鈴木邦男の愛国問答

 60年安保闘争の時の全学連委員長・唐牛健太郎さんが亡くなって30年。函館のお墓の前で、7月5日(土)、偲ぶ会が行われた。函館山の中腹にお墓はある。すぐ下には海が広がっている。「唐牛がいつも好きな海を見ていられるように」と、この場所を選んだ。そして横長の大きな墓石の上は、ギザギザになっている。「海の波を表している」という。そのお墓を作った当人の秋山祐徳太子さんが言っていた。

 毎年7月に、墓前祭が行われているが今年は30年ということで特に多かった。全国から集まった。直接知ってる人、60年に一緒に闘った人、高校や大学の同級生。それに、会ったことはないが、唐牛さんに憧れ、関心を持っている人なども来ていた。

 僕は去年に続いて2回目だ。60年安保の時は勿論、直接には知らない。ただ、「学生運動の英雄」だと思っていた。凄い人がいると思っていた。「伝説の人」だった。雲の上の人だと思っていた。ところが、1982年(昭和57年)にその「伝説の人」に会った。1982年3月19日の「草間孝次氏を激励する会」だ。草間氏は60年安保当時から労働運動・学生運動に関する情報誌を発行していた。右翼の白井為雄先生に連れられて行き、そこで唐牛さんを紹介された。70年安保闘争や、その前の全共闘は年代も同じだし、毎日殴り合いをした「敵」だ。でも、60年安保を闘った全学連というのは、「敵」という意識はなかった。それは、「歴史上の闘い」だし、「伝説」だった。「英雄」を前にしたファンのようだった。

 アガってしまい、何を話したか忘れた。ただ、この機会を逃したくないと思い、「ぜひ一水会で講演して下さい」とお願いした。そして6月に一水会の事務所に来てくれ、話してくれた。それから何度か会った。元気一杯だった。学生運動をやめた後も唐牛さんの人生は波乱万丈だ。全国を放浪したり、漁師になって船に乗ったり。居酒屋をやってみたり。自ら苦難に飛び込んでいるようだった。学生運動の〈責任〉も感じていたのだろう。安保反対闘争は正しかった。しかし、リーダー唐牛さんのもとで、デモは過激になり、警官隊と衝突し、多くの人が傷つき逮捕された。樺美智子さんはデモの中で警察官に殺された。傷つき、亡くなり、あるいは獄中にいる仲間のためにも、自分は安易な生活をしてはならない、と思ったのだろう。そして、敢えて過酷な道を選び、突き進んだ。

 自分のやったことに対し、責任を持っている。男らしい生き方だと思った。酒もよく飲んでいた。「学生運動も酒のようなものだ。うまい酒だから飲んだんだ。そして酔ったんだ」と言っていた。これから大きな国民運動をするか。あるいは政界に打って出るか(これは本人が否定していた)。大きなプランを胸に秘めていると思っていた。ところが出会って2年後に亡くなった。まだ50歳にならない若さだった。

 7月5日の唐牛さんの墓前祭で、その話をした。44年前の三島事件。32年前の唐牛さんとの出会い。この二つが自分の中では大きな位置を占めている。「じゃ、今、鈴木さんは左傾してると言われてますが、その左傾は唐牛さんとの出会いから始まるんでしょうか?」と質問された。「ウーン、それはあるかもしれませんね」と答えた。遠藤誠弁護士や、ライターの竹中労さん。この2人との出会いも大きいし、この2人に多くの人々を紹介された。それ以上に唐牛さんだろう。「左翼=悪」という、それまでの思い込みが覆された。この体験は大きい。

 函館では、作家の佐野眞一さんと会った。墓前祭に出て、そのあとの直会(なおらい)にも出ていた。函館にしばらくいて、取材を続けるという。実は、佐野さんは唐牛さんの本を書こうとしている。これは楽しみだ。「仲間うち」ではいくら書いても「限界」がある。佐野さんならば、客観的に、外から見た唐牛健太郎を書いてくれるだろう。「今、こんな形で取材し、書こうとしてます」と詳しく話してくれた。佐野さんも、ライターとして、かなり批判され、悩み、苦しんだ。その体験は、唐牛にも通じるものがあるのか。そんなことを感じた。

 60年安保の時の華々しい活動については、僕も知ってるつもりだ。しかし、その後の唐牛さんについては余り知らない。いろんな噂やゴシップ。あるいは「伝説」のたぐいだが、漁師になり、居酒屋をやり、そして徳洲会や山口組との付き合いもある。マスコミではかなり叩かれたようだ。その頃の流転の唐牛さんの心情を知りたい。又、唐牛さんは、この日本をどう変えたかったのか。又、変えたのか。そんなことも知りたい。今の日本を見たら、どう思うのだろうか。

 「今の日本を見たら、もう1回、革命運動をやろうとするだろうな」と言う人もいた。「いやいや、あまりのだらしなさに絶望して、何もやらないよ」と言う人もいた。「左右の逆転にビックリするよ」と言う人もいる。「そうだよな、鈴木なんかが連合赤軍のブックフェアをやるんだからな」と言う人も。

 そうなんだ。この話は結構、皆の話題になった。「世も末だ」と嘆く人もいる。実は、紀伊國屋書店新宿本店3階で、すごいことをやっている。

 〈鈴木邦男が選ぶ連合赤軍ブックフェア〉だ。「何で鈴木が選ぶんだ。左翼の人間が選ぶべきだ」と左翼側からは批判がある。「何で敵の左翼を持ち上げるんだ」と右翼側からも批判されている。両方から攻撃されている。でも紀伊國屋ではやってくれた。勇気がある。僕の判断というか、独断と偏見で選んだブックフェアだ。こんな体験は生まれて初めてだ。大変だったが、いい勉強になった。7月1日から、31日までやっている。批判するためでもいい。行って見てほしい。

 

  

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第154回 僕を変えた32年前のある出会い」 に3件のコメント

  1. magazine9 より:

    いつもながら「左」とか「右」とかの垣根を、軽やかに飛び越えてしまう鈴木さん。「元全学連委員長」を、「愛国団体」一水会の講演に呼んじゃう鈴木さんもすごいけれど、本当に来てくれた唐牛さんもすごいと言えそうです。「伝説」で「英雄」の人物は、仮に今の日本を見たら、果たしてどう思うのでしょうか。

  2. 何気に先日の平成安保闘争で唐牛健太郎さんみたいな人が出なかったのかという問題ですね。おっさんが焼身自殺するわけだ。

  3. 多賀恭一 より:

    右翼とか左翼とか、
    そんなことはどうでもよい。
    右傾化とか左傾化とか、
    そんなことはどうでもよい。
    いずれも拙いとはいえ、理想に燃えていたのだろう。
    ただ、
    ノンポリとか無関心とかよりは、マシだったのだろうか?
    歴史は答えを出してくれるのだろうか?

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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