マガ9レビュー

(2016年イギリス、フランス、ベルギー/ケン・ローチ監督)

 目白台の坂を上って、波のようにうねった武蔵野台地を雑司ヶ谷から池袋へ向かって散歩していると、49階建てマンションが併設されて話題となった豊島区新庁舎のエクステリアの、植栽を囲う膝下ほどの低い石積みに、老人がうつぶせに倒れていた。

 新庁舎があるとはいえ、再開発中のこのエリアはふだんから人通りは少ないのだが、ピンクのコートを羽織った通りすがりの女性が慌てて声をかけていた。このまま脇を通り過ぎるつもりでいると、女性は声をかけたもののどうしてよいのかわからないようであった。

 老人を見ると、左手にはステッキと区役所の封筒を持っていて右手だけ自由のようだが、うつ伏せに倒れこんだまま起きあがれない。渾身の力をこめるが自力では体を横にすることもできずにぶるぶると震えていた。背中から抱きかかえて向きを変えて座らせ休ませた。息が荒く肩でしている。「すみません、ありがとう、すみません、ありがとう」、息切れしたか細い声で何度も繰り返す。うな垂れた老人の鼻先に水の滴がたまって明るい陽を反射していた。

 立ち去ることもできず、「おじいさん、どこまで行くの?」と訊くと、封筒をかざして区役所の税務課まで行きたいという。急いでいるという女性はそこで立ち去ってしまい、私は老人に付き添うことにした。

 そうして老人を支えながら歩いていると、ビル風がまた吹いた。すると、風に靡いて吹かれるにまかせて老人がよろめく。このまま手を放せば、小柄な瘦せた体は再び倒れてしまうにちがいない。ステッキは前屈みの時はいいけれども、姿勢を保つためには普段以上の力を、しかも瞬発的に入れなければならない。このような突風に対して老人の力は、もう残されてはいなかった。「今日は風が強くて…」。うつ伏せに倒れていたのも風によるものだと察しがついた。

 一階ロビーで受付窓口の女性を呼び、車いすを用意してもらって、バトンタッチした。老人は礼をいい、私の名前と住所をなんどか訊ねた。「いや、名のるほどのことではないですよ。それじゃ、おじいさん、お元気で」。

 別れてからすぐに、私は、先日試写で観た映画を思い出していた。イギリスの名匠ケン・ローチが監督した最新作『わたしは、ダニエル・ブレイク』である。カンヌ国際映画祭最高賞パルムドールを受賞した話題作。物語はシンプルで実にリアル。心臓病を患い医者から仕事を止められている失業中の熟練大工ダニエル・ブレイクが、職業安定所で二人の子供を連れたシングル・マザー、ケイティと偶然出会ったことがきっかけで、彼女たちの生活を助け、励まし合い、厳しい貧困からなんとか抜け出ようとする姿を描く。

 職業安定所などで繰り広げられる各シーンのエピソードはどれもありふれたものに感じられるが、それらが繋ぎ合わされ、積み重ねられていくことで、なんの飾り立てもない場面の数々が、しかしそうであるがゆえに、いよいよ抗いがたい運命として重くのしかかってくる。スクリーン全体がラストに至るまで絶望感で満たされていく。これなら二人は最初から出会わなかった方がよかったのではないか。

 しかしながら、物語が自然なものであるほど、かえって表現の可能性は開かれ、メッセージは観客に託される。映画はケイティがダニエルの手紙を読み上げたところで終わるのだが、そのメッセージを受け止め、それから生活に戻るのは、ケイティではなく、他ならぬ観客だからである。

 この映画を想起したのは、老人との関わりで私がダニエル・ブレイクのようだったからではない。むしろそのふるまいは、ダニエル・ブレイクの逆であった。私は、老人から名前と住所を訊かれたとき、それに応えなかった。だが、映画でダニエルは、偶然出会ったケイティに名前をいうのである。映画だからそうしたのか。それともイギリスと日本の風土の違いなのか。おそらく、そのどちらでもあるのだろう。しかし「風土」のせいだけではない。私は、老人との関わりを少し面倒だと感じていたはずである。しかも、自分はダニエルのように「弱者」ではないとも…。別れてからあとにそうした思いが交錯した。

 80歳になるケン・ローチが一度は宣言した引退を撤回してまで再びメガホンをとった本作には、誰もがダニエルやケイティになりえる現実への抵抗の意志が込められている。リアリズムの模範のような秀作である。

(北川裕二)

 

  

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