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この人に聞きたい
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小林節教授さんに聞いた

無知・無教養がはびこるこの国の政治
憲法は国民が国家の権力を縛るものという
立憲主義の原則自体を否定するような、改憲論調が目立ちます。
改憲派の論客として知られる小林節教授に、
最近のこの論調についてお聞きしました。
小林節さん
こばやし・せつ
慶應義塾大学教授・弁護士。
1949年生まれ。元ハーバード大学研究員、元北京大学招聘教授。
テレビの討論番組でも改憲派の論客としてお馴染み。
共著に『憲法改正』(中央公論新社)、『憲法危篤!』(KKベストセラーズ)
『憲法』(南窓社)、『対論!戦争、軍隊、この国の行方』(青木書店)など多数。
歴史から学んでいない自民党の二世、三世議員たち
編集部 小林さんは、昔も今も改憲派の論客の第一人者という立場で、1992年には「憲法改正私案」を公表されています。ですが、現在は「護憲的改憲派」と自称されていますね。
小林  僕は、日本国憲法はいいものだと思っています。しかし憲法だって国民が幸福に暮らすための道具ですから、古くなれば修正も必要になるだろうし、もっと良い方向に発展させていくべきだと思っています。しかし、どうも改憲と言った瞬間から右翼扱いをされてしまうのですが、僕のは、岸信介(第56、57代総理大臣)が唱えたような、戦前回帰的な改憲論とは違います。 
編集部 以前お書きになっているコラムに、「護憲派の市民たちは、集会で、『憲法を護(守)ろう!』と叫んでいるが、私はむしろ、『憲法を権力者に守らせよう!』と叫ぶべきではないかと思う」とあったのが、印象に残っています。その発言の根本にあるのが立憲主義ですよね。しかし、いま自民党中心の改憲論議のなかでは、憲法は国民が国家の権力を縛るものだという立憲主義という前提自体が、自明なものではないかのごとく扱われています。
小林 私は最初、これは悪意かな? と思ったんですね。知っていてわざと嘘をついているのかな? と。しかし彼らは基本的に無知なんです。
 民法は、私人間の取引の法、商法は、その中の商売人の取引の法、刑法は犯罪の法、訴訟法(民・刑)は裁判の法、そして最上位法である憲法は、国民が政治権力を管理する法だという、法の基本的な役割分担を国会議員が知らない。
 だから、愛国心とか教育とか倫理・道徳の問題に、憲法を直に持ち込もうとするようなことが起こるのだけれども、それは、はっきり言って無知・無教養だからなんだと気がつきました。
 そして一部法制局の役人とか、改憲派としては有名だけども憲法学者としては無名な何人かの御用学者が、愛国心を憲法に持ち込むような、彼らのやり方に根拠を与えようとしているだけなんですよ。
編集部 専門家と言われる人たちの中にも、「立憲主義という見方もあるけれども…」という、あくまで、立憲主義が、一つの見方だというような言い方をする人がいますよね。
小林 一つの見方って、それしかないんだけどね(笑)。彼らは、歴史に学んでいないんです。人間というのはみんなで共同生活をするに当たって、専門の管理会社みたいなもの、国をつくるわけです。人間は一人ひとりバラバラでは生きていけないから、国家というサービス管理会社がある中で共同生活をして生きていくわけです。そうすると、国家というものは、個人の次元を超えた強大なる統制権を持たないと、交通違反一つだって取り締まれない。
 かつては、その強大な権力を、一人の個人や家が独占していた時代がありました。すると例外なく、権力は堕落していきます。それは人間が不完全なものだからです。そういった失敗の歴史を経て、我々は学び、長く放っておけば必ず堕落する権力というものに、たがをはめるために、憲法が作られたものなのです。

 しかし、自民党の二世、三世議員、世襲で権力者の階級になっているような人たちは、「自分たちは間違えない」と勝手に思い込んでいる。なぜかというと、自分たちこそが権力であり、判断基準だから。民主主義の制度の中では、権力は永遠じゃないのに、自分たちは永遠に権力の座にいる気なんですね。

 生まれたときからおじいちゃんは国会議員、お父さんも国会議員、そして自分も当選したという人たちですから、権力を離さないし絶対に間違えない、という前提がある。だから、自分たちを管理するという立憲主義の発想にはすごく抵抗があるんだろうね。

 そうこうしているうちに、社会ではさまざまな異常な事件が起こる。そうすると、「世の中が間違っている、国民を躾けなきゃいけない」政治家は法律をつくるのが仕事で、法の法たる最高のものは憲法だから、憲法で取り締まればいい――となる。そして、国民は国を愛する心を持つように・・・とか、家庭における役割分担をきちんと考えよう・・・とか。これでは明治憲法下で神たる主権者=天皇が「告文」に始まる大日本帝国憲法で、国民に説教をしていたのと同じです。
 そういった最低限の歴史的教養も、国家論的教養もないんですよ。それで憲法改正を論じているのは、傲慢以外の何物でもない。
護憲派は立憲主義の教育をやってくるべきだった
編集部 『ルポ 改憲潮流』(斉藤貴男、岩波新書)のなかで、筆者が読売新聞の論説委員長にインタビューしている箇所があるのですが、この論説委員は、「立憲主義なんていうのは、大学の狭いアカデミズムだけの話なんだ」ということを言っていますね(※「憲法学者というのは、伝統的に現行憲法ファン学者であってね。逆に言えば、ある時期まで、そうでなければ生きていけなかった。ギルド社会の話ですよ」と発言。P169)。
小林 「立憲主義? ああそんなのは…」っていうその傲慢さ。それが平気でできるというのは、やはり無知だからです。しかしいまの改憲主流派に読売新聞の影響は大きい。その準備に、かつて僕も付き合ってきたのだけれど・・・。
 だけど、これは護憲派に言っておきたいけど、きちんとした憲法常識が世の中に浸透していないということは、護憲派がそれをきちんと何十年も語って来なかったということなんですよ。
編集部 憲法は国民が権力者である国家、つまり政治家と公務員を縛るものだという、立憲主義の原則を広く啓蒙してこなかったツケがまわっていると。
小林 そうです。「9条を守りさえすればこの国は平和で、9条を改正されたらこの国は危ない」なんて言って内輪で会合を開いて、影響力のないところで護憲念仏を唱えて、うっとりしていた時代が長すぎたんです。
 そんなことより、小・中・高校と大学の憲法講座、一般教養の法学講座できちんとした憲法教育をすることが護憲派の役目なんですよ。立憲主義の教育を全然してこなかった。それでいま襲われて焦っているわけだからね。

 立憲主義は、人間の本質に根ざした真理です。つまり、権力は必ず堕落する。なぜなら権力というのは、抽象的に存在するのではなくて、本来的に不完全な生身の人間が預かるからなんです。つまり政治家と公務員が、個人の能力を超えた国家権力なるものを預かって堕落してしまうということです。
 歴史上、完全な人間は一人もいない。不完全だから、必ず堕落するんです。権力者の地位に着くと、自分に「よきにはからえ」となる。だからこそ憲法をつくって権力を管理しよう、そういう仕組みになっているんです。
編集部 その点で言うと、自民党の船田元代議士(自民党憲法調査会長)などが「新しい憲法観は、国家と国民が協力するという関係を前提とする」と主張するのは、根本からズレているわけですね。
小林 ズレてますね。僕らは有権者として選挙し、国民として納税していますから、すべて国民は、国家に協力しているんです。国家と国民が協力しろと言っているのは、国家権力を握っている人たちです。1億円もらっても都合悪くなると忘れちゃったり、都合悪すぎると思い出したりする、でも責任は取らないというような人々が国家権力者であり、国家そのものなの! そういう人たちが我々非力な国民に対して「協力しろ」と言うのは、要するに「黙って従え」か「少なくとも批判するな」という話なんです。

 僕は弁護士活動をして初めてわかったけど、国家って、本当にちょっとした事実で人を疑ったら、犯罪者に仕立てるために証拠をつくるようなこともやるんですよ。「お前、隠しているな」としか見えないならば、“引っかけて”でも絶対に有罪にしてやろうという意識がある。だから僕は、本当に権力というものは恐ろしいと思っています。

ひとつの命の尊さを感じて
編集部 前述した『ルポ 改憲潮流』では、小林さんも著者にインタビューされていますが、小林さんの「私も、しかし、年を取ってわかってきたんです。人間の命の重みをね」という発言が強く印象に残っています。あの言葉の意味することについて、もう少し聞かせてください。
小林 本当にこれは恥ずかしい話だけど。私は権力者の子でも、金持ちの子でもないし、むしろハンディキャップを負って生まれて来たから、子どもの頃はいじめられたことしかなかった。それで「勉強するしか道はない」と思ってガリ勉をやって、アメリカのハーバード大学へ留学し、帰ってきて慶応大学の教師になった。
 当時は憲法学者で改憲論を唱えるのは珍しくて、しかも右翼的な大学じゃないから、けっこう若くして自民党の改憲派の勉強会に呼ばれて、参加するわけですよ。権力者サークルの中に、年の若い僕が「先生、先生」と誘われる。僕も二世、三世議員と同じような感覚になって、ズレていったと思うんです。

 たとえば9条論でいえば、非武装中立で国を守ろうという人がいたら、「それで襲われて滅びたらどうするのか、それは非常にプライドのないことだ」と反論をしていた。万が一抵抗して戦争になっても、一部の人が死ぬことによって、全体が残ればいい。1億人を生かすために、1万人が戦争で死ぬなんてことはあるだろう。「1万人もコストのうち」なんて、数字上のゲーム的な感覚があったわけですよ。これはまさに権力者の感覚だと思う。

 まず自分が戦争に行くなんて思っていない。自衛隊に行かせて、自分自身は国家の中枢だから安全なところにいる。そういう感覚で私も議論していた。ただ、売られた喧嘩は買わなかったらやられるし、占領された国の男は強制労働か反発すると殺され、女は犯される、というのが歴史の示すところだという考えに、今も変わりありませんが。
 その意味で、戦争というのはさせちゃいけない。だからよく管理された民主的な軍隊を持つことによって、攻められない、攻めにくい国だというプレゼンスは必要だと思う。ところが軍隊というものは、本来的に非民主的だということに最近気づいた。いま、それで悩んでいるのです。

 それはそれとして、人の命というものを統計学的に考えていたわけです。ところがいま57歳だけど、34歳のときに初めて子供ができた。
  生まれてきた赤ちゃんをウチの家内があるときギュッと抱きしめて「よくぞウチに生まれてきてくださいました」なんて挨拶しているんだよね。赤ん坊は抱きしめられて、息苦しくて顔が一瞬引きつるわけ。ところが、愛されて抱かれているんだとわかったら、子どもはヘナッという顔に変わる。そういう姿をたまたま目撃して、ちょっと感ずるところがあった。この命も一つの命だ。1万人も誤差のうちなんて、そういう議論をしていたけれど、もっと、戦争と命の問題を深く悩みながら考えるべきではないかと。

 それから戦争映画や戦記物なんかを見たり読んだりすと、ゾッとするようになった。それを家内につぶやいたら、「よかったわ、あなたにそういう感覚ができて。あなたは優秀で尊敬していたけど、怖い人だと思っていた」と言うんだよ(笑)。まあ、手前勝手ですけどね。子どもを持って、命の尊さがわかったんですよ。
つづく・・・
立憲主義に対する無知・無教養をするどく批判される一方で、
驚くほど率直に自らの過去や心の揺らぎを洩らした小林さん。
次回は、自民党の改憲草案や国民投票法案について、
そして護憲派への注文を語っていだだきます。お楽しみに。
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