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この人に聞きたい
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渡辺えり子さんに聞いたその1

生を受けられず、ことばを持てなかった人に代わり、平和を語りつづける

1991年の第一次湾岸戦争勃発、そして自衛隊派遣は、国内に大きな衝撃と落胆の波紋を広げました。
そのときに、ショックを受けながらも、声を上げ続けることを選んだという渡辺えり子さん。
平和をつくる活動と、そこから見えてきたことについてお聞きしました。

erikoさん
わたなべ えりこ(劇作家/演出家/女優)
山形県生まれ。
舞台芸術学院、青俳演出部を経て、1978年から1998年の解散まで
20年間「劇団3○○(サンジュウマル)」を主宰。劇作家、演出家、女優、歌手、作家として
舞台、映像、マスコミのジャンルを問わず活躍中。
2001年劇団の枠にとらわれない自由な表現を求めて、「劇団宇宙堂」を旗揚げ。
現代社会の問題に鋭くメスを入れ、じわじわと世に効く漢方薬のように
人々の心に訴えていく演劇をめざして活動している。
著書に『早すぎる自叙伝 えり子の冒険』(小学館)
『思い入れ歌謡劇場』(中央公論新社)など。
「非戦を選ぶ演劇人の会」実行委員、『マガジン9条』発起人の一人。
開戦前夜と今の空気がだぶって見えてきた
編集部

先日(12月8日)のピースリーディングvol.8「未来へ」が行われましたが、渡辺さんは、全体の総合演出と、第二部の「太平洋戦争」台本の構成、演出、出演を担当されました。第二部のリーディングは、開戦から終戦を経て、平和憲法が交付されるまでを、当時の人たちの言葉だけで構成され、時間軸にそって1時間でまとめられていましたが、膨大な量の資料をお読みになったそうですね。台本を構成していく過程でどのようなことをお感じになりましたか?

渡辺

今回のピースリーディングは、まず日本が真珠湾攻撃をして戦争を始めた12月8日にやりたいというのがありました。こだわったその理由は、今の空気と開戦前夜の空気が似ているんじゃないかと、言われているでしょう。8月頃からそのための準備をしていくうちに、 “なぜ先の戦争がおこったのか”ってことについてよく知らないということに、気がついてしまったのです。戦争がなぜ起こったかを知らずして、戦争反対は言えないですよね。

そこで日本史を勉強することから入っていきました。半藤一利さんの『昭和史 1926−1945』(平凡社)、保阪正康さんの『あの戦争は何だったのか』(新潮新書)、その他たくさんの本、資料、文献を集めて読んでいきました。

何となくは想像していましたが、軍部とマスコミが癒着して民衆を扇動していく恐ろしさについては、勉強していくうちに改めて感じましたね。当時のマスコミはラジオと新聞ですが、軍部がそこに莫大なお金を払って、自分たちの都合のいいように空気をつくっていった。その責任は本当に大きいですよ。

60年前の12月8日には、当時の文化人、知識人といわれた人たちが、みんなものすごく開戦を喜んでいるんですよ。誰も悲しんだり憂いたりしていない。これまでは、戦後の反省をしている姿しか知らなかったんですが、こんなにみんな大喜びしていたとは、といった感じでした。作家も演劇人もみんな全員、12月8日はこぞって、ばんざい、ばんざいやっていたわけです。

編集部

リーディングで読まれていましたが、太宰治や伊藤整(*1)なども開戦を歓迎している言葉を残しているのに、驚きました。

渡辺

私も当時の人間だったら、“いけいけどんどん”でやったのではないかとも思います。そんな空気ってあるでしょう。でも今のこの調子では私たちはまた同じようなことになってしまいますよ。60年前の昔の話というのではなく、今の状況と相当にだぶって見えてきましたから。

満州事変から太平洋戦争が終結するまでの15年間、指導者たちは迷走し、マスコミが扇情し、日本だけで310万人もの命を犠牲にしてしまったこの戦争。当時は全てが狂っていたから、異常事態だったから、といいますが、果たしてそうでしょうか? 現在の私たちが当時に生きていたら、同じ過ちを犯していたと思うし、私もそうなっていたと思うのです。

A級戦犯になった東条英機はたしかに悪いのでしょうが、彼一人だけが本当に悪かったのでしょうか。軍部だけでなく、あおったマスコミ、あおられた民衆がいたわけです。それで民衆がものすごく期待した。そうなると軍部も本当のことを言えなくなってしまって。どんどん悪循環、泥沼に入っていくのです。

当時、近衛文麿(*2)というとても人気のあった首相がいましたが、それも今の小泉さんとそこに熱狂する国民の姿とだぶってきましたね。この調子じゃ、私たちはほんとうにまた同じような間違いを犯すことになりかねない。台本を書くのに当時の人たちの言葉が綴られた膨大な資料を毎日繰っていましたが、憲法が変わって軍隊ができたら、これは相当に大変なことになってしまうと、もう確信しました。

憲法を変えて軍隊ができたらどうなるか、軍隊とはどういうものか、
渡辺

軍というのは、戦うのが仕事です。日本に軍隊があった時、陸軍の仮想敵国はロシア、海軍の敵はアメリカでした。軍隊というところは、仮想敵国をつくらないことには、存在していられないわけです。

仮想敵国を作り、全部自衛のためだと言って武器を用意して、訓練をしておく。しかし戦争というのは昔も今も、全て「自衛のため」から始まるのです。この間のイラク戦争だって、大量破壊兵器があるとでっちあげて、先にやられないために、自衛のためにやるんだと言って戦争を仕掛けていったわけです。

また軍人というのは、戦略で動く人間です。リーディングでもやりましたが、防衛総本部の陸軍中尉の菰田康一という人は雑誌に、「東京大空襲になったとき、10万人ぐらい死ぬかもしれないが、日本全体を見れば10万や20万死んだところで驚くことはないし、日本は滅びないだろう、関東大震災の時も見事に復興したではないか」と書いています。

恐ろしいただの机上の論理ですね。10万人と一言で片づけてしまって、そこでのたうちまわって死んでいく一人ひとりの人間の命があるということをまったく見ていないのです。

今のリストラや政府のやる民営化もそういうところがあるのではないでしょうか。数字だけを見てそこに人間の命を見ていない。そのやり方を変えていかないと、平和な世の中は絶対に作れないなと、私は思います。

編集部

これまでは憲法9条という歯止めがありましたが、9条を変えて自衛隊を自衛軍にするのが自民党の改憲案です。

渡辺

自民党の憲法改正草案も読みましたが、よくわからないし普通じゃないですよね。とにかく文章がへたくそだし。いったい誰が書いたのでしょうね。あとの細かいところはまだ研究してはいませんが、とにかく9条だけは変えるべきでないですよ。集団的自衛権を認めてアメリカと一緒に戦場に行くことが可能になったら、国際協力という名目を付けられても、これまでよりももっと過酷なところに行くことになるでしょう。そうなると自衛隊だけじゃ間に合わなくなって、徴兵制も始まるでしょう。

そして今度は実際に弾を撃つわけです。人を殺すための訓練が始まるわけです。普通、人は人を殺せるような神経を持っていませんから、その神経を無くす訓練をすることになるのでしょう。若い人が徴兵されて、2年ぐらいの間、いったいどんな訓練が行われるというのか。そこからもどってきた人がどんな人格を持つことになるのか。

軍隊というのはどういうところか、もっと想像して欲しいと思います。軍隊は、人を数多く殺した人が偉くなるところです。人間の命は一番大切だ、そう言っているのに、戦争だったらいい、国際法で認められているからいい、って。そんなばかな話は、私は認められません。

やったらやり返されるわけです。日本軍にやられたら、その国の人はやり返しに来るのではないでしょうか。反日感情はどんどん高まります。そうしたら今度は、個人の自衛のために拳銃を持ってもいいということにもなるかもしれません。こういうことは一度歯止めがなくなると、次々に広がっていくのです。

歴史を学んでもっと想像して欲しい
渡辺

この間、幕末の戊辰戦争(*3)に関わった長岡藩の河井継之助(*4)を描いたドラマに出演したのですが、河井継之助も武装中立の立場だと言いながら、自衛のためだといってガドリング砲(機関銃の一種)を持ってしまう。そしてやはり攻められて滅びてしまうわけですから。そうやって歴史が証明しているわけですよ。武器を持っていたらこちらからは仕掛けないと言っても、そうなるのです。どうして私たちは、歴史から学ばないのでしょうか。

編集部

これまで現代史については、あまり学校で教えてこなかったというのもありますが、歴史を知り学ぶことはおもしろい発見の連続でもありますね。

渡辺

おもしろいですよ。なぜ戦争が起きたのか? これはもう明治維新の前からの資料を読んで勉強しないとわからないです。日本の支配層には、黒船が来て開国して以来、ずっと英米に対する恨みのようなものが続いていたわけです。私も膨大な資料を毎日読んで当時の人たちの気持ちを想像していると、ちょっとこれも、一理あるなと思ったり。なんだアメリカは、ぜんぜん今も変わっていないなとか。それなのに誰がこれだけのアメリカべったりの日本になると想像したでしょうか。

リーディングの会が終わった後も、台本作成の資料用に注文してあった本がまだ続々と送られてきていて、10冊ほどたまっているのですが、昨日も本屋で『天皇と東大 大日本帝国の生と死』(立花隆著、文藝春秋)や『東条英機と天皇の時代』(保阪正康著、ちくま文庫)を見つけ、面白そうなので買いました。このお正月にじっくり読むのが楽しみです。

父の戦争体験を聞いたのがひとつのきっかけとなった
編集部

渡辺さんの作るお芝居が意識的に変わったきっかけとして、お父様から聞いた戦争体験の話があるそうですね。

渡辺

私の作る芝居はファンタジーですから、直接的なメッセージを投げかけるようなものではありません。もちろん前から戦争には反対だったし、1982年に書いた戯曲『ゲゲゲのげ 逢魔が時に揺れるブランコ』にも、そういったものは入っています。でもそれまでは、私自身が戦争と繋がっているという意識はありませんでした。それが30歳代になって初めて聞いた父の戦争体験によって気持は確かに変わりました。

戦時中父は、東京の中島飛行機製作所という軍需工場でゼロ戦のエンジンを作る仕事をしていました。18歳だった父は工場が爆撃予告を受けた夜、最後の工場番として残りましたが、奇跡的に九死に一生を得ました。それで私が生まれているわけです。言い換えれば父が死んでいたら私はこの世にいなかった。戦時中というのはそういう人がたくさんいたわけです。310万人死んだのですから。

私と同じ年の人が本当は、星の数ほどいたのにその人たちがいない。もしかしたら一緒に芝居をしていたかもしれない人たちがこの世にいない。生まれたいのに、まさに母親のお腹から出かかっていたような人も、殺された。父の体験を聞いてから、その人たちが生まれていたら、生きていたらどうだったんだろう、ということを考えざるをえなくなったのです。

生まれてこられなかった人は声を持てませんから、生きて生まれた人が、その戦争の悲惨さを伝えていかなければと強く感じました。父自身、自分は一度戦争で死んだ人間だからと言っています。父は戦後、学校に進学して教員になっています。戦時中、大人たちには正義の戦争だと教えられて、それが戦後、あれは間違いだったと180度意見を変えられたことで、いったい教育とは何なんだ、ということを見届けたくてその道を選んだと聞きました。

それにしても普通そんな目にあったら、人間不信になってどうしようもなくなるでしょう。だから戦後自殺した人もたくさんいたそうですが、生き残ってがんばった人たちもいるわけですから、人間ってそれだけ変わり身もはやいということかもしれません。


*1 伊藤整(1905〜1969) 詩人、小説家、評論家。「新心理主義」を唱える。『ユリシーズ』の翻訳、評論『日本文壇史』などで知られる。

*2 近衛文麿(1891〜1945) 政治家。1937年(昭和12年)から3度にわたって内閣総理大臣を務める。彼が第二次内閣の際に締結した日独伊軍事三国同盟は、米英との関係悪化を決定付けた。終戦後、GHQから戦犯容疑で出頭を命ぜられて服毒自殺。

*3 戊辰戦争 明治維新後に起こった、新政府軍と旧幕府勢力との一連の戦いを指す。1868年(明治元年)から翌年まで続いた。

*4 河井継之助(1827〜1868) 幕末の越後長岡藩家老。戊辰戦争では旧幕府側につき、長岡藩を指揮して戦うが、長岡城落城後に負傷がもとで亡くなった。

つづく・・・

深い感動と大きなメッセージを与えてくれた「ピースリーディング」。
膨大な資料を読み構成を練り上げ、上演前の1週間は
平均睡眠時間1、2時間でまとめ上げたそうです。
「大変なことをやり遂げるのでないと、つまらないでしょう」と渡辺さん。
引き続き、平和をつくる力強いことばや活動についてお聞きしていきます。

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