鈴木邦男の愛国問答

 11月7日(土)、三重県四日市に行ってきた。午後2時から四日市市文化会館で、「森田必勝氏 追悼のつどい」が行われたのだ。45年前の1970年11月25日、三島由紀夫氏と森田必勝氏は自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した。この時、三島氏45才。森田氏25才だった。毎年、11月25日には東京で憂国忌が開かれ、全国でも追悼の集まりが行われている。四日市は森田必勝氏の出身地であり、お墓参りに来る人も多かった。せっかくだから、追悼の集まりも…ということで、一昨年から行われている。一昨年は、森田治さん(森田必勝氏のお兄さん)、評論家の宮崎正弘氏、そして僕の3人で話をした。昨年は、若松孝二監督の映画『11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち』の上映をやった。映画で森田必勝役をやった満島真之介さんが来て、話してくれた。
 今年は、宮崎正弘氏が記念講演、「三島由紀夫、森田必勝とあの時代」。そして森田治さんの挨拶。又、元「楯の会」の人たちが数人来ていたので森田必勝氏の思い出や、当時の活動について話してくれた。とてもいい集まりだった。

 集会の始まる前に、森田必勝氏のお墓参りに行った。それから、必勝氏の出身校に行ってみた。不審者と思われては困るので、学校の先生に挨拶をした。「あっ、まさかつさんのお友だちですか」と喜んでくれた。「たかじんの番組を見てます」と言う先生もいた。「そこまで言って委員会NP」に、たまに呼ばれて出ているが、そのことを言っている。この学校も一昨年から毎回、来ている。変なもので、必勝氏とは中学、高校の話は余りしたことがなかった。一度もしなかったのかもしれない。こんなに似たような高校生活だったのに…。お互い、気恥ずかしい思い出があったからだろう。
 必勝氏が出た海星中学、海星高校はミッションスクールだ。実は僕も高校はミッションだ。仙台の東北学院榴ヶ岡高等学校だ。ただ、必勝氏はカソリック、僕のとこはプロテスタントだった。だから、お互いの高校生活について、いくらでも話すことがあったはずだったのに。でも話さなかった。過去の話よりも、「日本の今」が心配だった。又、今、学内の全共闘と戦うことで必死だった。一緒に戦っていた仲間たちも、郷里や高校の話など誰もしていなかった。それに僕はミッション出身ということに、少々引け目を感じていた。「えっ、ミッション出身か。右翼学生のくせに」と友人に露骨に馬鹿にされたこともある。「ミッションて、女が入るとこだろう。男もいるのか?」と聞かれたこともある。だから、なるべく言わないようにしていた。多分、必勝氏もそうだったんだろう。

 必勝氏が亡くなってから、『わが思想と行動』(日新報道)と題する遺稿集が出た。必勝氏の中学、高校時代の日記、それに早大に入ってからの活動日誌など、それらから抜粋し、まとめたものだ。それを読んで初めて知ったのだ。えっ、必勝氏もミッションだったのか。じゃ、話を聞くべきだったなと。その後悔もあって、四日市に行った時は必ず海星高校を訪ねている。今年会った先生も、「まさかつさんのことは尊敬してます。本も読んでます」と遺稿集を見せてくれた。そして学内を案内してくれた。と言っても、新しく建てられた校舎が多い。「45年前にあったのは、この体育館、このグラウンド、この水飲み場、この食堂。それ位ですね」と、案内してくれた。自分も昔、ここにいたような気持ちになる。懐かしい感じがした。

 「まさかつさんは明るくて人望があって、生徒会の会長もやったんですよ」と言う。まるで必勝氏を教えた先生のようだ。そんなはずはないのに。必勝氏は生きていたら今年70才だ。案内してくれた先生は、その何十年も後輩だ。でも、尊敬する必勝氏のことを熱く語る。四日市の人々は、必勝氏に優しいと思った。愛し、尊敬している。でも、四日市の一般の人々にとっては、そんな政治的なものは関係ない。三島事件といわれるように〈事件〉を起こした人だ。もしかしたら、学校も「ふれられたくない」と思ってるのかもしれない。そう思っていたが、それは全くの杞憂だった。皆、必勝氏を愛し、尊敬しているのだ。

 そうだ、「追悼のつどい」の時だ。東京から行った人が受付を手伝っていた。そして、アッと叫んだ。「同じ名前なんですか?」と。見たら(姓は違うが)、必勝と書かれていた。まさかと思って聞いたら、森田必勝氏にあやかって名前を付けたという。「三島事件の時は僕は母のお腹の中にいたのです。父母は、すぐに必勝とつけようと決心したそうです」と言う。偉いお父さん、お母さんだ。それは勇気がある。当時は批判する人も多かったし、一般的に見たら「事件」であり、「犯罪」だ。それなのに、主犯の人間の名前をつける。でも学校でいじめられるとか、ひやかされることもなかったという。四日市の人はあたたかいんだ。優しいんだ。そう思った。

 必勝氏のお兄さんの治さんは学校の先生をしていた。その後、県会議員になった。その頃の教え子や後援者も集会に来ていた。新左翼運動のリーダーで、三上治さんという人がいる。その人も四日市の出身で、治さんに習ったと言う。必勝氏とも遊んだという。「三島事件の時は一日中、泣いていた」と言う。思想は違っても、そのひたむきな生き方に感動したのだ。四日市の人たちは本当に優しいと思った。いい故郷だったんだ。いい中学・高校だったんだ。皆に愛され、幸せだったんだね、必勝氏は。と思った。

 

  

※コメントは承認制です。
第187回森田必勝氏の出身地・四日市を訪れた」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    郷里や高校の話などしないで、「日本の今」を心配していた――そのエピソードに、当時の大学生の切実な様子を感じる一方で、四日市の方々が森田必勝氏を語る言葉にほっとするような優しさを感じます。初めて四日市で追悼会が開催されたときの様子が、ちょうど2年前の第139回のコラムに書かれています。ぜひこちらもあらためてご覧ください。

←「マガジン9」トップページへ   このページのアタマへ↑

マガジン9

鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

最新10title : 鈴木邦男の愛国問答

Featuring Top 10/89 of 鈴木邦男の愛国問答

マガ9のコンテンツ

カテゴリー