から戦のようになりました。陸では中電に雇われた作業員や警備員など総数500人とも言われる人が投入され、海には、中電のチャーター船がいつもより多い大小10隻ほどと、それにも増して圧倒的に多い海上保安庁の大中小極小と各種の船、埋め立て工事のために中電が派遣した約20隻もの台船がひしめきます。

 浜では、大柄な警備員がスクラムを組んで祝島の人びとを遮り、そのなかで作業員に作業をさせようとしていました。計画が浮上したころ50代で、長らく先頭で動いてきたおばちゃんたちは、30年の歳月を経て80代。さすがに「もう走られん」。かわりに機敏に気丈に動いていたのは、一回り年下の世代です。町道と浜の高低差を利用してスクラム内へ竹を差しこみ、スーッと竹をつたってスクラム突破をくり返した人もいました。

 もう一回り若い50代前半の橋本典子さんになると、浜からサーフボードで海にも出ました。中電が、田ノ浦の湾の入り口に数珠つなぎの浮きを張ってオイルフェンスを設置し、祝島の船の出入りを封じようとしたからです。沖ではおじちゃんたちが船を操って懸命にあらがっていたものの、オイルフェンスを張ろうとする小舟に対しては機動性に欠けました。サーフボードなら、その点は申し分なし。典子さんは早朝に祝島を出たときからダイバースーツを着込んでいました。こんなときにも、あくまでも「非暴力直接行動」です。とはいえ、2月の冷たい海に厚さ10センチもないサーフボードを浮かべて半日座りつづけるなんて、容易ではありません。

 戦のような混乱が鎮まったあとも、山口県知事や上関町長の要請を受け中電が工事の一時中止を決めた2011年3月中旬まで、女性たちの田ノ浦通いはつづきました。

***

◆原発をつくるための
漁業補償金を強要されて

 2013年6月。「お金をいらん者はおらんが、じゃからとて、あのお金はのぅ…」というおばちゃんの声に、「別よねぇ」と典子さんが応えていました。祝島の漁師たちが10年以上も前に受けとりを断り、その後もくり返し拒んできた、上関原発の建設と運転への同意を条件とする漁業補償金のことです。前の年の10月に失効する見込みだった埋め立て免許は、12月の衆院選で自民党が大勝した後、県知事が延長申請について判断の先送りをくり返す形で宙ぶらりんに。それと前後して山口県漁協(県漁協)本店は、2013年2月末に祝島支店で抜きうち的に強引な採決を行ない、祝島支店が漁業補償金の受けとりへ転じたとしていました。

 「なんども『受けとらん』言うちょるのに採決さすんじゃから、どうもならん」。コトの顛末を漁師の夫から聞いたとき、典子さんはそう声を荒らげていました。30年前の1000人以上から約440人へ減った島人のうち、漁業補償金について議決権のある漁協正組合員は53名。ほとんどの島人には寝耳に水です。「みんなで頑張ってきたのに、自分だけ銭をもらってどうなろう」「漁師だけの海じゃないんじゃけぇ」という声も聞こえます。漁師の有志で集まって意思を確認すると、過半数の正組合員が、漁業補償金は受けとらないと1人1枚の書面に示して署名しました。2013年3月22日には、それを県漁協へ提出して意思を伝えています。それでも県漁協は補償金の配分案をつくり、6月21日に祝島支店の会合を開いて配分手続きを進めたいと言ってきたのでした。

◆原発を認めることになる金は
絶対受けとらん

 受けとりを拒む正組合員へ、かつての同級生や親戚から電話や訪問が続きます。「補償金を受けとっても原発はもうできん」「補償金は漁業者の権利じゃけぇ」「原発計画に翻弄されてきたじゃろうが」など宥めすかして、島外からも揺さぶりを掛けられているのです。けれど、漁師も漁師でない者も一心に原発にあらがってきた祝島です。島人は発奮し、「受けとり拒否」でまとまるべく奔走しました。すると開催予定日の前日20日、台風の接近を理由に会合は延期されます。

 7月になると県漁協は、延期した会合を8月2日に開くと言ってきました。組合員のもとへ届いた開催案内は、「警告」と題した文書付き。島人の奔走を「場合によっては犯罪に当たる」と事実無根の恫喝までする内容です。心理的な萎縮効果を狙ったのでしょうか。もっとも、おばちゃんに効き目があったかは疑問です。「“警告”いうのは、私ら田ノ浦でしょっちゅう言われとったから、何ともない」と、ある漁師の妻は言っていました。動じないのです。「原発反対運動は、おばちゃんたちで保っとるようなもんなんよ。おばちゃんたちは田ノ浦へ通っとるから、中電らのやることも見て、やりあっとるし」。かつて、そう話してくれた漁師もいました。情報は現場にある、現場を知る者は無用に動じない、ということでしょうか。

◆漁師たちを励まし説得し

 「わしらも31年頑張ったんで。頼むで。あんたら、せんなかろうが(辛かろうが)頑張ってや」。8月2日が迫ったある朝、補償金問題で奔走する漁師たちを、おばちゃんがこう励ましていました。島ぐるみで30年以上も力をあわせ、原発を退けつづける祝島の人びと。周辺の漁業への補償なしに原発をつくることはできない今の日本で、漁師たちが補償金を拒んでいることは、切り札でした。けれど補償金について議決権があるのは漁協の正組合員のみ。そこに女性はわずかに1人です。「補償金は漁師の問題かしれんけど、それを受けとった“結果”は漁師だけの問題じゃないよねぇ」。40代から運動に飛び込み、いつしか70代になった女性が、穏やかに呟きました。

 8月1日、会合前夜。70代を中心に、おばちゃんたちが汗をかきかき歩いて、議決権を持つ漁師たちに協力を頼んで廻っていました。危機感ゆえかもしれませんが、悲壮感はありません。典子さんが差し入れた冷たいびわ茶で一息つきつつ、「ここ数日、毎晩みたいに廻って頼んどるんよ」と、朗らかな声が響きます。

 会合当日。県漁協の理事たちを乗せた定期船が着くと、島人が船着き場に詰めかけました。上関原発を建てさせない祝島島民の会(島民の会)代表など数名が、補償金を拒む組合員を代表して先頭に立ち、事前回答をもとめて県漁協へ送った質問状への答えを再度もとめます。あくまで拒む理事に、「前回のやり方は何なのか説明してみぃ!」「原発に関わることは、組合員だけの問題じゃないじゃろう」と太い怒声が飛びました。「カネでほっぺたを叩くようなことは、しないでください!」と典子さんも声をあげています。昨晩、びわ茶を手に笑い声をあげていたおばちゃんの、鋭い声も聞こえました。「漁師だけでなしに、祝島の一般の者にも説明してください」。

 理事たちは10分ほど船着き場で押し問答をすると、「帰ります」と言って船へ引き返しました。取材に来ていた新聞記者が「押し返したというわけですか?」と問うのに、「“押し返した”? あの人たち、自分で、歩いて帰ったじゃない? 書きたいような言葉で好きに書いて(印象を)操らないでくださいね」「嘘を書きんさんな」と、おばちゃんたちが返していました。

◆「みんなの海じゃ」

 10月になると、またも萎縮を狙う文書付きで、会合の通知が祝島の組合員に届きました。開催予定は10月17日。先輩への敬意から控えめに行動しがちだった50代の「若手」おばちゃんが、率先して動き始めました。いてもたってもいられない様子で集まり、「なんとかせんにゃ」と話しています。「共通のシンボルやキーワードを確認できるといいよね」と案がでれば、「鉢巻じゃ」と即座に声があがります。「原発絶対反対」と手拭に染めた島民の会の鉢巻のことです。キーワードは、漁師歴50年以上の祝島支店の副運営委員長が言った「みんなの海じゃから、守らんと」の「みんなの海じゃ」がいい、当面これをシンボルとキーワードに頑張ろうと、賑やかに勢いづきました。

 ところが開催前夜になって、通算3度目になる延期通知が通知されました。手違いで会場が使えない、という理由です。翌17日、会場になるはずだった部屋へ行くと、おばちゃんたちの姿がありました。各地から続々と届く応援の布メッセージを、床一面に並べています。「部屋が空いとったからね、借りたんよ」。鼻歌まじりにそう言って一枚ずつ丁寧に眺めてから、何枚かで組みあわせると、糸と針を手に縫いはじめました。

 次に県漁協が会合を開こうとしたのは、2014年の3月4日。その日、島民の会は「上関原発を建てさせない祝島集会」を祝島で開き、島外からも広く参加を呼びかけました。集会のあとは、午後5時に予定される会合開始を前に3時ごろから女性たちが布メッセージや自転車を持ちより、船着き場で準備をはじめます。

 8月同様、県漁協の理事たちは最終の定期船で祝島に着きました。島民の会代表と祝島支店の副運営委員長が船に乗りこみ、質問状への事前回答を重ねて求めます。無回答のまま船を降りた理事たちを、「祝島島民の生活を壊すな」などと大書した横断幕を手に典子さんたちが迎えました。背後には人が詰めかけ、さらに後ろにも大勢の人びとが、ヒト1人が通れる幅だけを空けてビッシリ座っています。「げんぱつはんたい」と言いつつ船着き場から溢れそうなほど押し寄せる人波を前に、理事たちは階段を少し登っただけで帰っていきました。

***

◆動く、変わる、変える

 2014年7月。「田ノ浦で中電を相手になら言葉がドンドン出てくるけど、壇上で人に話すのは無理じゃ」と言ってきた典子さんが、東京都内で開かれたトークイベントで祝島の現状を訴えました。典子さんが今回それに踏み切ったのは、危機感に突き動かされて……かもしれません。

 「いま、島の漁師は大変厳しい状況で、漁協の赤字も年々増えています。しかし32年頑張ってきて、海を売るわけにはいきません。祝島は漁師だけではありません。……島のおばちゃんなくして反対運動は語れません」。典子さんの肉声が、緊張を帯びつつも凛としたトーンで会場に響きます。大きくうなずく姿があちこちで見えました。波紋のように思いは伝わります。
 家の名より、ひとりひとりの名前で呼びあう、祝島の永年おばちゃんたち。「おもしろおかしく生きにゃぁつまらん」と言いながら、国策との対峙にも怯まず諦めず、世代を超えてチカラを受けつぎ結びつけ、30年以上も原発を退けています。その生きる姿勢に気力に技に魅せられて、私は祝島へ通うのかもしれません。
 2014年9月1日現在、延期を4回くり返した祝島支店の会合は、いまも開かれていません。

山秋 真ノンフィクションライター。 原発計画にゆれた石川県珠洲(すず)市と関連裁判へ通い、『ためされた地方自治――原発の代理戦争にゆれた能登半島・珠洲市民の13年』(桂書房)で、やよりジャーナリスト賞(2008年)、平和・協同ジャーナリスト基金荒井なみ子賞(2007年)受賞。2010年9月から1年は瀬戸内海の祝島に延べ190日以上にわたり滞在し、その後も祝島へ通って、『原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ』(岩波新書)を上梓。ブログ「湘南ゆるガシ日和」更新中。

 国際環境NGOグリーンピース・ジャパンは、
「女性たちのネットワークをつなげ広げることが、
原発など環境問題の解決への大きなパワーとなる」とし、
「グリーン・ウイメンズ・ネットワーク」をスタートさせました。
グリーン・ウイメンズ・ネットワーク

 

  

※コメントは承認制です。
〈原発を退ける女たち編vol.1〉「みんなの海じゃから、売るわけにいかん」〜32年あらがいつづける祝島の永年おばちゃん〜(山秋 真 ノンフィクションライター)」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    毎週の「原発反対デモ」を30年以上も続け、工事の着工がありそうだとの緊急連絡が入れば、船に乗り込み現場にかけつける非暴力抗議活動を行う「おばちゃん」たち。そして漁業補償金の受け取りについては、議決権をもつ漁師たちの家を訪問し、受け取らないようお願いをしてまわる…。「おばちゃん」たちが長年続けてきたことは、まさに自分たちの命と権利を守るための「不断の努力」。よりよい社会にするために、わたしたちの「幸福追求権」を主張するために、何をしなくてはならないか? 民主主義とは何か? そんなことを考えさせてくれるレポートでした。

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国際環境NGOグリーンピース・ジャパンの女性スタッフの呼びかけで2013年9月よりスタートしたプロジェクト。各地に点々とちらばっている同じ想いの女性たちがつながって、線となり束になって大きな声を政府、企業に届け、環境問題を解決に導くことを目指しています。
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