映画作家・想田和弘の観察する日々

『選挙』『精神』などの「観察映画シリーズ」で知られる映画作家、
想田和弘さんによるコラム連載です。
ニューヨーク在住の想田さんが日々「観察」する、
社会のこと、日本のこと、そして映画や芸術のこと…。
月1回の連載でお届けします。

第36回

個別的自衛権でシリア空爆が可能? 「護憲派」の盲点

 先月の本欄では、日本で「テロ」と呼ばれる事件が起きた時に起こりうる事態について、思うところを記した。

 「やられたのだから、やり返せ」という声が日本国内で強まり、それに異論を唱える者は「テロリストの味方をするのか」と攻撃を受けるのではないか。そして、安倍政権はそうした「火事場」を、憲法に緊急事態条項を加えることや、自衛隊を「テロリスト掃討作戦」に参加させることの口実として利用するのではないか。

 そんなことを書いた。

 僕はそれ以来、講演会やトークイベントに呼ばれるたびに、そのことについてなるべく申し上げるようにしている。コトが起きた後では、聞く耳を持ってくれる人が激減するのではないかと恐れているからだ。

 しかし、何度もそのことについて申し上げているうちに、これまでの自分の認識に重大な盲点があったことに気づかされた。

 それは、もしたとえば日本国内でIS(いわゆるイスラム国)による「テロ事件」が起きた際には、日本政府は「集団的自衛権」ではなく「個別的自衛権」を根拠に、ISの拠点があるシリアを攻撃し得るということである。

 実際、2001年9月11日に攻撃を受けたアメリカがアフガニスタン攻撃に踏み切った国際法上の根拠は、個別的自衛権の行使であった。ISを標的にシリア空爆を行った根拠も「個別的、集団的自衛権の行使」である(参考)。

 もちろん、米国による自衛権の解釈は、自衛の範囲を際限なく拡大するものであり、不当であるとの批判もある。僕もそう思う。

 しかし、国際法の解釈の当否は、この際、問題ではない。個別的自衛権という概念が、自国から遠く離れたタリバーンやISを攻撃する国際法上の根拠として、実際に使われ黙認されていることが問題なのである。逆に言えば、日本政府が今後その理屈を採用しないと信じられる根拠は、あまりないのである。

 もちろん、憲法9条をいただく日本では、個別的自衛権も厳しく制限されるとの議論は根強い。防衛省・自衛隊のホームページにも、日本の個別的自衛権には地理的制約が設けられていて海外派兵は不可能だ、との解釈が明記されている。

(3)自衛権を行使できる地理的範囲

 わが国が自衛権の行使としてわが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使できる地理的範囲は、必ずしもわが国の領土、領海、領空に限られませんが、それが具体的にどこまで及ぶかは個々の状況に応じて異なるので、一概には言えません。

 しかし、武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであり、憲法上許されないと考えています。

 一方、2014年に閣議決定された武力の行使・新三要件には、地理的制約は明記されていないのも事実だ。

■憲法第9条のもとで許容される自衛の措置としての「武力の行使」の新三要件

•わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること

•これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと

•必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと 

 自衛隊に、実際にシリアを攻撃する能力があるのかどうかについては、別の問題として議論する必要はあろう。しかし、日本国憲法が個別的自衛権を根拠にしたシリア空爆の歯止めになり得るかといえば、すでに相当に危ういと言えるのではないだろうか。

 少なくとも、安倍晋三首相による強引な憲法解釈変更を見る限り、彼が突然、アメリカ流の個別的自衛権の解釈を持ち出し、シリア攻撃に対する法的根拠とする可能性は決して低くはないと思うのだ。

 そう考えると、僕を含む安保法制反対派が繰り広げてきた議論は、問題の立て方そのものが相当に的外れで間の抜けたものだったような気がしてならない。

 私たち反対派の多くは、「集団的自衛権を容認するとアメリカの戦争にかり出され、自衛隊が海外で戦争に参加するようになる」という認識のもと、安保法制に反対してきた。そこでは、個別的自衛権と集団的自衛権という2つの概念が対置され、「個別的自衛権はセーフだけれど、集団的自衛権を認めるのはアウトだ」という話法が採用された(無論、安保法制反対派には、個別的自衛権や自衛隊に反対する人も含まれているが、彼らは反対派の多数を占めてはいない)。

 だが、ISによる国内での「テロ事件」を現実的な脅威として想定する場合、そうした「個別的か、集団的か」の区別そのものが、実はあまり意味を持たなくなっていたのではないか。というより、「個別的か、集団的か」という誤った問題設定をしたがために、コトの本質がかえって見えにくくなっていたのではないか。

 つまり私たちが問うべきだったのは、「個別的か、集団的か」などではなかった。私たちが本当に問うべきは、「やられたらやり返すのか、やられてもやり返さないのか」という問題だったのである。そして、平和主義を自認する私たちは、憲法の解釈合戦を脇に置き、「やられてもやり返さない」という覚悟を固め、その覚悟こそを人々に広げていく努力をすべきだったのではなかったか。

 僕はそうした基本的な事実に今ごろ気づかされたことに、愕然としている。たぶんそれは、いわゆる「護憲派」を自認してきた僕にとっての、大きな死角だったのだ。

 僕は長らく、憲法第9条の条文を守ること=平和主義という誤解をしてきた。いわば神聖化された憲法9条が「触れてはいけないタブー」になり、メンタル・ブロックが生じていたのだと思う。その結果、平和主義についての議論を、「憲法の条文をどう解釈するか」といういわばテクニカルな議論に矮小化し、本当の意味で、平和について、戦争について、報復について、実は考えてこなかったのではないか。

 そんな気がするのである。

 こんなことを書くと、護憲派からは、「問題を複雑にするな」「いまは集団的自衛権反対で団結すべき」といった批判がくるであろう。

 無論、団結するのは必要不可欠である。僕は共産党による「国民連合政府」の提案を支持しているし、今度の参院選(もしかしたら衆参同日選)では、平和主義や立憲主義を掲げる陣営が一致団結して、なんとか自公政権を打倒しなければならないと考えている。

 しかし、同時に私たちは「集団的自衛権反対」で思考停止してはならないだろう。なぜなら、本質的に平和について、戦争について、報復について、正面から議論し考えない限り、団結のための一致点の見出し方さえも分からなくなってしまうと思うのだ。

 東京や大阪で「テロ」と呼ばれる事件が起き、多大な犠牲者が出る。あるいは、原発が狙われて福島原発のような事故が起き、広範な地域に人が住めなくなる。そしてISから犯行声明が出る。

 考えたくもないことだが、そんな恐ろしい事態が起きた時、私たちはいったいどうするのか。やり返して報復の連鎖に加わるのか。それとも踏みとどまるのか。

 その時、「個別的か、集団的か」という不毛な二元論は、平和主義を追求する上で、全く役に立たない。憲法9条も大した歯止めにはならない。その時、暴力のストッパーになり得るものがあるとしたら、それは「不戦の覚悟」を一致点とした、私たち主権者の団結以外にないのである。

 

  

※コメントは承認制です。
第36回 個別的自衛権でシリア空爆が可能?「護憲派」の盲点」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    アフガニスタンやイラクへの攻撃のような、外国での「テロ(と呼ばれる事件)」を発端にした戦争を念頭に置くならば、「集団的自衛権の行使を認めるべきではない」という議論には大きな意味があったと思います(憲法解釈の変更という手段のめちゃくちゃさについては言わずもがなです)。一方で、日本国内で同じように「テロ事件」が起こる可能性が現実味を帯びてきている今、それだけでは戦争を止められない局面についてもまた、考える必要があるのかもしれません。
    想田さんが言うように、政府が〈アメリカ流の個別的自衛権の解釈を持ち出し、シリア攻撃に対する法的根拠とする〉可能性は、十分にあるように思えます。そのとき、私たちはどうするのか。〈やり返して報復の連鎖に加わるのか。それとも踏みとどまるのか〉。一人ひとりが再度、覚悟をもって問い直してみるべきではないでしょうか。

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想田和弘

想田和弘(そうだ かずひろ): 映画作家。ニューヨーク在住。東京大学文学部卒。テレビ用ドキュメンタリー番組を手がけた後、台本やナレーションを使わないドキュメンタリーの手法「観察映画シリーズ」を作り始める。『選挙』(観察映画第1弾、07年)で米ピーボディ賞を受賞。『精神』(同第2弾、08年)では釜山国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞を、『Peace』(同番外編、11年)では香港国際映画祭最優秀ドキュメンタリー賞などを受賞。『演劇1』『演劇2』(同第3弾、第4弾、12年)はナント三大陸映画祭で「若い審査員賞」を受賞した。2013年夏、『選挙2』(同第5弾)を日本全国で劇場公開。最新作『牡蠣工場』(同第6弾)はロカルノ国際映画祭に正式招待された。主な著書に『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs.映画』(岩波書店)、『日本人は民主主義を捨てたがっているのか?』(岩波ブックレット)、『熱狂なきファシズム』(河出書房)、『カメラを持て、町へ出よう ──「観察映画」論』(集英社インターナショナル)などがある。
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