鈴木邦男の愛国問答

 今は「格差社会」だ。我々は格差社会の犠牲者だ。この格差社会を打倒しなくてはならない。

 〈格差がどんどん拡大しているから、これを何とかしなければならないという現実的な(あるいは非現実的な)さまざまな提言がなされている〉

 と内田樹さんも『こんな日本でよかったね―構造主義的日本論』で言う。
 その通りだ。格差社会を何とかしなくてはならない。そのための提言がいろいろと出されている。内田さんも独自の提言を出すのだと思っていたら、ちょっと違う。僕らが当然のように言っている「格差」や「格差社会」について、根本的な疑問を提出する。

 〈どなたも、「格差がある」ということについてはご異論がないようである。だが、私はこういう全員が当然のような顔をして採用している前提については一度疑ってみることを思考上の習慣にしている〉

 でも、格差はあるし、今が格差社会であることは事実じゃないか。そう思っていたから、内田さんのこの疑問には「エっ?」と思ったし、反発した。内田さんはこう言う。

 〈「格差」とは何のことなの? メディアの論を徴する限りでは、これは「金」のことである。平たく言えば年収のことである。年収数億の人もいるし、年収数十万の人もいる。年収が低い階層のヴォリュームがこのところ急増している。パラサイト・シングルというのも、フリーター、ニートというのも、ネットカフェ難民というのも、過労死寸前サラリーマンも、要するに「金がない」せいで、そういう生活様態の選択を余儀なくされている。そういう説明がされている〉

 まあ、そうなるだろう。その説明でいいんじゃないの。と思っていたら、

 〈ここから導かれる結論は、論理的には一つしかない。「もっとお金を」である。しかし、果たして、この結論でよろしいのか〉

 そうなるのかな。少々乱暴な括り方だが、これは言えるだろう。でも、その出発点から自分は違うと内田さんは言う。

 〈私自身は、私たちの社会が住みにくくなってきた理由のひとつは、「金さえあればとりあえずすべての問題は解決できる」という拝金主義イデオロギーがあまりにひろく瀰漫(びまん)したことにあると考えている。「格差社会」というのは、格差が拡大し、固定化した社会というよりはむしろ、金の全能性が過大評価されたせいで、人間を序列化する基準として金以外のものがなくなった社会のことではないのか。人々はより多くの金を求めて競争する。競争が激化すれば、「金を稼ぐ能力」の低い人間は、その能力の欠如「だけ」が理由で、社会的下位に叩き落され、そこに釘付けにされる〉

 そうか、格差とはそういうことか。年収で格付けされる社会だ。では、どうしたらいいのか。内田さんは言う。

 〈その状態がたいへん不幸であることは事実であるが、そこで「もっと金を」というソリューションを言い立てることは、「金の全能性」をさらにかさ上げし、結果的にはさらに競争を激化し、「金を稼ぐ能力」のわずかな人力差が社会的階層の乗り越えがたいギャップとして顕在化するという悪循環には落ちこまないのだろうか〉

 これは、僕らが考えつかない視点だ。だから、問題点はここなのだ、と言う。

 〈私は刻下の「格差社会」なるものの不幸のかなりは「金の全能性」に対する人々の過大な信憑がもたらしていると思う。であるなら、「あらゆる不幸は全能の金によって解決できる」という信憑を強化することは、文字通り「火に油を注ぐ」ことにしかならないだろう〉

 ウーン、そうかな。内田さんは、仕事はどんどん入り、お金に不自由していないからだろう。と思ったが、仕事に失敗し、仕事がなくて貧乏だった時代は随分とあったという。でも、金だけを基準にしない。そんな人がいるのか、と思うが、「格付け」が悪いのではない。金だけを基準にする社会が悪いのだ。その証拠に私も自分流の「格付け」をして、人生を生きている、と言う。内田さんのこの発言には驚いた。

 〈私自身は人間の社会的価値を考量するときに、その人の年収を基準にとる習慣がない。どれくらい器量が大きいか、どれくらい胆力があるか、どれくらい気づかいが細やかか、どれくらい想像力が豊かか、どれくらい批評性があるか、どれくらい響きのよい声で話すか、どれくらい身体の動きがなめらかか・・・そういったさまざまな基準にもとづいて私は人間を「格付け」している〉

 そうか、これは凄い。そしてハッと気がついた。実は年収以外のもので人は皆、「格付け」している。政治家、作家、スポーツ選手・・・など皆、努力、その結果・・・で「格付け」している。年収などで格付けしていない。

 〈私がご友誼をたまわっている知友の中には資産数億の人から年収数十万の人までいるが、私が彼らの人間的価値を評価するときに、年収を勘定に入れることはない。私にとって重要なのは、私が彼らから「何を学ぶことができるか」だからである。同じ基準を自分にも当てはめて、以って規範としている〉

 うん、最後の行がいいですね。「学ぶこと」がないのに、ただお金をもっているだけで高く「格付け」されている人がいる。しかし、その人は〈人間〉でなく、ただ〈金〉として見られているだけなんでしょう。そういえば、皆も「格付け」して生きているはずだ。「人間の器量」や度胸や決断力・・・。あるいは、「やさしさ」「明るさ」で格付けしたり・・・。
 そういえば僕も「格付け」している、と気が付いた。「本を読むかどうか」で(無意識のうちに)人を格付けして生きている。ノルマを決めて本を読んでいる人は偉いと思う。全集に挑戦している人も偉いと思う。思想的、あるいは文学の全集を読んでいるという人、それだけで立派だし、信用できる人だと思う。「本」で人を「格付け」している。それと、自分では出来なかった体験をしてる人。右であれ左であれ、宗教であれ、犯罪者であれ。〈極限〉を見、体験した人を尊敬し、「格付け」している。
 これを読んでる皆だって、いろんなことで他人を「格付け」しているはずだ。それを書き出してみよう。そしてランキングをつけてみよう。年収の多い人間をうらやんでいるよりは、ずっと楽しいはずだ。

 

  

※コメントは承認制です。
第161回 内田樹さんの
「格付け」について考えた
」 に5件のコメント

  1. magazine9 より:

    「格差社会」に対して、年収や金だけを基準にする社会がいけないのだという内田樹さんの視点。「全員が当然のように採用している基準を疑ってみる」という言葉にもハッとさせられます。それにしても、胆力や響きのよい声、全集を読むかどうかなど、人それぞれの格付け基準があるのですね。自分の中に無意識のうちにある格付け基準を書き出してみることは、自分の価値観を見直すきっかけにもなりそうです。

  2. 多賀恭一 より:

    格差に対する回答はただ一つ。
    金持ちに重税をかけることだ。
    この意見が一般的にならないのは、
    金持ちが詐欺師を雇って「金持ちに重税をかけると国が貧しくなる」と嘘を流布させるためだ。
    詐欺師に騙される大衆は永遠に乞食なのだ。
    これだけは知っておいた方が良いだろう。
    「金持ちに重税をかけて滅んだ国は無い。」

  3. 格差社会は年収で格付けしないでしょう。なぜなら金持ちは金持ちで集まって、貧乏人は貧乏人で集まって、交わることが少なくなるから。年収で格付けするような社会というのは、60年代のような誰もが努力すればある程度年収も増えて社会的地位も向上できるという条件があって初めて成り立つわけで、努力してもすぐ首を切られて、長く勤めても年功状列が終わって収入が上がらない社会じゃみんな一生貧乏のままだから、金で格付けしようとしたら、宝くじが当たったとかパチスロで大勝ちしたとか馬券が当たったとかでしかできない。(だから労務者のおっさんにはパチンコとか競馬が流行るw)

  4. hiroshi より:

    「格付け」と聞いて、某お笑い番組の中の「格付けし合う〜たち」というコーナーを思い浮かべてしまいました。格付けの基準として思い浮かぶのは、場の空気が読めるか(決断力、行動力、度胸など)、仲間や後輩を大事にしているか(家族、友人、地元など)、細かい気配りが出来るか、仕事に対し、自分の感性を信じて取り組み、情熱やこだわりが感じられるか、時に厳しく、時にやさしく、時に弱さを見せ、時に本音で語る事が出来るか等、色々思い浮かびます。又、格付けの仕方や基準は、男性に対するものと女性に対するものにも違いがある様に思います。上記の基準を見てみると、なんだか企業の経営者とかスポーツの監督とか政治家とかに使われている基準にも思えますが、こういった感情をベースにした基準のみで何でも決めてしまうのは、とても危険な気もしました。(続く

  5. hiroshi より:

    続き)格差、貧困問題と格付けや物事を判断する基準の問題がごちゃまぜになって、よくわかりませんが、胆力を磨いたり、気遣いが出来たり、想像力や批評性を養ったり、人前で自信を持って発言したり、行動出来たりするには、ある程度、余裕(お金や時間、生まれ育った環境や現在の環境等)がないと出来ないのでは、とも思いました。
    話は変わりますが、平和の為には憲法9条と25条をセットで考えるべきと思ってましたが、お金だけ豊かになっても、結局3S(スクリーン、スポーツ、セックス)に向かってしまうのでは、戦争を止める事が出来ないのでは?と今回のコラムを読んで思いました。

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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