森永卓郎の戦争と平和講座

 安倍晋三自民党総裁が景気対策として打ち出した金融緩和策が総選挙の大きな争点になっている。安倍総裁の主張は、「日銀法を改正して、物価上昇率を2%とする目標を政府が設定し、政府と政策協定を結んだ日銀は、この目標を達成するまで無制限に金融緩和を進める」というものだ。インフレターゲットと呼ばれる政策だが、けっして特殊な政策ではない。むしろ先進国で導入していないのは、日本とスウェーデンくらいだ。にもかかわらず、この政策に関して、各政党の意見が真っ二つに割れているのだ。

 インフレターゲットに賛成しているのが、自民党、みんなの党、新党改革、日本維新の会だ。一方、明確に反対しているのが、共産党、社民党で、民主党や未来の党も否定的だ。つまりインフレターゲット政策には、右派の政党が賛成し、左派の政党が反対するという構造になっている。
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 私は、この対立が不思議でならない。いまのままデフレを続ければ、金持ちの独り勝ちになる。復興予算が切れて、消費税が10%になる2015年には、昭和恐慌のときのような資産の大バーゲンセールになって、金持ちが一気に資産を買い占めることができるからだ。庶民にとっては、賃金が上がり、就職もしやすくなる緩やかなインフレを目指したほうが、明らかに有利であるはずなのに、なぜ庶民の意見を代弁するはずの左派政党が、インフレターゲットに反対するのだろうか。

 私は、インフレターゲットのメカニズムを理解していないからではないかと推測している。そこで、インフレターゲットを導入し、大胆な金融緩和が行われたら何が起きるのかを整理しておこう。

 まず、金融緩和は、為替市場で円安をもたらす。円の供給を増やすから、円の価値が下がるのだ。これは、経済学の教科書にも書いてあるとおりのことだ。実際、リーマン・ショック以降、アメリカは資金供給を3倍にした。これに対して日本は3割しか増やさなかった。その結果、為替は1ドル110円から80円へと円高になってしまったのだ。だから、日本もアメリカと同様に資金供給を3倍に増やしてやれば、為替は元の110円に戻るのだ。

 もう一つの金融緩和の効果は、国内の物価が上昇することだ。お金の供給が増えるから、お金の価値が下がるからだ。これも経済学の教科書に書いてあるとおりのことだ。

 円安とインフレ転換は、日本経済に何をもたらすのか。まず、円安に向かうと、国際競争上日本が有利になるから、日本からの輸出が増える。また、日本の工場が海外に移転する流れが止まるから、結果として貿易収支が改善していく。

 次に、これから国内の物価が上昇するという期待が高まると、建築費や設備費がまだ安く、金利も低いうちに投資をしておこうとする人が増えて、設備投資が増える。よく、金融緩和を目的に日銀が資金供給をしても、銀行が日銀に預けている当座預金の額が増えるだけで、融資へと資金が回らず、効果がないと主張する人がいる。供給した資金がブタ積み(無利子の日銀当座預金に、銀行が無駄に資金を積んでおくこと)になるだけだというのだ。しかし、そのブタ積みこそが重要なのだ。ブタ積みが増えると、期待インフレ率が上昇することは計量分析で実証されている。期待インフレ率が上がれば、実質金利が下落して、企業の投資判断が変わる。もちろん少しタイムラグはあるものの、金融緩和は確実に設備投資を増やすのだ。この問題は、住宅投資で考えると、もっと分かりやすいかもしれない。インフレターゲットが導入されたら、国民はどう思うだろうか。インフレになれば、当然住宅価格が上がる。だから、住宅価格が安くて、金利も低いいまのうちに住宅を買おうという人が増えるだろう。

 このように金融緩和は、輸出と投資を増やす。つまり需要が増えるから、生産が増え、当然雇用も増えていく。経済学の教科書には、フィリップスカーブという法則がのっている。物価上昇率と失業率は反比例(正確に言うと逆相関)の関係があるのだ。しかも、日本のデフレ経済が明らかにしたことは、物価上昇率が1%を下回ると劇的に失業率が上昇するという事実だった。だから、物価上昇率を2%以上に誘導できれば、失業率が大きく下がる。そうなれば、リストラのリスクが減り、賃金が上がっていく。働く人たちにとって好ましい状況が生まれるのだ。

 もちろん、金融緩和にはデメリットもある。一つは、銀行に危機が訪れるということだ。デフレから脱却すれば、最終的に金利が上がる。金利が上がると国債の値段が下がる。いま発行されている国債の金利は1%以下だが、デフレ脱却で3%金利の国債が発行されたとする。当然いままでの1%以下の金利しかつかない国債は、そのままでは買い手がいなくなるから、値段が下がるのだ。そうなると、大量に国債を保有している銀行が大きな含み損を抱えることになる。日銀によると、金利が1%上がるだけで大手銀行に3兆5千億円の含み損が発生するという。大手銀行の経常利益の1.5倍だ。もちろん、損失は中小金融機関にも発生する。

 もう一つ、デフレ脱却で生ずる痛みは、年金の実質減額だ。現在、日本の公的年金制度は、物価スライドの未実施分2.5%とマクロ経済スライドの未実施分7.2%の合計で、本来より1割割高の年金を支給している。インフレに転換すると、この分の削減が行われるようになるから、年金給付は実質で1割減る。これは年金受給世帯に厳しい生活を強いることになる。
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 こうした問題が生じることは承知のうえで、私はやはり思いきった金融緩和と財政出動をしないといけないと考えている。それは、景気が危険な状態になっているからだ。内閣府が発表した2012年10月の景気動向指数は、7カ月連続の悪化となっている。内閣府は景気の基調判断を「悪化」へと下方修正した。悪化という判断を内閣府が下したのは、リーマン・ショックによる経済への打撃が深刻化した09年4月以来、3年半ぶりだ。実体経済は深刻度を増している。所定外労働時間が減り、有効求人倍率が下がるなかで、このまま労働市場の悪化を放置すれば、勤労者の所得が落ち、消費が落ちていくというデフレスパイラルに陥ってしまう。

 また、輸出環境も大きく悪化している。10月の貿易統計によると、輸出は前年同月比マイナス6.5%と、5ヶ月連続の減少となっている。地域別輸出をみると、米国向けこそ前年同月比3.5%増だが、中国向けはマイナス11.6%で5ヶ月連続のマイナス、EU向けはマイナス20.1%で13ヶ月連続のマイナスだ。

 日本経済は、いまボロボロになろうとしている。しかも、これだけ深刻な景気状況が、昨年度補正と今年度予算の合計で17兆円にもおよぶ莫大な復興予算に支えられるなかで起きているという事実は重要だ。17兆円というのは、単純計算でGDPを3%以上引き上げる金額だ。それだけの財政出動をしているにもかかわらず、景気が悪化しているのだから、復興予算がなければ、日本経済は恐慌への道をまっしぐらに転げ落ちていただろう。

 大胆な金融緩和には、高率のインフレを生むなど、大きなリスクがあると指摘する声もある。私は、そんなリスクはないと確信しているが、万が一あったとしても、すでに思い切った金融緩和や財政出動をしなければならないタイミングに来ていると思う。景気が失速して一番困るのは、中小零細企業やフリーランスなど、経済的に弱者だからだ。失業や貧困も命を奪っていく。景気悪化を放置してはいけないのだ。

 私は、リベラル勢力のなかにインフレターゲットを支持するところが出てきてほしいと切に願っている。そうでないと、投票する先がなくなってしまうからだ。

 

  

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森永卓郎

もりなが たくろう:経済アナリスト/1957年生まれ。東京都出身。東京大学経済学部卒業。日本専売公社、経済企画庁などを経て、現在、独協大学経済学部教授。著書に『年収300万円時代を生き抜く経済学』(光文社)、『年収120万円時代』(あ・うん)、『年収崩壊』(角川SSC新書)など多数。最新刊『こんなニッポンに誰がした』(大月書店)では、金融資本主義の終焉を予測し新しい社会のグランドデザインを提案している。テレビ番組のコメンテーターとしても活躍中。

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