雨宮処凛がゆく!

 先週の原稿でも触れた通り、4月13日、14日と仙台に行ったので、そこで見聞きしたことを書きたいと思う。

 一面の瓦礫が一面の更地になっていたのは前回も書いた通りだが、被災者支援を続ける「東北ヘルプ」の方々の案内で奥松島、東松島など津波の被害地域を回り、その後、若林区にある仮設住宅にうかがって入居者に話を聞くことができた。

 お話を聞かせてくれたのは、Hさん。津波で壊滅的な被害を受けた荒浜に住み、町内会長をしていたというHさんは、あの日・あの瞬間をショッピングセンターの駐車場で迎えたという。ラジオからは「40分後に6メートル以上の津波が来る」というアナウンス。安全な場所にいたHさんはしかし、その後津波で流されることとなる荒浜に戻る。

 「まず津波は来ないもんだっていう考えが荒浜の地域の人にはあった」というのが理由のひとつ。もうひとつは、町内会長という立場の責任感だった。

 「車持ってる人は遠くに逃げられるけど、車がない人やお年寄りは避難所になってる荒浜小学校に来ると思ったんですね。それでお世話しないとと思ったんです」

 そうして車で海の方の荒浜に向かうが、停電で信号も止まり、反対側の道は避難する車で大渋滞。無事荒浜小学校に着くと、既に100人以上が避難していたという。

 津波が来たのは、その直後。3階のベランダから海の方を見ていた人が「あれはなんだ!」と叫ぶと、Hさんの前にはトンデモない光景が広がっていた。

 「ちょうど洗濯機の渦が横になったみたいなのが、ガーッとくる。バリバリバリというものすごい音と、粉みたいな水しぶき。それが一斉にどんどん近づいてくるわけですよ。松の木とか、自分たちの住んでた家とかを全部丸め込んで、その先端は、スルメを焼いた時みたいになってるわけです。ベランダにいたらまずいって教室に入ったんですが、ドーンってものすごい音でぶっかった。一瞬で周り全部が湖みたいになっちゃって、瓦礫も車もぷかぷか校舎の周りに浮いてるわけですよ」

 津波が来たのは校舎2階の机の高さまで。幸い、ほとんどの人が3階以上に避難し、2階にいた数人がずぶ濡れになっただけで済んだものの、翌日にヘリコプターで救出されるまで、Hさんは小学校で過ごした。ちなみに荒浜小学校ではその翌日の3月12日、東北大学の先生によって「津波から命を守るために」という講演が予定されていたというから、なんというか、すごい話だ・・・。

 自宅が流されてしまったHさんは、4月までは避難所となった中学校で過ごし、学校が始まってからはサンピアという宿泊施設に移動、そうして6月、今の仮設住宅に入ることができたという。が、これからのことはまだまだ不確定なことばかりだ。

 Hさんが住んでいた地域は現在、「危険地帯」ということで住居は一切建ててはいけないことになっいる。Hさんは津波の危険のない安全な場所に住みたいと思っているというものの、住み慣れた場所に今まで通り住みたいという人もいて、その人たちは家のあった場所に黄色い旗を立てているという。お寺にあった五色の旗のうち、黄色い旗だけが流されずに残ったらしく、それにあやかって黄色い旗で意思表示しているのだ。一方、農家の人は農家の人で、移転するにしても農地の近くに住居を持ちたいと考えている。そうなると、移転候補地の坪数の問題などが出てくる。三者三様の意見があり、また、どこに移転するかも決まっていない。決まっても、地権者との話し合いがあり、それから土地の造成が始まるといった具合だ。なんだか気の遠くなる話である。

 そんな中、被災地では雇用保険の受給期間が切れ、義援金が底を尽きつつある。震災によって失業した人たちの仕事の目処は立たず、震災から半年の昨年9月頃からはそれまで支払いが猶予されていた住宅ローンや車のローンの支払いが始まった。流された家や車のローンを払わなければいけないという現実が、多くの人の生活の再建を妨げている。二重ローン問題だ。家が全壊でも、流されても、支払われるのは一律200万円。一方、自宅が流されず、1階は浸水したものの2階部分で暮らす「在宅」の人たちは国からはなんの援助も受けられず、ひっそりと生活に困窮している現実もあるという。

 そんな厳しい状況がある反面、やはり仙台では「復興バブル」的状況もあるようで、「キャバクラの時給が1000円上がる」という話も耳にした。建築関係の人や保険屋さんなどが「バブル」の恩恵にあずかっているとのこと。そんなバブルの噂を聞きつけ、「出稼ぎキャバ嬢」も仙台に多く来ているという。何か、311以前からのいろいろな矛盾や問題が、被災地に凝縮されているような印象を強く受けた仙台行きだった。

 また、福島に近い宮城県南部では、放射能汚染の問題もある。14日の集会では、「宮城県の原発被災者」として、農業をしていた人が発言した。自給的な生活をしていたのに、原発事故で畑が汚染され、畑仕事ができなくなり、また、薪を燃やした灰からは2万ベクレルが検出されたという。子どもの身体から放射能を抜くため、何度も西日本などの「保養プロジェクト」に送り出したのでそのお金もかかっている。集団訴訟に参加することを考えているという男性は、「自然に寄り添った暮らしを返してもらいたい」と言った。そんな宮城県の原発被害に対しては、丸森町というところで線引きされ、男性のいる地域は東電の補償の対象になっていないという。

 更には、宮城県には女川原発がある。311の震災で、女川原発は外部電源5系統のうち4系統を喪失。13メートルの津波に襲われ、冷却器も2機停止。1号機では火災も発生し、事故まで「紙一重」の綱渡りの状況が続いていたという。震源域の近くに建てられた原発。現在、政府は「再稼働」に向けて突き進んでいるが、原発が続々と再稼働していけば、震源域のすぐ近くの女川原発も再稼働されてしまうのだろう。それって、どう考えても怖すぎる。

 しかし、私たちが再稼働に強く反対の声を上げ続ければ、5月5日には日本中のすべての原発が停止する。その翌日の5月6日、「脱原発杉並」によってデモ(っていうか祝賀パレード?)が開催されることをご存知だろうか? 全原発停止、とにかく、これは目出たい! ということで、全員集合してほしい。とりあえず、祝おう!! 詳しいことはこちらで。
 またその2日前の5月4日は、私も実行委員をつとめる「自由と生存のメーデー」!!今年のサブタイトルは、「雑民の希望 てんでばらばらの声を響かせよう」。

 原発停止カウントダウンでテンション上がってるあなた、また、真っ正面から「不安定性」を考えたいというあなた、ぜひ「自由と生存のメーデー」にご参加を! 詳しくはこちらで。
 今年のゴールデンウィークは、なんだか歴史的なことになりそうである。

 

  

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第227回 被災地の、今とこれから。の巻」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    震災から一年あまり。
    直接の被災地でない場所では、「義援金」や「復興」といった言葉も、やや遠いところへ行きつつあるのが現状。
    けれど、本当の意味での支援が必要とされるのは、まだまだこれからなのでしょう。
    ゴールデンウィーク、それぞれにできることを、改めて考え直す機会にもできればと思います。

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雨宮処凛

あまみや・かりん: 1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。若者の「生きづらさ」などについての著作を発表する一方、イラクや北朝鮮への渡航を重ねる。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ! 難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。「反貧困ネットワーク」副代表、「週刊金曜日」編集委員、、フリーター全般労働組合組合員、「こわれ者の祭典」名誉会長、09年末より厚生労働省ナショナルミニマム研究会委員。オフィシャルブログ「雨宮日記」

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