映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第34回

完全に失敗した「テロとの戦い」

 パリで大規模な「テロ」が起き、世界中で大騒ぎになっている。ベイルートでもほぼ同時にそれに匹敵する大きな「テロ」事件が起きたが、こちらはそれほど大騒ぎになっていない。

 市民を無差別に殺傷する「テロ行為」が卑劣なものであり、強く非難しなければならないことは、言うまでもない。巻き込まれて亡くなった方々やご家族は、本当に本当に気の毒だと思う。心から哀悼の意を表したい。

 同時に、これをきっかけにさらに「テロとの戦い」が加熱し、報復合戦が激しくなるのかと思うと、悲しさと虚しさにやるせなくなる。

 いま確実に言えるのは、9・11事件以来米国が主導してきた「テロとの戦い」は、「テロ」を根絶するという意味では完全な失敗だったということである。

 9・11後、米国はアフガニスタンやイラクを侵略した。そしてビンラディンやフセインを殺害するという「成果」も得た。しかしそれで、「テロ」は減ったであろうか? 事態は全く逆であろう。米軍らによる一般市民の大量殺戮は、むしろISという怪物のような「テロ組織」を台頭させ、育ててしまった。今回の「テロ」事件は、その帰結といえるのではないだろうか。

 11月15日付けの「毎日新聞」電子版は、2012年に米軍の無人機による「誤爆」で家族を失い、自らも右手を負傷したパキスタン人のナビラ・レフマンさん(11)の来日を伝えている。

 記事によると、ナビラさん一家は12年10月、パキスタンの実家近くで空爆を受けた。菜園にいた祖母は死亡し、ナビラさんら9人が爆発の破片を受けて負傷した。地元紙は「武装勢力の3人が死亡した」と報じたが、明らかに「誤爆」だったという。同じ記事には、こんな驚くべき記述もある。

 ロンドンの非営利団体「調査報道局(BIJ)」によると、同国ではこれまでに421回の無人機攻撃があり、約4000人が殺害された。そのうち約4分の1が民間人だったという。ナビラさんは13年に米議会公聴会で被害を訴えた。だが議員は5人しか参加せず、状況は変わっていない。

 想像してみてほしい。

 無人機がニューヨークやパリや東京の上空に現れ、家屋やビルを「誤爆」し、民間人が多数殺されるような事態を。そしてその一般市民の犠牲者が、1000人にものぼるような事態を(今回のパリでの犠牲者数の約10倍だ)。

 そんなことが起こったら、おそらく世界のメディアは天地がひっくり返るような騒ぎになるのではないだろうか。少なくとも今回の騒ぎの比ではないだろう。

 しかしパキスタンでそんな事件が実際に起きているのに、世界的なニュースには決してならない。もちろんアマゾンのトップページはパキスタンの国旗を掲げたりはしないし、フェイスブックのユーザーがこぞってアイコンをパキスタン国旗色に染め上げたりもしない。キャンドルライトを捧げる追悼集会は開かれないし、欧州の首脳や安倍晋三は米軍を「断固非難」したりしない。第一、米議会公聴会で被害を訴えても、議員は5人しかこなかったというのである。

 この恐るべき非対称性。

 ここに「テロ」がなくならない理由がある。というより、米軍らによる民間人の殺傷は、「テロ」そのものなのではないだろうか。

 僕がこれまで、この文章で「テロ」という言葉をしつこくカギ括弧でくくってきたのも、その理由による。「テロを許さない」というのはいい。異論はない。テロ行為を擁護するつもりは一切ない。しかし一方で、米軍やフランス軍らによる民間人の殺傷行為を、あたかも「なかったこと」のように振る舞うことは、あまりに公平さを欠いているのではないだろうか。

 米軍の「テロ」で家族を殺され手を負傷したナビラさんが、米国に対する復讐に燃えてテロリズムに参加するのではなく、メディアや米国議会に訴えるという正攻法に出ていることは素晴らしいことである。しかし、「テロ」の犠牲者みんながみんな、ナビラさんのように冷静で肯定的な態度で被害に向き合うことができるだろうか?

 常人には極めて難しいのではないかと思う。

 僕はいま改めて、2001年9月11日の事件の際、最初にボタンをかけ間違ったことの負の影響の甚大さについて、考えている。

 当時のブッシュ政権は、アメリカに対する「テロ攻撃への報復」及び「テロリストの根絶」を目標に掲げ、アフガニスタンへの侵攻を開始した。日本の小泉政権も、すぐさまそれを支持した。

 僕は当時もニューヨークに住んでいたので、あの9・11事件にはとてつもない衝撃を受けた。炭疽菌事件もあったりして、街を歩くのにも現実的な身の危険を感じた。だから世論調査でアメリカ国民の約90%がアフガニスタン攻撃を支持したと知ったときには、感情的にはその気持ちを理解した。

 しかし、アフガニスタンに米軍を侵攻させてテロリストを撲滅するという発想には、原理的かつ根本的な落とし穴があると直感し、侵攻には当初から大反対だった。

 その「原理的かつ根本的な落とし穴」とは何か?

 テロリストとは「属性」ではない、ということだ。また、テロリズムとはアイデアである、ということだ。

 分かりにくいだろうか?

 つまりこういうことだ。

 生まれながらに「テロリスト」である人間はいない。テロリストと呼ばれる人たちは、最初は誰しも普通の赤ちゃんとして生まれるわけだが(当たり前だ)、その後育った環境や出会った人々や出来事、思想などの影響で、人生のどこかで「テロリスト(彼らの視点では正義の戦士)」になることを決断する。ということは、テロリズムというコンセプトが、現状を打破したり敵に報復したりする上で、魅力的かつ効果的なソリューションに見えるような社会的環境や条件が継続する限り、「テロリスト」は無限大に増殖しうるのである。

 これが例えば「この世からゴキブリを根絶する」というのであれば、実際には難しいだろうが、原理的には実現の可能性はある。ゴキブリを片っ端から殺していけばよいのだから。そしてゴキブリがこの世から一匹もいなくなれば、たぶんその後ゴキブリが再び復活することはない。なぜなら、カブトムシがいきなり何かに影響されてゴキブリになったりすることはないからである。

 しかし「テロリスト」は違う。たとえテロリストが皆殺しに合い、一時的にこの世から一人もいなくなったとしても、「テロリズム」というコンセプトが存在し、それに共感する人がいる限り、再びテロリストが生まれる可能性は残る。たぶん多くの人は、テロリストをゴキブリのような存在としてイメージし、徹底的に殺せばいなくなるものだと考えているのだろうが、そういうイメージそのものが致命的に誤っているのである。

 イラク戦争での死者の数をコツコツと数えているサイトがある。それによれば、この原稿を書いている時点で、推定146,062人から 166,410人の民間人の死者が出ているそうだ。

 また、別のサイトによれば、アフガニスタンでの民間人の死者は累計で約26000人。パキスタンで殺された民間人の数は、最大で3800人に上る。

 それらを合計すれば、「テロとの戦い」で17万人から20万人の命が失われていることになる。気の遠くなるような数字だ。

 17万人から20万人と一口に言うが、その一人ひとりに人生があり、家族や友人がいたことを想像すると、めまいで倒れそうになる。

 米軍らは、人を殺した数だけ、街を破壊した分だけ、「テロリスト予備軍」を増やしているのではないだろうか。そして、肉親や友人を殺された人々が報復を誓い、あるいは同胞による報復行動に共感することで、ISが力を得てきているのではないだろうか。

 安倍晋三政権の下、日本も「テロとの戦い」にますます傾斜していくことになるだろう。今後日本で「テロ」が起きれば、その傾向は決定的になり、自衛隊を「テロリスト掃討作戦」に参加させることになるかもしれない。

 しかしそれは、すでに血を流し膿んでいる大きな傷口に、塩や唐辛子をさらに塗りつける行為に他ならないことを、私たちはいまから肝に銘じておくべきである。

 すでに米軍らが17万人から20万人の民間人を殺戮している以上、いまストップしても、すぐには「テロ」は止まらないかもしれない。しかしこれ以上殺せば、さらに復讐の火が燃え盛るであろうことは、目に見えている。

 それはいたって単純な「物事の道理」ではないだろうか?

 最後に、@youji1224さんがツイートしていた強烈な皮肉を紹介する。

「テロ犯人がパリに潜伏してるなら、パリを空爆すればいいじゃん。いつもならそうするじゃん」

 ギョッとするツイートだが、問題の本質を鋭く突いている。イラクやシリアやアフガニスタンやパキスタンなどで、米軍らは実際、そういう対応を平気で行っているのである。

 

  

※コメントは承認制です。
第34回 完全に失敗した「テロとの戦い」」 に4件のコメント

  1. magazine9 より:

    15日にも、フランスはイスラム国が拠点を置くシリア北部の町、ラッカへの空爆を行ったと伝えられています。またしても世界は、憎しみの連鎖を加速させていくのでしょうか。そして、かつて支持したイラク戦争について、まったく検証も振り返りも行っていない私たちの国は…。同じようなことを繰り返すのは、なんとしてでも押しとどめたい。そう思います。

  2. 敗北ってことで付け加えると、資源と金目当てのブッシュ的なやり方はさすがにマズいから、自由と民主主義を守るという御旗の元にやれば大丈夫だろうという、オバマ&ケリーのやり方も見事に失敗したということですね。フランスのオランドなんか、その御旗がなければ、やってることブッシュと何ら変わらないんだし。

  3. 太田芳治 より:

    今回の事件で、菅官房長官はひきつった顔で「断じて許されるものではない。」と言っていたが、その顔は、安保法制の時とは違って、今まで遠い所でのことが、自分の身に起こると思い始めた恐怖の瞬間だった。結局、偉そうに言ってても、 こうなると本音が顔に出るんだな。

  4. Chie Fujimoto より:

    「かつて支持したイラク戦争について、まったく検証も振り返りも行っていない私たちの国」本当にそうですね。日本は検証をしない国です。「イラク戦争支持」を表明したことによって外交官を2人亡くしたことだって、もう覚えている方は少ないのかもしれませんね。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
→OFFICIAL WEBSITE
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