鈴木邦男の愛国問答

 今年の11月25日は、あの三島事件から45年だ。それに今年は戦後70年だ。それで多くのシンポジウム、集会があった。新聞、テレビなども特集を組んだところがあった。三島の本も売れているし、一緒に自決した森田必勝氏の本や、中村彰彦氏が森田氏について書いた本『三島事件 もう一人の主役――烈士と呼ばれた森田必勝』も売れている。
 
 今までは政治的な集まりが多かった。三島事件で自決した三島・森田両士を慰霊、追悼、顕彰する集まりだ。「両烈士の血の叫びを想起せよ!」「志を継承しよう!」というものだ。当時、一緒に運動していた人間やその後輩たちが中心になってやっている。しかし、それだけではない。今年は、さらに広く「政治性」を超えて、事件を考え、三島文学を考えよう、という集まりが増えたと思った。たとえば、『平凡パンチの三島由紀夫』を書いた椎根和さん、『三島由紀夫の来た夏』を書いた横山郁代さんなどのトークショー。歌の集い。又、三島文学ファンの集まり。さらに、森田必勝氏の故郷、三重県四日市では「森田必勝氏 追悼のつどい」が持たれた。三島事件の後に生まれ、三島事件を知らない世代にも考えてもらおう。という集まりが多かった。僕は、11月は、そうした集まりに7回も出た。どれも素晴らしい集まりだった。
 
 その中でも、一番衝撃的だったのは「国際三島由紀夫シンポジウム」だった。「国際」が入っている。これは何だ、と思った。45年前、三島は自衛隊に決起を訴える演説をして、自決した。憂国の自決だ。極めて「愛国的」「国粋的」であり、日本人に向かって訴えたのだ。別に、外国の人たちに訴えたわけではない。だから、「国際」と銘打たれたこのシンポジウムに、ちょっと違和感を持ったのだ。
 知らなかったが、今年で3回目だという。外国からも講師を多数呼んで、三島を語る。今年は3日間にわたって行われ、僕は1日目だけに出た。ものすごく多くの人が集まっていた。ネットで申し込み、やっとのことで入場できた。11月14日(土)、15日(日)、22日(日)の3日間行われ、場所も変わる。14日は東京大学駒場キャンパス講堂(900番教室)、15日は、同じ東大だが、駒場キャンパス18号館ホール、22日は青山学院アスタジオ地下多目的ホール。

 14日の会場に行って驚いた。この「900番教室」は、あの激論が行われた場所だ。1969年、つまり、三島事件の一年前に、東大全共闘に呼ばれ三島は単身、乗り込み、ここで闘ったのだ。「東大全共闘vs 三島由紀夫」の映像はテレビでも何度も何度も放送された。だから覚えている人も多いだろう。「ここがその有名な教室か」と感慨無量だった。さらに驚くべき仕掛けがあった。講堂が暗くなり、スクリーンが下りる。46年前の「東大全共闘vs三島由紀夫」の映像が流される。やたらと難解な言葉づかいで、学生たちは三島をとらえ、論破しようとする。三島もよく我慢してつき合ったものだ。訳の分からない言葉で三島に喰ってかかる。その中でも赤ん坊を肩車している学生が目立った。難解な言葉を使って、三島を攻める。
 ここで映像は終わり、スクリーンがあげられ、教室が明るくなった。次のゲストの登場だ。何と、さっき映像に出ていた人だ。赤ん坊を肩車しながら、三島に喰ってかかっていた学生だ。いや、元学生だ。芥正孝さんだ。46年目に登壇し、46年前の激論について語る。他にも多勢の講師が登場する。作家の平野啓一郎さん、高橋睦郎さん、四方田犬彦さん、松本徹さん(三島由紀夫文学館館長)などだ。外国から来てもらった学者、評論家は以下だ。
 ドナルド・キーン、イルメラ 日地谷=キルシュネライト(ベルリン自由大学)、スーザン・J・ネイピア(タフツ大学)、デニス・ウォシュバーン(ダートマス大学)だ。
 
 この日は午前10時から午後5時までだった。昼の1時間20分間は休憩。ゲストは別館で昼食会。僕も招待された。キーンさん、平野さんとは初対面だ。いろんな話を聞いた。三島が世界中で読まれ、こうして「国際」シンポジウムが開かれるのも、キーンさんの力が大きい。三島をせっせと翻訳し、世界に知らせた。三島とはとても仲がよく、一番の理解者だったと思う。キーンさんは、大の親日家で、東日本大震災の後、日本の国籍をとり、日本人になった。日本人よりもずっと日本のこと、日本文学のことを知っている。
 「キーンさん宛の遺書もすごかったですね。三島が一番心を許していたのがキーンさんだったんですね」と、本人に言った。近くに三島由紀夫文学館館長の松本徹さんがいたので、このことを話した。「そうですよ、あれだけの遺書を出すんだから、本当に心を許し、信じ切っていたんです」と言う。「日本人の作家に出したら、すぐにマスコミに発表しちゃうでしょうし」と言う。「ほら見ろ、三島から俺に手紙が来た。決起の朝に投函したものだ」と自慢げに、記者を相手に言うだろう。手紙も公表するだろう。でも、マスコミ人には三島の真意を理解できない。何だ、これは! やっぱり、気が変になってたのか! と言われる。だから、日本の作家あてには、絶対にこんなことは書けない。
 死の直後、三島からキーンさんに届いた手紙のことを調べた。ちょっと分からない。「三島全集」を読んだ時、大学ノートにメモをとってたはずだが、そのノートが見当たらない。それで、中野図書館に行った。「決定版 三島由紀夫全集」(全42巻・新潮社)が並んでいる。他に別巻がもう二巻ある。この大全集を、かつて僕は、1冊ずつ借りて全巻読破した。あの時の達成感は今でも覚えている。この全集の第38巻は「書簡」になっている。恩師、友人、作家など、実に多くの人々への手紙が収められている。この中にキーンさんにあてた手紙もある。319ページから454ページまで、100ページ以上もある。昭和31年から始まる。45年11月25日の事件当日の日までだ。厖大な手紙だ。一番多いのかもしれない。かなり重要なことを手紙として書いている。さて、最後の手紙だ。決起の日の朝に投函した。事件を知りショックを受けているキーンさんのもとに届いた。いきなり、こう始まっている。

〈前略 小生たうとう名前どほり魅死魔幽鬼夫になりました。キーンさんの訓讀は学問的に正に正確でした。小生の行動については、全部わかつていただけると思ひ、何も申しません。ずつと以前から、小生は文士としてではなく武士として死にたいと思つてゐました〉

 これが、手紙の出だしだ。こんな手紙を出せるなんて、よほど心の許した人でないと出来ない。「三島由紀夫」は「魅死魔幽鬼夫」とも書ける。と、キーンさんとの間で生前ジョークとして語り合っていた。でも、それが本当になったと、事件の日に三島は書く。日本人の作家に出したら「三島は発狂したのか、だからあんな行動をしたんだ」と思われる。あるいは、「これは発表したらマズイ」と隠してしまうかもしれない。でも一番信頼していたキーンさんだからこそ、真意を理解し、何年か経って皆が冷静に三島を語れる時に、これを発表した。これを読んで人々は思う。「やっぱり三島は凄い、あんな極限状況の中でも、こんなジョークを言う心の余裕があったのか」と。これは、ひとえにキーンさんに感謝しなくてはならない。
 
 あるいは、こうも思う。余りに近くにいる人だと(真意)は伝わらないのかもしれない。外国にいて、たまにしか会わない。そんな「距離」がある方が、真意は伝わるのかもしれない。三島全集の38巻(書簡)は大判で、1010ページもある。厚い。これだけの分量なら3冊分位になる。でも、そうしたら「三島全集」は全150巻になる。とても読もうという気にならない。1010ページの十分の一がキーンさんあての手紙だ。他にも重要なことが記されている。ジョークの中に真意を込めていたり、プライベートな手紙の中で、日本の将来、文学を論じたり。今、再読しているところだ。日本人だから分かりあえるのではない。外国人で「距離」があるからこそ、心を許して話せることもある。そんな友情を感じた。

 

  

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第188回三島からキーンさんへの手紙」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    壇上に立った46年前の元学生は、当時のことをどんな言葉で振り返ったのでしょうか。45年たってなお、さらに広く考えようという集まりが増えるほど、この事件が時代に与えた影響が大きかったことを感じます。

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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