今週の「マガジン9」

 「集団的自衛権大筋で合意」の見出しがおどった今朝の新聞では、自民と公明の両党は与党協議において、憲法解釈を変えて集団的自衛権行使を認めることで大筋合意したと伝えています。これをもって数日中に、閣議決定がなされるのでは、と想像されます。

 このように、淡々と書いていますが、「なぜ? マジでやるの?」という思いも消えてはいません。

 ここにきて、世論調査で安倍内閣の支持率はじりじりと下がり、先週末の調べでは発足以来最低の43%、集団的自衛権行使についての議論が不十分だと感じている人は、実に76%という高い割合にのぼりました(朝日新聞世論調査)。自民党都議や石原環境大臣の失言も飛び出し、世論も厳しく批判をしています。

 以前の自民党というか安倍内閣でなければ、ここまで強引に事を進めることはなかったと思われます。しかし「なりふりかまわず」という言葉そのものの態度で、安倍首相は、憲法違反を犯しても、世論の懸念を無視しても、自分の「やりたいから、やる」という「信念」を貫こうとしています。

 さて、私たちは首相の暴走をこのままただ、だまって見ているしかないのでしょうか? サッカーワールドカップの日本チームの一次リーグ敗退も決まったことだし、マスコミは一斉に私たちが歴史的転換点にあることを、もっと詳細に、もっとたくさんの時間を使って報じて欲しい。

 秘密保護法の時と同様に、様々な学者や法律家たちが、立ち上がっています。例えば、「立憲デモクラシーの会」や伊藤真塾長もメンバーの一人になっている「国民安保法制懇」など。この輪をもっと広げ活用し、日本社会の再生を考えることはできないものかと、今、私たちも必死で未来につなぐ「希望」を探しているところです。その一つの小さな試みとしての、〈「希望」と「再始動」のためのコンテンツ・インデックス〉。こちらもスタートさせました。

 現実を直視することは辛いけれど…今、考えることを、止めたくはありませんから。

(水島さつき)

 

  

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vol.458
安倍の暴走を見守るだけしかないのか
」 に1件のコメント

  1. 家畜124号 より:

    日本国憲法と国連憲章。
    国は世界を信じて安全を託し、世界は国を見捨てず安全に守ると、時同じくして互いに平和を誓いあった双子の片割れはただの紙切れになろうとしているのですね。
    ならば歴史の証人が不在となった国連が、世界平和を理由に暴走国家を取り締まる合理的な根拠はもう見つかりません。
    「お前らと同じように武力で支配するのがなぜ悪い。主権平等だろう?だったら俺が世界の警察やってやるよ」
    いろんな国がそれを正当化します。他ならぬ日本が武力の平和を望んだからです。
    つまり世界平和は人民のためのものではなく、誰が世界の支配者になるかの問題だということです。
    例えばTPPは労働力を金に変えて奪い合うのに国境は邪魔だと確認し合うための取り決めです。経済戦争の末路とも言えるTPPでは、支配者と隷従者の関係がより一層明確となるに違いありません。その新しい支配制度を提案するTPP交渉の場には、前世紀の古い支配制度を取り戻そうと目論む日本など「もう必要ない」とも言われています。

    集団的自衛権の行使で一体何が変わるのでしょうか。何も変わりません。でもすべてが変わります。
    日本が自発的に武力を伴う自衛権を行使することは今後もありません。それは相手からすれば単なる宣戦布告です。経緯がどうであれ結果は国同士の喧嘩になります。だから武力を持つ国はひとつの例外もなく、戦争を前提にしない限り自衛権など発動できません。国家が自衛権を発動すれば、国民は戦争を拒否する権利がなくなります。それは相手の国も同じです。
    もし万が一にも大国同士が睨み合う戦争が起こったなら、各国は集団的安全を理由にいずれかの国のもとへと参戦することになるでしょう。国連は完全に分裂しますから抑止力にはなりません。すぐさま第三次世界対戦の始まりです。人類はすべての暮らしを諦めなければなりません。
    それでも世界の安全保障に兵力を貸し出せるというなら、それは軍事の過剰介入です。特別な免罪符を持った国以外には権限がありません。率先して他人の喧嘩に口を挟み、恨まれるためだけに国力を注ぎ込む。やればやるほど国を傾ける、そんな愚行を自ら続けた国があります。その国の根底には、第二次世界対戦を最強の武力で終わらせたという、贖罪の意識から成るヒロイズムがあったはずです。大きすぎる正義を背負い続けて疲弊した大国は、日本が自立を決めた時、戦後初めて自国の利益のみを考えて動く自由を得るのです。
    しかし例えそれが本当だとしても、ナショナリズムで動く日本に正義を代弁させるようなことは絶対にしません。それを世界のナショナリズムの視点で見れば、懲役受刑者を独断で釈放し、手土産に拳銃を手渡すようなものです。

    戦争の残り火を利用して作られた仮初めの平和。それを日本の為政者の一人相撲によって偽物だと暴露された、ただそれだけのことです。与えられた平和は要らない、俺の権利を世界に認めさせることこそが国家の力だと。
    きっとこれからはすべての国が自国のことだけを考える時代が来ます。それを国家固有の権利だと主張しあいます。
    しかしそれは嘘です。国家に権利などありません。あるのは為政者の義務だけです。すべてのコストが人の手に渡るものであるのと同じく、すべての権利は人の手にあります。自分の利益を得るために他人の自由を奪う権利は誰にもありません。
    「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」
    この文の主体を人に置き換えればわかります。それは戦後の日本が我々に教えてくれた、自由と人権から成る法治国家の道徳観そのものです。

    我々人民に一時の平和をくれてありがとう。
    日本に最高の人権と自由をくれてありがとう。
    世界の平和を求める歴史の証人だった国家は、自国の利益を求めるただの武器商人になるでしょう。それが正義を持たぬ日本の軍事を維持できる唯一の方法ですから。そしてその凶弾がまとめて返却されるのは、きっとまたひ孫の世代です。
    もし日本で起こった馬鹿で迷惑な騒動が世界に希望を与えることがあるのなら、それは国民の力で平和への誓いを取り戻した時だけです。「支配だけが人類の証明ではない」と。
    我々が新たな価値観を築くのが先か、我々の過ちが繰り返されるのが先か。今、再び終戦が始まろうとしています。

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