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2011-03-09up

鈴木邦男の愛国問答

第70回

北朝鮮で「よど号」グループと会った

 北朝鮮から帰ってきて4日目だ。疲れた。まだ興奮している。慌ただしい旅だった。でも、よく入国できたと思う。もう入国は無理か、と諦めかけていた。そんな時だっただけに驚いたし、嬉しかった。それに、「よど号」グループにも会えた。やっと会えた。8時間もぶっ通しで話し込んだ。

 「よど号」ハイジャック事件は1970年3月31日だ。もう41年前だ。赤軍派の9人が、日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮に行った。「我々は“あしたのジョー”である」と言って、飛び立った。「敵ながら、凄い奴らがいる」と僕は思った。格好いいと思った。学生運動はもう退潮期で、ほとんどない。そんな時だっただけに、「最後の花火」のように美しく見えた。爽やかに見えた。乗客を人質に取ったが、誰一人、傷つけていない。むしろ、別れる時は「がんばれよ」「サインしてくれ」と乗客に言われた。そんなに愛された「犯人」は他にはいない。三島由紀夫だって、この事件には「先を越された!」と言い、「日本刀による決起がいい!」と言って絶賛した。そして8ヶ月後、三島は自衛隊で日本刀による決起をし、自決する。
 左翼だけでなく、三島や右翼にも大きな衝撃を与えた事件だった。僕も衝撃を受けた。だが、自分とは関係はない。「敵」がやったことだし、と思っていた。

 ところが1980年代になって、何故か彼らと「交流」するようになり、1990年代には急接近し、「一水会訪朝団」が1995年に行った。ただ、この時は僕だけビザが下りなかった。それから何十回とビザを申請したが全て断られた。しかし、2008年に、やっと入国できた。ただし、「よど号」グループとは会えなかった。一回入国できたのだから、もう大丈夫と思っていたが、それ以来ずっとビザは下りない。「あれはどうも間違いだったようです」とまで言われた。そんな諦めムードの中だっただけに、今回の訪朝は嬉しかった。
 断られても断られても、なぜ拘ったのか。北朝鮮という国をこの目で見たい。それもある。それ以上に、「よど号」グループに会いたかった。そして話してみたかった。「民族主義」や「愛国心」について、トコトン話し合ってみたかった。
 80年代に、「よど号」グループと「交流」が生まれた、と言ったが、彼らの方から話があったのだ。「民族主義について、日本の新右翼と話し合いたい。機関紙や資料を交換しよう」と言われたのだ。訪朝した新聞記者から、そう「伝言」を聞いた。それから「交流」が始まった。
 「よど号」グループは、元々は「民族主義」や「愛国心」には無縁だった。「世界革命」を目指し、インターナショナルだ。「小さな民族主義を考えるから、排外的になる。こんなものはいらない」と、思っていた。ところが、北朝鮮では皆、民族主義だし、愛国心を持っている。又、それを基盤とした上での〈革命〉だ。そのことに、初めて気が付いた。そして、急遽、「民族主義」や、「愛国心」について考え始めた。勉強した。さらに、「日本の民族主義団体にも会ってみよう。案外と、話が通じるかもしれない」。そう思ったのだ。

 「北朝鮮に行って、彼らも変わったんだ。いい事だ」と僕は思っていた。でも、まだ「他人事」だった。ところが、一つの論文が、この状況を大きく変えた。もう、「敵」ではないと思った。急接近した。当時、彼らは『自主と団結』という機関誌を出していた。その第4号(1991年)に、若林盛亮さんが、「鈴木邦男氏のナショナリズムについて」という、長い論文を発表していた。僕の本などを読み、書いていた。「反共よりも、民族主義の方が大切だ」という僕の文章を読み、評価していた。そして、「もはや彼らは敵ではない」「民族主義について共に語り合える」と断言していた。これは驚きだった。それからは急接近だった。
 「よど号」グループ代表の田宮高麿さんから、「ぜひ共和国に来て下さい。話し合いたい」と招待状が来た。そして、1995年、「一水会訪朝団」が組織され、北朝鮮に行った。ただ、団長だった僕にだけは、ビザが下りず、木村三浩氏(現・一水会代表)、見沢知廉氏などが訪朝した。てっきり僕は行けるものだと思い、周りにも「行きますよ」と言っていた。テレビや新聞からも随分と取材された。
 「よど号の人達に会ったら、まず何と言いますか?」と訊かれた。だから答えた。
 「初めてのような気がしませんね。毎日のように写真を見てましたから。銭湯や駅や交番に貼ってある指名手配の写真で…」。
 それで(笑)があって、あとは一気に、民族主義、愛国心、革命… について話し合う。そう思っていた。そういう作戦を立てていた。

 その後、2008年に、やっと入国できた。その時は労働党は、まだ僕のことをよく知らなかったのか、あるいは調査段階だったのか、「よど号」グループには会えなかった。その後、3年間、ビザを申請し、日朝のパイプになる人と話し、頼んだ。そして、やっと3月に、2度目の訪朝が実現した。2月28日(月)に北京で泊まり、3月1日に、ピョンヤンに入る。今度こそ会えると思ったから、「いつ会えますか?」と何度も訊いた。「明日か明後日ですね」「最後の日までには会えます」…と言う。向こうの党関係者にも会った。拉致事件や日朝関係について話し合った。又、板門店や、歴史博物館、中学校の見学などにも行った。でも、「よど号」グループのことが気になって仕方ない。本当に会えるのかな。今度もダメじゃないのかな。心配だった。
 そして、やっと会えた。最後の最後に会えた。3月4日(金)の午後6時だ。小西さんと若林さんがホテルに来た。41年も思い続けた恋人にやっと会えた。そんな感じだった。思わず抱き合い、号泣するのかと思った。そんな劇的対面になるのかと思ったが、〈現実〉はクールに、淡々と展開した。「やあ、久しぶり」と小西さん。エッ? 前に会ったっけ。「あっ、初めてでしたね。本やテレビで見てるから、どうも初めての気がしませんね」。僕もそうだ。指名手配のポスターで見てたからとは言わない。本やテレビでよく顔は見ている。
 向こうには「お付き」の人が一人いる。お世話係だ。良く言えば、ビッグな「よど号」に対するSPのようなものだ。悪く言えば、監視役か。こっちにも、お付きというか、ガイドさんが二人いる。でも、待ちこがれた「恋人」たちの逢瀬には最大限の配慮をしてくれた。我々だけにしてくれる。彼らは、遠くで待っている。だから、思い切り自由に話せた。
 午後6時に会って、ホテルの喫茶室で話した。そして、近くのレストランで個室を取り、飲み、食べながら話し込んだ。さらにホテルに戻り、僕の部屋で話し込んだ。次の日は朝7時に出発だ。それまで徹夜で話し込んでもいい。皆、そう思った。でも、ホテルのロビーでは、「お世話係」の3人が、じっと待っている。
 「朝まで待たせちゃ悪いよな」と思い、夜中2時頃に、「じゃ、この次に来た時に」と言って別れた。なごり惜しいが、別れた。気が付いたら8時間もぶっ通しで話していた。

 「いつまでもこの国のお客さんじゃ申し訳ない」と彼らは言う。「日本に帰って闘いたい」と言う。でも帰国したら、最低でも15年は刑務所に入る。20年になるかもしれない。〈世界史〉を作った人だ。歴史の生証人を、長期間、刑務所にぶち込むなんて、「国家の損失」だ。だから、焦って帰国するのには反対だ、と言った。
 又、ヨーロッパでの日本人の「拉致疑惑」についても、いろいろと聞いた。やってないし、全く関係ないと断言する。僕もそう思った。そのことも、全てキチンと話したらいい。それを僕がまとめて本にしてもいい。又、日朝関係の今後について。日本への期待などについても聞いた。しかし、一番多かったのはハイジャックの話だった。41年も前のことなのに、まるで昨日のことのように話す。知らなかった〈新事実〉も多かった。マスコミに出てない話もある。それらは又、少しずつ書いていこう。色んな事を考えさせられた訪朝だった。今までで一番〈収穫〉のある旅だった。

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昨年10月の当コラムでも、
「北朝鮮に行きたい!」と叫んでいた鈴木さん。
ついにその「悲願」が実現したようです。
鈴木さんの見たこと、聞いたこと、そして考えたこと。
今後のコラムで読めることを期待しています。

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鈴木邦男さんプロフィール

すずき くにお1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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