鈴木邦男の愛国問答

 この一週間は旅から旅の一週間だった。政治的な集会が中心だが、何故か〈宗教〉を考えさせられた一週間だった。

 5月15日(日)は、岐阜の護国神社で「大夢館」建設50周年記念大会に出た。5・15事件の三上卓さんに師事した花房東洋氏が三上さんの遺志を継いで「大夢館」をつくり、毎年ここ岐阜でお祭りをやっている。この花房氏とは、僕は50年以上も前からの知り合いだ。共に「生長の家」の活動家だったからだ。
 
 僕は早大生で、赤坂乃木坂にある「生長の家学生道場」にいた。花房氏は飛田給にある「生長の家練成道場」の長期練修生だった。日本の革命を阻止するために宗教者も立ち上がれ、と言われ、一緒に街頭演説、デモなどをした。一緒に勉強会もしたし、訓練もした。その頃、一緒に運動をした「生長の家」の学生が中心になり、ずっと後になって「日本会議」が出来る。菅野完さんの『日本会議の研究』(扶桑社新書)にその辺のことは詳しく書かれている。あまりに詳しいので、日本会議は扶桑社に「回収しろ」と言って、抗議している。あまりに売れていて、今、どこの本屋にもない。古本屋では10倍の値段がついているという(現在は重版されている)。

 花房氏とは、そんな話もした。今の「生長の家」本部は、政治の世界からは一切、手をひいた。「70年安保」を前にした時代は、世の中が「革命近し」と騒然としていた時代だった。日本という国自体が病んでいる。だから「生長の家」も政治に進出し、「生政連(生長の家政治連合)」をつくり、玉置和郎さんや村上正邦さんなどの政治家を政界に送った。しかし今は、あの騒乱の時代が去って、世の中は落ち着き、平和な時代になった。だから、宗教も元の宗教活動に戻るべきだ。「生長の家」本部では、そう考えて政治の世界からは一切手をひいた。だが、政治的な活動をやり、愛国心に基づいた運動をやってきた人には、もの足りない。それで、「生長の家」創始者・谷口雅春先生の教えに帰ろう、という運動があり、その大会もある。又、各地で「雅春先生の教えに戻ろう」という勉強会も行われている。

 「生長の家」では「70年の危機」を前にし、全国の学生を集めて「全国学協(全国学生自治体連絡協議会)」をつくった。「生長の家」の学生を中心にしながらも、右派的・民族派的な学生を集めて、左翼学生と闘おうとしたのだ。初代の委員長は僕だ。前からこの運動にかかわってきたし、「生長の家学生道場」という35名の実戦部隊を持っている。それと、一番年長だった。そんな理由だけで委員長に選ばれたようだ。だが、この頃はもう左翼学生も壊滅的な打撃を受けていて、ほとんどいなかった。全国学協は左翼と闘うことよりも、他の「似たような」「まぎらわしい」右派学生運動と闘うことが多くなった。さらには全国学協内部でも内ゲバが起きた。その中で、人徳もなく、指導力もない僕は追放された。僕は運動をやりたいが、場がない。郷里の仙台に帰り、本屋の店員をしていた。その時、縁があって産経新聞に入れてくれる人がいた。1970年の春から、再び東京に戻り、新聞社勤務をした。ところが、この年の11月25日、三島事件が起こり、再び運動の世界に引き戻された。昔の運動仲間が集まって新しい運動をやろうと話し合った。僕らは2年後に一水会をつくった。

 三島事件の前からやっていた全国学協は、僕が追放された後も活動を続けていた。「反憲学連(反憲法学生委員会全国連合)」という学生組織が生まれ、「日本青年協議会」という組織も生まれた。全国学協のさらに上の組織だ。そこに残った人々が政治の世界に出て、国会議員や地方議員になり、又、「日本会議」の中の中核メンバーとなる。今、安倍政権を支え、憲法改正への推進役になっているのは、彼らだ。「生長の家」の学生運動をやった仲間、その後輩たちだ。

 岐阜の花房氏は、飛田給を出てからは、5・15事件を主導した三上卓さんに師事する。そして「大夢館」をつくり、それから50年が経ったわけだ。花房氏は精神的にもとても強い人だ。「それは生長の家の教えに触れたからですよ」と言う。普段は、5・15事件や政治の話しかしないが、僕と会うと、50年前の「生長の家」の活動家だった頃に戻る。そんな話ばかりしていた。

 岐阜に行った2日後、5月17日(火)は札幌に行った。札幌時計台ホールで、2カ月に一度、講演とシンポジウムをやっている。この日のゲストは麻原彰晃・三女の松本麗華さんだ。アーチャリーと呼ばれていた。去年、『止まった時計』(講談社)という本を出して、オウム真理教の中で暮らした日々のこと、父のこと、事件のことなどを公開し、書いた。それから、マスコミの取材にも応じているし、トークもしている。しかし、100人以上の人を前にしての講演は初めてだという。「とても1時間なんて話せない」と言う。でも、その場になったら、実に堂々と話している。聞いている人々の心を直につかんで離さない。皆、感動して聞いていた。一緒に来たお姉さんも「うまい、初めて聞いたけど、すごい」と言っていた。

 いろんな場所に出て、考え、努力し、それを乗り越えていく。無限の可能性を持つ人だと思う。それに、生まれた時からオウムにいたし、暴走する教団の中にあって、よく今まで無事だったと思う。その極限の、地獄の体験を今、語る。又、なぜオウムは暴走したのかを考える。さらに、暴走は止められなかったのか。これから宗教はどうあるべきか、などについて話す。僕も感動して、次の一時間はそんな話をした。〈宗教〉はどうあるべきかについて話しながら、宗教は愛国心と似ていると思った。両方とも、心の問題だ。心にしまっておけばいい、その上で、どう行動するかだ。それなのに、今は両方とも、ひけらかし、見せびらかす。又、「この宗教でなければ救われない」「この宗教だけが正しい」と言う。愛国者もそうだ。他人を批判し、他国を罵倒し、そのことによって「俺は愛国者だ!」と豪語する。ちがうだろうと思う。

 そして、5月21日(土)は仙台に行った。高校の同窓会だ。東北学院榴ヶ岡高校だ。僕は1回生だが、今は54回生なんている。学院にいる時は随分と反抗したり、教師と喧嘩した。でも、今になるとキリスト教を勉強できてよかったと思う。世界の文学、音楽、絵画などを理解するには、キリスト教の理解が必要だ。「今はとても感謝しています」と挨拶した。

 翌、5月22日(日)は会津若松に行く。僕を呼んでくれた人たちは、キリスト教に入信している人が多い。それに憲法24条を書いたベアテ・シロタ・ゴードンさんを好きで、会津若松にも2回、来てもらったと言う。だから、ベアテさんつながりで講演した。ベアテさんが来日した時、僕は何度も会っているし、随分と話を聞いた。又、ニューヨークに呼んでもらい、一緒に憲法を考えるシンポジウムに出た。ゆっくり時間をとって話をし、それを本にしましょう、と言っていた。ところが、亡くなられた。残念だ。

 ベアテさんに教わったことは多い。マッカーサーの指示のもと、占領軍のスタッフが日本国憲法の骨子を作った。しかし、アメリカでもできない世界一進んだ、民主的な憲法だったという。又、第二次世界大戦は「最終戦争」だ。もう戦争はない。だから、軍隊のない国をつくるべきだ。その信念で日本の非武装の9条が出来たという。

 いくらいいことをしても、占領中の日本に憲法を押し付けたんじゃないか、と初めは反撥した。しかし、彼らの夢や理想や情熱の一端は分かった。それに比べたら、安倍政権の改憲をしようという人たちには、占領軍のような夢や理想や情熱もない。「昔に戻ろう」という後ろ向きの姿勢だけだ。そのことを会津若松では講演した。愛国心は必要だ。でも「必要だ」「当然だ」という思いだけが強くなると、「じゃ、学校でも教えよう」「教科書にも書こう」「憲法にも書こう」という動きになる。「形」をつくろうとするのが政治家だからだ。でもそうなると、日本人一人ひとりをしばることになる。「心」は心として、心の中で思っていればいい。それを基にして話す、行動するのはいい。だが、宗教や愛国心を正面に出して闘うと、危なくなる。「言論の自由」もおびやかされる。

 「立派な憲法」が出来、愛国心に満ちた国家になっても、個人の自由や人権がおかされるのでは、本末転倒だ。「自由のない自主憲法よりは、自由がある押し付け憲法を」と思うわけだ。

 

  

※コメントは承認制です。
第199回「宗教」と「愛国心」は似ている」 に7件のコメント

  1. magazine9 より:

    形や面子などにとらわれるのではなく、本質を見極めて、何を大事にするべきなのかをしっかり考えること。それは、政治運動、宗教、愛国心、そして憲法にも共通することなのかもしれません。そのためには、自分も含めて若い世代の人たちが、政治的な運動の歴史を知ることも大事なのだと思いました。

  2. とろ より:

    政治運動と宗教って似てる気がしますね。
    一つを信じると、他の意見は排除すべきものとなる。
    これは左右限らないんでしょうけど、人の意見に耳を傾けることが出来るような人になりたいです。

  3. 多賀恭一 より:

    「宗教」も「愛国心」も奴隷階級を統治するための道具。
    しかし、奴隷としては人間より機械の方が優秀。第三次世界大戦では機械が奴隷階級を滅ぼしてしまうのだ。
    宗教の時代から科学の時代へ。労働者の時代から技術者の時代へ。大衆の時代から選良の時代へ。
    大変な時代に生まれたものだ。

  4. 青い花 より:

    「自由のない自主憲法よりは、自由がある押し付け憲法を」と鈴木さんは言われますが、戦前の帝国憲法だって国民にとってはけして“自主憲法”などではなかったでしょう。当時の明治政府が勝手に作って「国民に押し付けた」憲法です。「当時の日本の庶民は近代国家のための憲法などという高尚なものは理解できないし、考えることもできなかったんだから仕方ない」という方は、下記の動画を検索で探して見て戴きたいと思います。(アドレスが長くなるので)「いま日本の大問題 憲法を考える 五日市憲法ほか(BS朝日)」。また、今の憲法をつくるにあたってGHQが参考にしたのは、五日市憲法と同じような明治初期の民間の憲法草案を研究して作られて新聞に寄稿された日本の民間学者たちの憲法草案だったそうです。「今の憲法はアメリカがインスタントで作って日本に押し付けて来た憲法」というストーリーは、国民の側から見る時、少し違う話だと思います。

  5. 青い花 より:

    現在の憲法9条にしても提案者はマッカーサーではなく、幣原喜重郎だったということがわかっています。「幣原先生から聴取した戦争放棄条項等の生まれた事情について」 http://kenpou2010.web.fc2.com/15-1.hiranobunnsyo.html たしかに当時の日本の支配層にそれを押し付けたのはアメリカでしょう。戦勝国のアメリカでもなければ、そんなものを日本の支配層に押しつけられるはずもなかった。しかし、アメリカは間もなくそのことを後悔し、自国の配下にするために日本の再軍備を迫ってきました。しかし歴代の日本の政府はその要請を憲法9条を盾に断りました。改憲を目的に結党された自民党政府ですらそうせざる負えなかった。その理由は国民の大多数が今の憲法を支持していたからに他なりません。アメリカではなく、日本国民自身が自分たちの政府に、今のこの国民主権の平和憲法を維持することを「押しつけ続けて来た」のではないかと私は思っています。

  6. 青い花 より:

    承認ありがとうございます。連投、申し訳ございませんが、もう少しだけ。あの頃、地方の村や町でも、日本を民主的な新しい国にしようという希望に燃えて、多くの農民や商人たちが、生業の傍ら勉強会を開いては民主的な憲法草案を作って政府に建白したものだと、記憶は不確かですが、私も昔、井上ひさしさんの御文章で読んだような気がします。当時は半信半疑でしたが、最初に御紹介した動画を見て、それが事実であったと納得いたしました。江戸時代の日本の庶民の識字率は西欧諸国と比べても高く、庶民の中にも結構、インテリがいたようです。日本が開国するやいなや、好奇心旺盛な人々は西欧の自由民権思想を一早く学んでいたのでしょう。ちなみに、動画中の美智子皇后さまのお言葉は、五日市憲法を紹介するものとして、たいへん優れたものと感銘を受けましたが、その全文はこちらに。東京新聞 http://www.tokyo-np.co.jp/feature/koushitsu/131020/

  7. Google Tricks より:

    Thanks for finally writing about >「宗教」と「愛国心」は似ている|鈴木邦男の愛国問答-第199回 | マガジン9 <Loved it!

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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