映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第49回

政治家たちが「ブルシット(牛のウンコ)」を投げつけてきたら

 皆さんは「bullshit(ブルシット)」という英語のスラングをご存知であろうか。「Don’t bullshit me.(でたらめ言うな)」とか、「That’s bullshit!(ふざけんな!)」とか、「He’s a bullshitter(奴は嘘つき野郎だ)」などという具合に使う。

 要はブルシットとは、「でたらめ(を言う)」や「嘘(をつく)」という意味なのだが、字面を文字通り直訳すると「牛のウンコ」(語源的には「bull」には「でたらめ」という意味があり牛ではないらしいが)。英語圏で暮らしていると頻繁に耳にする表現だが、非常に汚い言葉なので公式な場では使われない。僕が知る限り、アメリカのニュースや新聞でも見かけることはなかった。

 ところがドナルド・トランプ氏が大統領選に出馬して以来、新聞のコラム欄などでもこの言葉を見かけることが増えてきた。なぜならトランプが毎日のように発するトンデモ発言を正確に表す表現として、ブルシットという言葉があまりにぴったりだからである。

 先ほどブルシットを和訳すると「でたらめ(を言う)」や「嘘(をつく)」だと申し上げたが、実はそれだけではブルシットの意味を正確に申し上げたことにはならない。ブルシットには、「明らかにでたらめや嘘だと自分も周りもわかっているのに、それでもそう言い張る」というニュアンスがあるからだ。

 単に嘘をつく場合、普通は嘘がバレることを恐れるものだ。例えば万引きをしたのに「してない」と嘘をつく場合、「嘘つき」は監視カメラの映像など万引きの決定的証拠が上がってくることを恐れるであろう。しかし「ブルシッター」は「本当のこと」が何であるかには関心がないので、恐れたりはしない。万引きの瞬間を捉えた鮮明なビデオ映像が出てきても、「俺はやってない」「このビデオは合成だ」「店の陰謀だ」などと牛のウンコを投げつけ、開き直る。なぜならそうすると、万引きしたことを前提に裁かれるのではなく、その前に「万引きしたかどうか」が争点になり、あわよくば自分にとって有利になり得るからである。

 本来、牛のウンコは堆肥や燃料にもなり有用なのだが、政治家が繰り出すブルシットは有害でしかないことが分かるであろう。

 トランプ氏は「ブルシット・アーティスト」の典型である。

 彼の発言のほとんどはブルシットだと言っても過言ではないが、中でも有名なのは「オバマ大統領はアメリカ生まれではない」というデマを広めた一件である。後にオバマ氏の出生証明書が提示され、噂が明らかな虚偽だと証明された後でも、彼は「オバマはアメリカ生まれではない」と牛のウンコを投げ続けた。なぜなら彼がそう言い続ければ、「もしかしたら本当かも?」と疑念を抱き続ける人も数パーセントは出てくるだろうから。そしてそれは、政敵についての悪い噂が完全に死に絶えるよりも、彼にとっては有利なのである。

 彼はブルシットを盛んに繰り出すことで、アメリカ社会を悪臭で充満させ、情報と議論を混乱させ続けた。そして米国大統領にまでのしあがってしまった。恐るべきことに、「トランプ大統領」を誕生させたのは牛のウンコだったのである。

 とはいえ、ブルシットはトランプ氏の専売特許ではない。

 日本の政界では、実はトランプ氏よりもずっと早く、強烈なブルシット・アーティストが登場している。橋下徹前大阪市長である。

 例えば彼が「慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」と発言して炎上した際に、メディアの「大誤報」だと強弁し続けたのを覚えているであろうか。問題の発言はぶら下がり取材の際に発せられたので、その録画も残っており、インターネットでも広く出回っていた。したがって彼が「慰安婦制度は必要なのは誰だってわかる」と発言したことは揺るぎようのない事実であり、本来ならばその点に争いはないはずだった。それは橋下氏本人も当然わかっていたはずである。

 にもかかわらず、彼はそれを「誤報」だと言い続けた。なぜならそうすることで、自らの発言の是非から論点が逸れて、本来ならば議論の俎上に上るはずのない「メディアの伝え方」に争点が移る。議論がぼやけることで、自分への非難が弱まる。

 つまり彼は牛のウンコを投げつけることで、苦境を乗り越えようとした。というより、ピンチになるたびに、政敵を倒そうとするたびに、彼はウンコを投げつけた。そしてブルシットという言葉や概念すらなく、したがって免疫のない日本の主権者とメディアは、彼の詐術にまんまと騙され、糞まみれになっていったのである。

 ブルシッター橋下の思わぬ「成功」は、日本の政治家たちに極めて有害な影響を与えたと思う。なあんだ、ピンチはウンコで切り抜ければよいのか。けしからぬことに、そう、多くの政治家が学んでしまったのではないだろうか。

 そのせいか、最近はとにかく政治家たちのブルシットを耳にすることが多い。

 約一年半前の本欄で、安倍首相や岸田外相などが「『forced to work』は『強制労働(forced labor)』を意味するものではない」と言い張った事件を取り上げた。安倍氏と岸田氏の発言は、紛れもないブルシットであろう。

 このとき僕は、次のように述べている。

「少なくとも僕は、こういう詐欺的な言葉遣いをして平気でいられる首相や外相が、今後何を言っても信じることができない。今国会では戦争法案についての審議が行われ、本日(7月15日)、衆議院の委員会で強行採決されようとしているが、首相がいくら『戦争に巻き込まれることは絶対にない』などと言っても、真面目に受け取る気がしない。なぜなら、首相は実際に日本が戦争に巻き込まれたときでさえも、それを認めることが自分にとって不利だと感じるならば、『たしかに自衛隊と敵国の軍隊は爆弾を落とし合い、双方に死人も出ているけれども、これはいわゆる戦争ではないし、亡くなった自衛隊員も戦死したわけではない』などと言い張りかねないから」

 僕の予言の正しさは、先日の稲田防衛相の国会答弁で証明されたのではないだろうか。

 稲田氏は南スーダンのPKOに参加する自衛隊の日報で現地の「戦闘」が報告されていた問題について、「事実行為としての殺傷行為はあったが、憲法9条上の問題になる言葉は使うべきではないことから、武力衝突という言葉を使っている」と述べた。

 牛のウンコ以外の何物でもない。

 しかしこんなブルシットを許していたら、日本がこれから戦争に参加しても「事変」だと言い張り、撤退しても「転進」と言い張り、「憲法9条は違反していない」と牛のウンコを投げつけてくることは目に見えているのではないだろうか。

 では、彼らがウンコを投げつけてきたら、私たち主権者やメディアは一体どうすればよいのだろうか?

 最も肝心なことは、彼らが投げつけるウンコをまともに受け取ってはいけないということである。なぜならそれはウンコであり、馬鹿正直に受け止めても身体中が糞まみれになるだけだからである。

 つまり稲田氏のウンコの例で言えば、「起きているのは武力衝突か? 戦闘か?」などという議論には間違っても入ってはいけない。それでは稲田の狙い通り、こちらが糞まみれになる。

 そうではなくて、私たちはウンコの軌道を確実に見切って(ブルシットであることを認識して)、まずは全力でよけるべきである。そしてウンコが地面に着地したことを確認したら、鼻をつまみながら、それが紛れもないウンコ、ブルシットであると指摘し続ける必要がある。そのためには根気強い「ファクトチェック」も必要であろう。そしてウンコを投げた本人に、自らの手で後始末していただくべきではないか?

 でなければ、この世界は放置された牛のウンコで充満することになるであろう。そのうちにブルシッターな政治家たちは、その臭いと毒素にやられて死ぬだろうが、そのとき私たちも心中を強いられるのである。

 

  

※コメントは承認制です。
第49回 政治家たちが「ブルシット(牛のウンコ)」を投げつけてきたら」 に6件のコメント

  1. magazine9 より:

    文中で引用されている想田さんの過去コラムのタイトルは〈政治家の「言葉の崩壊」が意味するもの〉。そこから1年半経って、「言葉の崩壊」は世界規模で、さらに進行しているように思えます。フェイクニュース、ポストトゥルース、そしてブルシット…信じるに足る言葉なんてどこにあるのか、と吐き捨てたくなりますが、絶望してばかりもいられません。こんな状況だからこそ、私たちはもっと「言葉」と真摯に向き合わなくてはならないのだと思います。

  2. PUNK_CHEBE より:

    「ブルシット」「ブルシッター」っていいですね。デマ野郎には相応しい呼び名が必要で、「オルタナファクト」なんてちょっとカッコイイ風味の名前はそぐわないと思っていました。

    そして本日、ブルシッター安倍首相の「菅首相が海水注入をやめさせた」というブルシットが放免となりました(菅元首相の名誉毀損裁判の上告が棄却された)。沖縄南城市の古謝市長の「海保職員2名が沖縄米軍基地反対運動の報道に追い詰められて自殺」とのブルシットも問題視されることはないのでしょうか。暗澹たる気持ちです。

  3. うまれつきおうな より:

    橋下徹に限ったことではないと思う。正直言ってこの年まで生きてきて日本で客観的事実に基づいて法と理で物事が進んでいるのをほとんど見たことがない。少年犯罪が減っているデータがあっても「少年犯罪が増加している、厳罰化を」という声が通ってしまう。非正規雇用や男女の賃金格差という身分制度があり、暮らせない人が増えていても「日本は平等で格差のない国」「景気は回復している」と自慢話を聞かされる。あれほどの被害を出して、日本有数の大企業がつぶれかけても「原発はローコストで将来性のある事業」とどんどん再稼働に向かっている。別にブルシットだのオルタナティブファクトだのの新しい横文字現象ではない。昔からいう
    「殿の仰せごもっとも!」というやつだと思う。

  4. 名無し より:

    現実の則さないリベラルの欺瞞がブルシッターを産んだという因果について、もう少し考えた方がいいだろう

  5. 脳天さかおとし より:

    ブルシットというと、Bull Shit! I can’t hear you!という「フルメタル・ジャケット」の鬼軍曹が繰り返す洗脳用フレーズが耳に残っています。
    悪罵を投げ続け、聞く耳は持たないという姿勢は橋下徹にもぴったり。

  6. 鳴井 勝敏 より:

     閉塞感の漂う、不確かで不透明な時代。民衆は戸惑っている。こういう時代に登場するのが勇ましい言葉を弄して民衆を扇動する輩でる。
     新聞によると「適当なことを言って都合が悪くなればタイミングを見計らって撤回する。発言に責任を採らず毎月のように撤回するだけ。橋下氏は天性のデマゴークである」と指摘する哲学者適菜収。
     自分への非難を弱めるため。苦境を乗り越えるため。手段が「ブルシット」(牛のウンコ)であった。という想田氏の指摘は鋭い。
    思うに、橋下氏は「劣等感」という呪縛から解き放されていないのでは。なぜなら、劣等感が強まると、あることないこと他人を批判することによって自分を支えようとするからだ。とすれば、精神的に未熟児なのでは。つまり大人になっていないのだ。簡単にいえば、ずるいのだ。普通はこういう人間を相手にしないのだが。「現状を破壊すれば理想社会やってくる」という妄想にエリート層や知識人がなぜか弱いのだ。
    しかし、問題は彼なのではない。彼を選挙で当選させているのは誰なのかだ。
    >免疫のない日本の主権者とメディアは、彼の詐術にまんまと騙され、糞まみれになっていったのである。
    国民一人一人の自立心の涵養。これは受験学力では身につかない。しかし、自立心の涵養なくしてこの常態からの脱却は難しい。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
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