ぼくらのリアル☆ピース


日本の若者は、政治や社会運動、平和運動には関心がない。
そう言われることが少なくないですが、本当にそうでしょうか?
各方面で活躍する若者に、かれらが取り組んでいる活動の内容や、動機について聞いてみました。

佐藤潤一
(さとう じゅんいち) 1977年生まれ。アメリカのコロラド州フォート・ルイス大学在学中に、NGO「リザルツ」の活動に参加し、貧困問題に取り組む。また、メキシコ・チワワ州で1年間先住民族のタラウマラ人と生活をともにし、貧困問題と環境問題の関係を研究。帰国後の2001年、NGO「グリーンピース・ジャパン」のスタッフに。有害物質問題担当、キャンペーン部長、海洋生態系問題担当部長を経て現在ポリシーアドバイザー。共著に、『刑罰に脅かされる表現の自由――NGO・ジャーナリストの知る権利をどこまで守れるか?』(グリーンピース・ジャパン編+海渡雄一監修、現代人文社)、訳書に『ゴミポリシー』(築地書館)がある。

■留学した先は「ヒッピーだらけ」の大学だった

──佐藤さんは現在、NGO「グリーンピース・ジャパン」のスタッフとして活躍されていますが、今回はまず、それ以前のお話からお聞きしていきたいと思います。高校卒業後、アメリカの大学に留学されていたそうですね。

 もともとは、フォトジャーナリストに憧れていたんです。ロバート・キャパの写真展を見たのがきっかけで、戦場に行って真実を伝えるというのはいいなあ、と。でも、日本の大学にそのころ「フォトジャーナリスト学科」はなかったので、じゃあアメリカかなと、すごく軽いノリだったんですよ(笑)。

コロラドマウンテンカレッジのオリエンテーション。ロッキー山脈を背に。(アメリカ 1996年)

──行き先は「コロラドマウンテンカレッジ」。

 高校を卒業した後、学費を貯めるために1年半働いて、それから行くことにしたんですが、フォトジャーナリスト学科があるような都会の大学は学費が高くて、まったく手が出なかったんですね。それで考えたのが、「フォトジャーナリスト学科は3年から行くことにしよう」ということ。アメリカの大学って、最初の2年間は一般教養で、専門課程に進む3年次からの編入ができるんですね。だから、2年間は学費の安い田舎の大学に行って、3年目から都会の大学に編入すればいいや、と。

 それも、山が好きだったので山に行けるようなところにしようと思って、大学案内のCD-ROMで「Mountain」って入れて検索してみたんです。それで出てきたのがコロラドマウンテンカレッジ。アメリカ西部のコロラド州にある、いわゆる2年だけのコミュニティカレッジだったんですけど、全米中探しても「Mountain」って学名についてるのはそこだけだったので、「ここにしよう」と(笑)。

──(笑)。それで本当に、そこに留学してしまった…。

 学費も安かったし、寮もあったのでいいかなあ、と。でも、実際に行ってびっくりしましたね。

──というと?

 最初のオリエンテーションが、いきなりバックパックを渡されて「1週間、ロッキーマウンテンに行ってください」。しかも、留学生なんてほかに誰もいなくて、周りの新入生はヒッピーだらけ。ロッキーマウンテンなのに、みんな裸足で歩いてるんですよ(笑)。どうも、アメリカ中のヒッピーが集まってくるようなところだったみたいなんですね。もうカルチャーショックで、でもすごい面白いなと。

・Resultsでボランティアをしていた時期に出会った後にノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌス氏(ワシントンDC 1997年)

──うーん、すごい。

 で、教授ももともとヒッピーだった人が多くて。だから、講義の中で社会的な活動に参加することが多かったんです。たとえば、先生の運転するトラックの荷台に乗せられてネバダ州まで行って、核実験反対デモをやるとか。

 でも、それがすごく楽しかったんですよ。日本から来てる人もいたし、ネイティブアメリカンとか、いろんな人に会えて。みんなで砂漠でキャンプしながら、非暴力直接行動のトレーニングやワークショップをやったり……。来た人は誰でも、一緒に声をあげましょう、みたいな雰囲気がありましたね。今日本で「非暴力直接行動」とか「抗議行動」っていうと、何かすごく怖いようなイメージがありますけど、そんなことはなくて、とにかく面白かった。

 それから、冬休みには中米のニカラグアに2〜3週間滞在するというプログラムにも参加しました。スペイン語なんかまったくしゃべれなかったですけど、先生に連れて行ってもらって。内戦の傷跡や、人々の厳しい暮らしの状況を目の当たりにしました。

 さらに、そこから興味を持って、先生が参加していた「リザルツ(RESULTS)」というNGOの活動にもかかわるようになったんです。ここは「貧困の解決」を掲げ、ノーベル平和賞を後に受賞するムハンメド・ユヌスさんのマイクロクレジットプログラム(※)を広める活動を行っているNGOで、全米をつなぐ電話会議で話し合いをして、議員に手紙を書いたり、新聞に投稿したりというアクションを展開していたんですね。そんな活動に参加したのはそれが初めてで、「こんなことが市民にできるんだ」と、新鮮な驚きがありました。

※マイクロクレジットプログラム…貧困層、途上国の女性など、通常の金融機関からは融資が受けられない層に対して、事業を起こすための資金として少額無担保の融資を行う制度。ムハンメド・ユヌスさんはその先駆けであるバングラデシュの「グラミン銀行」の創始者であり、2006年のノーベル平和賞を受賞した。

■メキシコの山奥で過ごした1年間

──そうした体験が、佐藤さんが社会的な活動に興味を持つきっかけになったわけですね。それで、カレッジでの2年間を終えた後は、どうしたんですか? 予定していたフォトジャーナリスト学科への進学は……。

 それが、コロラドがあまりにも気に入ってしまって、結局そこから出られず(笑)、同じコロラドの四年制大学に編入したんです。

 そこで文化人類学と社会学を専攻したんですが、そこにまた面白い先生がいて。メキシコの問題が専門で、「メキシコ人がなぜアメリカに不法移入してくるのかを、メキシコ側の視点から考えなさい」という人だったんです。

 その先生の授業で、メキシコのチワワ州というところに行って、そこで1学期、3カ月間を過ごしてこい、というのがあったんですよ。学生はみんな先生が運転するトラックに乗せられて、それぞれ違う場所に1人ずつ落とされていくんです(笑)。一応、先生がそれぞれの町や村の小学校の先生に話をして、英語を教えるボランティアをやらせてもらえるということにはなってるけれど、それだけ。住むところなんかは自分で探さなきゃいけない。

メキシコの高地に住むタラウマラ族の男性と一緒に(メキシコ 1998年)

──それはまたすごいプログラムですね。佐藤さんはどんなところへ「落とされ」たんですか?

 それが、僕はネイティブアメリカンに興味があったので、チワワ州の中でも、タラウマラ人というネイティブアメリカンの人々が住んでいるエリアに行きたい、と希望を出していたんですね。そうしたら、1人だけすごい離れた村に連れて行かれちゃって。

 タラウマラ人が暮らしているのはそこからさらに山の中に入ったところなんですけど、その村も100人くらいしか人が住んでいないようなところ。先生は「大丈夫大丈夫、バスがあるから」とか言うんですけど、明らかにバスがあるようなところじゃない(笑)。そもそもそこに行くまでの道路が、トラックのタイヤさえパンクしちゃうんじゃないか、という感じでしたから。

──言葉もわからないわけですよね。

 スペイン語ですから、最初はまったくわかりませんでした。それでもなんとか頑張ってホームステイ先を見つけて、学校で英語を教えるようになって。「なんで日本人がこんな山の中で英語を教えてるんだ?」って感じでしたし、途中からは日本語の授業になってたんですけど、まあ、みんな楽しんでくれてたからよかったかな、と。

 ただ、そうするうちにある日、ホームステイ先の家の周りにトラックに乗った人たちがやってきて、「出ていけ」と言われたんですよ(笑)。

──えええ?

 そこはカトリックの村だったんですが、教会がちょっと離れたところにあったので、僕はそこに挨拶に行かないままに学校で教えたりという活動を始めてしまっていたんですね。そうしたら、地元のラジオで「変な日本人が仏教を布教に来た」というニュースが流れたらしくて(笑)。研究のために、タラウマラ人が住んでいる洞窟なんかの写真を撮りに行ったりしていたのが誤解されて伝わったようなんですけどね。

 まあ、何を言われてるかも僕はわからなかったので、「何を言ってるんだろ、この人たち」という感じではあったんですが(笑)。学校で仲良くなった子どもたちが「この人は違うよ」と言ってくれて、それで誤解が解けたんです。

──すごい体験ですねえ。そこに3カ月ずっと?

 いたんですけど、タラウマラ人というのが、自分たちの文化を守るためにあまり外部と接触しないようにしていることもあって、たった3カ月じゃぜんぜん仲良くなれなかったんですよ。それで、村のこともすごく気に入ったし、先生に「もう3カ月いさせてください」と頼んで。結局、1年間いることになりました(笑)。先生も大学もすごくおおざっぱで、ちゃんとそれで単位もくれましたから。

メキシコの学校で英語を教えていたときの生徒たち(メキシコ 1998年)

■日本へ帰国、グリーンピースのスタッフに

──なんとも逞しいというか、楽しそうな学生時代(笑)。でも、大学を卒業した後は日本に帰ってこられるんですよね。

 そうです。そのままアメリカにいれば、ビザを取って仕事をして、ということにもなっていたんでしょうけど、やっぱり日本人として日本に何か伝えたいなという思いがあって。最初は、フェアトレードをやろうと思っていたんですよ。

 というのは、タラウマラ人たちがすごくいい籠をつくるんですね。ところがそれが、訪れてくる旅行者にすごく安く買われちゃう。アメリカに持っていけば、興味を持ってもっと適正な値段で買ってくれる人はいるよ、ということで、僕が大学に戻るときに持って帰って売っていたりしたんです。それを日本でもやれないかな、と思ったんですね。もうインターネットショップとかはある程度流行っていた時期だったし、何とかなるだろうと思って、その籠を大量に持って帰ってきたんです。

 ところが、実際にやってみたらまったく売れない(笑)。これはまずい、仕事を探さなきゃということになって。最初は英会話講師などをしていたんですが、NGOのようなところで働きたいという思いはずっとあったので、新聞の求人欄で見かけたグリーンピースの「職員募集」に応募したのが、今の仕事に就くきっかけなんです。

ネバダ州の核実験場での抗議活動に参加(アメリカ 1997年)

──それが2001年ですね。スタッフになって、最初はどんな活動をされたんですか?

 最初に担当していたのは有害物質の問題です。焼却炉から排出されるダイオキシンの問題とか、塩ビのおもちゃ禁止の問題とか。あとごみ問題ですね。リサイクルだけでゴミを減らすのではなくて、製造の段階からゴミを出さないことを考えようという「ゼロ・ウェストキャンペーン」を展開したりしました。

──アメリカでもNGOの活動には参加されていたわけですけど、それとは違いました?

 まったく違いましたね。「リザルツ」の活動で、アメリカの議員会館でもロビー活動をやったことがあったんですが、同じことを日本でやろうとするとすごく難しい。アメリカだと、けっこう簡単に議員本人に会えるんですよ。議員が国民の声を聞いて行動するという意識がすごく高いので。それが日本だと、いくら訪ねていっても議員とはなかなか直接話せなくて。特に自民党は難しかったですね。

 企業に対しても、たとえば「これ以上焼却炉はつくらないでくれ」とか「ペットボトルのビールを発売するのはやめてほしい」とか、いろいろ交渉をしてきたんですが、すごく警戒されますよね。まるで総会屋のような扱いを受けたこともあります(笑)。たぶん、NGOが「一緒にこんなキャンペーンをやりましょう」ということはあっても、「これはまずいんじゃないか」と批判に来るということが、それまであまりなかったんだと思うんですが。

──グリーンピースが展開されているような「抗議する、異議を申し立てる」という形の運動そのものが、日本社会ではまだなかなかなじみがないということなのかもしれませんね。

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佐藤潤一さん ■その1■
アメリカ留学で体験した、
体当たりのフィールドワーク
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  1. magazine9 より:

    次回は、グリーンピースが取り組んでいる
    海洋生態系保護活動をしていた最中に起こった自身の「逮捕」について。
    そして今、佐藤さんが考える「平和」な社会について、お聞きしています。

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