映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第14回

帝国主義と異文化交流のはざまで

 ニューヨークを拠点にして21年目になる。だが、これまでに作った6本の長編ドキュメンタリー映画作品は、すべて日本を主な舞台にした日本語の作品である。したがって、拙作の主な観客は日本に暮らす日本語話者を想定している。

 とはいえ、映画は世界各国の映画祭や劇場や大学で上映されたり、テレビ放映されたり、DVDとして販売されたりもしている。

 そのときに問題になるのが、言葉の壁である。

 当然、字幕無しでは海外の観客どころか、映画祭のプログラマーにも見せることはできない。作品の完成と同時に、まずは英語字幕を付けることが必要になる。

 これが案外、手間も暇もお金もかかって大変だ。僕の映画はだいたいが長尺なので、なおさらである。

 作業としては、まず映画の中で話されているすべての会話を一字一句、助手の人に書き起こしてもらう。それができたら、僕がまず英語に訳し、出来た字幕を編集機で映像に載せていく。会話の時間に対して字幕が長過ぎて読めないことなども多々あるので、このときに様々な調整をしていく。それができたら、英語のネイティブ・スピーカーに字幕付き映像を観てもらい、英語の表現や文法を直してもらう。その直しを編集機で反映させ、もう一度ネイティブの人に見てもらって直しを入れる。それで完成。

 平田オリザ氏と青年団の活動を描いた『演劇1』『演劇2』(2012年)などは、2部作合わせて5時間42分に及ぶ長尺だ。字幕を付ける作業は気の遠くなるような作業だった。しかも僕の映画はたいてい英語圏のみならず、フランス語圏やスペイン語圏、中国語圏などでも上映されるので、それぞれの言葉で字幕を付けなくてはならない。その作業は作品を上映する側にお任せしているが、その都度手間と暇とお金がかかっている。

 自分の映画を世界中の人々に観てもらうのは、なかなか大変なのである。

 だからついつい、妄想してしまう。

 「ああ、日本語が世界の“公用語”になったらいいのに」

 そんな世界が想像できるだろうか?

 映画に字幕を付ける必要はないし、僕が書いた本もそのままニューヨークやパリや北京やバンコクの本屋さんに並べることができる。海外との商談も取引もすべて日本語。アメリカの大統領と日本の首相が首脳会談する言語も、国連でメキシコの代表がスピーチをするのも日本語。イタリア人もフランス人や中国人も、一生懸命日本語で学術論文を書き、日本語で本を出版する。フェイスブックやツイッターでも、世界中の人々と日本語で会話ができる。

 なんと便利で楽で都合のよい世界だろう?

 少なくとも、われわれ日本語のネイティブ・スピーカーにとっては、圧倒的に有利で御しやすい世界である。豊富な語彙と緻密な表現を自在に操れる話者は、そうでない話者よりも常に優位に立ちうるからだ。

 交渉ごとでもディベートでも、日本人は外国語として日本語を話す相手を言葉の力でねじ伏せることができるだろう。たとえ交渉相手の主張が正しく、自分には分が悪かったとしても、相手が話す不完全な日本語の発音や文法を、ちょいと上から目線で嫌らしく正してあげるだけで、日本人は反撃の契機をつかめる。

 言葉は権力、なのだ。

 そう思い至って、僕のふと抱いた妄想的な願望が、まさに帝国主義者のそれであることに気づかされた。

 なぜインド人は英語を話すのか? イギリスの植民地だったからである。なぜアフリカのカメルーンやコートジボワールやセネガルやルワンダの人たちは、フランス語を話すのか? フランスの植民地だったからである。なぜ南米ではスペイン語が話されているのか? スペインの植民地だったからである。なぜ太平洋の真ん中に浮かぶハワイで英語が通じるのか? アメリカに併合されたからである。

 欧米の帝国主義者たちは、冷徹に理解していたのではないか。言葉が権力、であることを。彼らは植民地の人々を武力で支配するだけでなく、自分たちの言葉を押し付けることで、政治的にも、経済的にも、文化的にも、心理的にも、自らの優位性を盤石なものにしようとしたのだろう。

 いや、欧米人ばかりを責めては不公平だ。韓国や台湾に行くと、日本語を話す老人に出会ってハッとさせられることがある。そんなとき、僕は異国の地で母国の言葉を話す人に巡り会えたという嬉しさよりも、申し訳ないような、気まずいような気持ちが先に立つ。若き日の彼らが日本語を学ばされる姿を想像するとき、その背後には「皇軍」の存在も同時にかいま見られるからである。

 では、日本語を母語とする僕が、生活や仕事のために英語を使っているという現実は、どのようにとらえればよいのだろうか。

 ちょうど今週末から、拙作『選挙』(2007年)と『選挙2』(2013年)の世界上映強行軍が始まる。

 まず3月22日からパリへ飛び、シネマ・デュ・レエルという老舗のドキュメンタリー映画祭で『選挙2』の上映。それが終わり次第、1日だけニューヨークへ戻り、翌日からは香港国際映画祭に出席。『選挙2』の上映をすると同時に、ドキュメンタリー・コンペ部門の審査員を務める。それが終わったら、香港からバンコクへ飛び、観察映画の作り方について3日間集中でレクチャー。その足で東京へ飛んで一泊。翌日にはソウルに飛び、『選挙』と『選挙2』の上映。で、3日後に東京へ戻って『選挙』上映および家入一真さんとのトーク。それが4月14日。約3週間のうちに6カ国を駆け巡ることになる。

 われながら無謀な日程だが、こんな行脚を僕は数か月に一回くらいこなしている。

 そして当然ながら、その間現地の人とはずっと英語でやりとりすることになる。フランスでも、香港でも、バンコクでも、ソウルでも、国際的な集まりで公用語のように機能するのは英語だからである。パソコンでいえば、英語は基本ソフト(OS)のようなものだ。

 実際、国際映画祭ならカタログやパンフレットには必ずといってよいほど、現地の言語だけでなく英語訳が添えられている。映画には現地語の字幕だけでなく英語字幕が付いているし、上映後のトークはたいてい英語にも訳される。国際映画祭では、僕は開催される国の言葉(フランス語や中国語やタイ語や韓国語など)を話すことは期待されないが、英語を話すことは期待されるのである。

 いや、それは「期待」というよりも、「要求」に近い感じもする。だから英語を話さない人はしばしば、「He doesn’t speak English(彼は英語が話せないんだよ)」と軽い軽蔑の混じった声色で言及されることになる。映画祭に限らず、国際的な会議や商談でも似たような状況なのではないだろうか。

 そういう場面で、米国暮らしの長い僕は、片言の英語しか話せない人よりも相対的に優位な立場にあることを感じる。先述したように、言葉は権力、だからだ。

 同時に、英語をネイティブとする人と話す場合には、相対的に不利な立場にあることを感じる。やはり言葉は権力、だからだ。

 そう考えると、英語を使うことそのものが、「英語帝国主義」に加担する行為のようにも思えてくる。なんだか酷く良くないことをしているような気になってくる。

 一方で、英語をツールとして使うことで自分の映画が世界各地で上映され、言葉や文化の壁を超えて「何か」を共有できる喜びが大きいことも事実だ。異なる国の人同士で文化的な交流を進めていくことは、世界の平和を育てていくことにつながるとも信じている。だからこそ、僕は時差ボケでヘロヘロになりながらも、世界中を巡り続ける活動をやめられないのだと思う。

 帝国主義的な言語としての英語を使いながら、世界各地の人々とつながろうとしている自分。

 つくづく、僕は矛盾とジレンマの中で生きているのだなあと思う。そして、その矛盾とジレンマは、いわゆるグローバル化の流れの中で、今後日本に住む日本人にとっても切実な問題になっていくのではないかという気がしている。

 しかし、この矛盾とジレンマは、すっきり爽やかに解消すべきものなのだろうか。

 「英語帝国主義には加担しない」と宣言して、英語を使うことを断固拒否すればすっきりするのだろうけど、なんだかそれには抵抗がある。なぜなら、英語を使うことで得られる成果や「良いこと」も一緒に放り投げてしまうことになるからだ。

 かと言って「これからはグローバル社会だ!」とばかりに、一部の日本企業のように社内の公用語を英語にしたりする流れにも、やっぱり大きな抵抗がある。なぜなら、それではそれこそ英語帝国主義の秩序の中に完全に絡めとられてしまうし、地球全体が画一化されていってしまうと思うからだ。

 一筋縄ではいかない、なかなか悩ましい問題なのである。

 結局、矛盾とジレンマを認識し、うしろめたさと喜びの両方を噛み締めながら、常にバランスをとりながら進んでいくしかないのではないか。

 そんな風に思いながら、約1か月に及ぶ長旅に備えて、僕はスーツケースに荷物を詰め込み始めている。

 

  

※コメントは承認制です。
第14回 帝国主義と異文化交流のはざまで」 に5件のコメント

  1. magazine9 より:

    想田さんのいう〈便利で楽で都合のよい世界〉、つまりは英語を母語とする人にとっての現実なわけですが、いったいどんな感じなのか、今ひとつ想像がつきません。英語が事実上の「世界公用語」となっている状況を、まったく拒否はできないけれど、「だから英語くらい話せて当たり前」というのも、やっぱりおかしい! とも思うのです。この〈矛盾とジレンマ〉に、皆さんはどう向き合いますか?

  2. 宮坂亨 より:

    エスペラントが陽の目を見る日は来るだろか?

  3. yasukonomura より:

    言葉を介在しない文化をより尊重することが一つの解決方法かと思います。

  4. katsuhiko より:

    想田さんの言語と心の在り方のはざまみたいなものよくわかります。小生もあるきっかけで、毎年米国の西、東と過ごす事が多くありましたしたくさんの素晴らしい友人との交流を持っていますが、やはり、英語が通じて、お互いを知り、文化習慣を知ると、彼らの精神の根底にあるキリスト教精神がボランティア精神を生み,人は皆、平等でなければ。ということが しばしば見受けられます。やはり、お互いが分かり合うためには、はじめに、言葉ありき。なんでしょうね。それに 時折、あちらで過ごしていると、日本は島国どくとくの特性があって、時として、それを感じます。 良きにつけ悪しきにつけ。。。安倍氏がいいハートと高度な語学力があれば、今のような賢明でない行動は避けられたと思うし、ほんとうの意味の同盟国が築かれるのではないかと。。。。。

  5. 元島愛一郎 より:

    この〈矛盾とジレンマ〉こそが生死につながるもので、永遠の法なのかも・・
    それでも生きる生き物なのでしょう~

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
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