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2011-11-02up

鈴木邦男の愛国問答

第85回

再び北朝鮮へ

 北朝鮮に行ってきました。10月21日(金)に成田を発ち、その日は北京に泊まり、翌22日(土)にピョンヤンに行きました。そこで3泊。25日(火)の夜に帰国しました。慌ただしい訪朝でした。そんな訳で、この連載のアップも1週間延ばしてもらいました。すみません。

 訪朝は3回目です。それに、今年は2回目です。前回は2月28日から3月5日まで行ってきましたし、まさか1年に2回も行くとは思いませんでした。それに前回は、帰国して6日後に東日本大震災が起こりました。「北朝鮮は大変だった。暗かった。寒かった」などと言ってられなくなりました。その前日の3月10日には「訪朝報告・記者会見」を大々的にやり、拉致問題、日朝国交、「よど号」帰国問題について話をしましたが、勿論、報道はされませんでした。

 前回は北朝鮮側の対応は厳しいものでした。「拉致問題は終わった。死んだ人を生き返らせて戻せというのか」の一点ばりで、とりつくしまもない。という感じでした。「日本はいつも嘘ばかり言って、約束を破る」「小国だと思って我が国を侮辱している」と恨み、批判ばかりでした。

 ところが今回は違います。「日本は今、大変ですね。大丈夫ですか」と心配され、慰められました。政府関係者、労働党関係者、「よど号」メンバー、その他、多くの人達に会いましたが、皆、そう言います。21日には北京で泊まり、日本の新聞記者や中国人ジャーナリストにも会いましたが、中国の人達も皆、日本に同情し、心配していました。中国も北朝鮮も日本に義援金を送っています。自分たちも大変なのに、日本に義援金を送ってくれました。日本人の一人として、「本当にありがとうございました」とお礼を言いました。

 「アメリカの地震兵器でやられたそうですね。アメリカは酷いですね」と言う人もいて驚きました。「そんなことはありません」と否定しましたが、そんな怪情報までが伝わっているんですね。

 ピョンヤン市内は建設ラッシュでした。来年の金日成さんの生誕100年に合わせて、104階の柳京ホテルは完成間近でした。又、金日成さんの銅像の近くには巨大ドーム、ビル群が建設中でした。来年まで間に合わせるべく、急ピッチで建設中です。高麗ホテルに泊まったのですが、43階の回転レストランから見ると、見渡す限り高層ビルで、まるでニューヨークに来たようです。高麗ホテルのすぐ隣には、さらに高いホテルを建設中です。

 羊角島ホテルにも行き、74階の回転レストランで夜、お酒を飲みました。ニューヨークや上海のようなネオンの海の夜景ではありません。灯りは少なく、グンと質素な夜景です。でも、キム・イルソン広場、チュチェ塔などはライトアップされ、それが又、神秘的・幻想的に見えました。

 こんなに急ピッチで高層ビルを建設していて大丈夫なのかと思いましたが、「我が国は地震がないから大丈夫です」と言います。あっ、そうなのかと思いました。1970年に「よど号」をハイジャックして、北朝鮮に「亡命」した、赤軍派の人達とも会いました。「よど号」グループと呼ばれていますが、小西隆裕さん、若林盛亮さんと会い、連日、話し込みました。「42年間ここにいるけど一度も地震は体験してない」と言います。

 郷望の念やみがたく、ともかく日本に帰りたい。15年、あるいは20年、刑務所に入ってもいいから帰国したい…。そんな思いだと日本では伝えられていますが、違いました。「日本政府に屈服し、投降する形では帰国したくない」と言います。自分たちは日本のために日本を思う余りに、ハイジャックをやった。その自分たちに、ヨーロッパで日本人を拉致したと逮捕状が出ている。愛する日本人同胞を拉致するはずがない。これは許せない。撤回してもらいたい。と言います。

 「帰国してから裁判で訴えたらいいでしょう。分かってもらえますよ。僕らも応援しますよ」と僕は言ったのですが、ダメでした。「撤回しない限り、帰国できない」と言います。「帰るなら、日朝国交に少しでも役立つ形で帰りたい」と言います。「面子や意地ではありません。活動家として当然のことです」と言います。革命家の誇りかもしれません。「時代は変わったんだ。そんなのは捨てたらいいだろう」と言おうとして、やめました。革命家としての誇りがあるからこそ、42年間、頑張ってこれたのでしょう。

 連日、ピョンヤンで、「よど号」グループと会い、腹をわって話しました。42年前のハイジャック事件を、つい昨日のことのように話します。毎日その話をしてると、何か、タイムスリップしたようで、日本に帰ってからも、遠い世界から戻ってきたような感じがしました。

 「よど号」グループとは、ほとんどホテルの中で話をしました。喫茶店、レストラン、回転レストラン… と場所を移しながら。「案内人」の人は、レストランまでは来ませんが、下のロビーで待ってます。外のレストランに行く時には、必ずついてきます。大事な「亡命者」に何かあったら大変だから、「護衛」なのかもしれませんが、大変です。42年間も、そういう状況の中で生活してきたのです。なみの精神力ではありません。

 リビアの話もしました。10月21日、成田で買った新聞には「カダフィ大佐、死亡」と大きく出てました。マンホールに隠れていたところを捕らえられ、殺されたそうです。1980年代は、リビアは反米闘争の拠点、世界革命の拠点でした。1987年には、「世界革命家フォーラム」も開かれ、日本から竹中労や「ピース缶爆弾」の牧田吉明、それに、元「楯の会」の阿部勉なども参加しています。それだけ、カダフィへの期待は大きかったのです。その時に、「よど号」グループも行ったのかと思いましたが、その数年前、1983年の「全アフリカ青年フェスティバル」に参加したそうです。それも、本名で堂々と参加してるのです。北朝鮮政府が、特別に「亡命者用のパスポート」を作ってくれたのです。リビアでも大歓迎だったそうです。ソ連崩壊(1991年)の前だし、東欧も健在で、だからこそ行けたのでしょう。ソ連領・東欧を通ってリビアに行くので、ピョンヤンの「ソ連大使館」に挨拶に行ったら、「おう! あの有名な連合赤軍か!」と言われたそうです。赤軍派、日本赤軍、連合赤軍の区別がつかないようです。でも、「連合赤軍」でも、出国を認めたんですね、凄いです。

 日本人拉致はしていない、と言います。しかし、ヨーロッパをかなり自由に動き回っていたことは事実です。それも、亡命者用のパスポートを持って。その時の体験から、自分たちは犯罪者ではない、「政治亡命者だ」という自覚と誇りが生まれたのでしょう。だからこそ、「即時帰国」は無理だと思いました。又、訪朝して話し合います。

 政府・党関係者と話し合った時も、こっちは同情されましたし、又、何か向こうに「余裕」が感じられました。「日本がいくら経済制裁をしても、共和国は全く、こたえていませんよ」と言う。それは、その通りだ。「共和国にはレアアースが沢山あります。他の地下資源もあります。日本は大変だから助けたい」とも言います。前は「拉致は解決ずみ」と言ってたのに、いくらでも話し合いに応じると言います。家族会でも、「救う会」でも、どんどん来て下さい。鈴木さんが「北朝鮮に文句を言う会」を作って訪朝するのなら、それも歓迎します。両国の今後について、大いに議論しましょう、と言う。

 これは思わぬ展開だった。それを受けて今、日本の政治家や新聞記者にも会って話している。「向こうの単なるポーズだ」と言う人もいるし、「拉致問題の解決のためには、どんな手掛かりでも貪欲に利用すべきだ」と言う人もいます。僕もそう思います。又、忙しくなりそうです。

***

 11月19日(土)の「マガ9学校」に出ます。テーマは『「愛国と憂国と売国」。私の出版記念イベントです。原発から北朝鮮まで語ります。

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鈴木さんの前回の北朝鮮訪問記は、こちらで読めます。
何が北朝鮮の対応を和らげたのか? 
「話し合いに応じる」との言葉にはどんな意味が?
「どんな手がかりでも利用すべき」という鈴木さんの、
今後の報告にも注目です。

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鈴木邦男さんプロフィール

すずき くにお1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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