こちら編集部

 4年前の福島で何が起こっていたのか。私の友人である村岡鮎香さんが当時のことを3月11日にご自身のフェイスブックに綴った文章を読んだとき、私は軽い衝撃を受けました。いったい自分は被災地の何を知っていたのだろうか、と。あの日、福島で人々はどこで、誰と、どのような時間を、どんな気持ちで過ごしたのか。村岡さんの承諾を得て、以下に転載させていただきます。

* * * * *

 今日で、東日本大震災から4年目を迎える。4年というと、大学を卒業するぐらいの年月で、短いのか、長いのか不思議な気持ちがする。3月11日、あの時に福島にいた者として「あの日」のことを書こうと思う。

 4年前の今日の福島の天気を調べてみると、天気は晴れ。最低気温マイナス1度、最高気温7度。今日よりも寒い日でした。その当時、私は福島市にある銀嶺食品という食品メーカーに勤めていました。日本人の味覚に合うパンを作っている会社で、私はパンの職人ではなく、営業事務のような仕事をしていました。
 14時頃に、本社から車で5分ほどのところにある直営店に行っていました。スタッフと雑談をしていたところ、グラグラッとした大きな揺れを感じ、急いで駐車場に逃げました。これまで体験をしたことのないような大きな揺れで、地面はぐにゃぐにゃと動き、看板もピシピシと音を立て、落ちてくるかのようでした。隣にあった福島信用金庫からも職員や、お客さんが出てこられて、ただただ不安な気持ちで揺れが収まるのを待ちました。もちろん携帯はつながらず、震源がどこかということはずいぶん後になってからわかりました。
 今まで晴れていた空が一瞬で暗くなり吹雪になりました。遠くに見えるはずの信夫山も見えないような、激しい吹雪でした。「天変地異が起こるということは、こういうことなのか」と、ぼんやりと思っていました。
 揺れが少し収まったところで店内に入ると、レジ脇にあった冷蔵ケース(30キロぐらいはあるもの)が落ち、陳列していたパンはことごとく落ちて散乱していました。片づけようとした矢先、次々とお客さんが店内に入ってきました。「パンを売ってください」と。電気もストップしていることから「お釣りのないようにしてもらえますか」とお願いをして、お店にあるものを売りました。ちょうど翌日がセールだったことからパンをかなりの量用意していたので、売るには十分な量のパンがあったのです。お店を開けていると絶え間なく人がどんどんと入ってきて、これでは埒があかないということになり、本社の状況も気になったのでお店をしめて本社に向かいました。
 本社の駐車場でも同じようなことが起きていました。車のヘッドライトを照らし、玄関先でパンを売っているのです。従業員総出で、お客さんの対応をしていました。次々とお客さんが来るので、パンが足りなくなり、電気のつかない真っ暗な工場に入り、包装されていないパンを袋づめし用意をしました。お客さんの「助かります。本当にありがとう」という言葉をどれぐらい聞いたでしょうか、20時30分ぐらいまで、お客さんの対応をしていたように思います。仕事が終わり、余震もひどく、電気のつかない1人暮らしの家に帰るのも気が滅入るので、当面必要なものをバッグにつめこみ、同僚の家に向かいました。
 同僚の家までは、車で15分くらい。いつも見慣れている風景は、電気もストップしているので真っ暗。もちろん信号も点いていません。空だけは妙に綺麗で、星が煌めいていました。なんだか足元がふわふわして、ハンドルにガッシリとつかまるように運転をしていました。まるで夢の中のような感じで、「ここはどこなんだー!!」と叫びたい気持ちでいっぱいで、車を走らせました。
 同僚の家に到着すると、あまりにも余震がひどく、暖をとる手段もないので、車の中で過ごそうという話になりました。20代の娘さんと一緒に、車に乗り込みました。
 とにかく情報がなく、ラジオ福島にチューニングを合わせました。大和田新アナウンサーが必死の放送をしていました。「緊急速報です。皆さん、安全な場所に避難してください」「身の安全を確認してください…」
 その頃には、宮城が震源地であること、どうやら津波が起こっているらしいということがわかってきました。でも映像を見ることは出来なかったので、それがどんな惨状かということは、その時はわかりませんでした。
 ちょうどその日は、同僚の家で一品の持ち寄りの会をやる予定だったので、手元に6人分ぐらいの出汁巻き玉子を持っていました。それを開けて、みんな食べました。今朝、こんなことが起きるとは思わず作った出汁巻き玉子。お腹が少し満たされた後は、目をつぶりながらラジオを聞き、大きな余震が起こるとビクッと目を開け、何が起こっているのか、これからどうなるのか、みんなは無事だろうかなど、色々なことが頭の中を巡っていきました。ただただ、ラジオの声だけが、世界とつながる一筋のような光のように感じていました。
 そして、携帯に入る友人からの安否を心配したメッセージ。そのメッセージをお守りのような気持ちで、抱いて目を閉じました。
 その時の私たちは、これから自分たちの身に起こることをまだ想像することも出来ませんでした。地震の怖さに怯えながらも、「思ったよりも家が大丈夫だった」「家族の無事も確認できた」とか、まだ呑気にかまえている部分があったように思います。
 翌朝、東京の友人から1通のメッセージ(2011年3月12日07:57)。「原子力発電所がだいぶ危ないみたいだから、もしもに備えてヨウ素の多いもの摂っておくといいよ。昆布とか」
 「原子力が危ないって?」「ヨウ素って?」そんな言葉が気になりつつも、スーパーやコンビニなどの食品店が閉まったなか、地方の食品メーカーは別の役割を与えられ、どうしても避けられない濁流に飲み込まれることになったのです。

* * * * *

 淡々とした語り口が、むしろ読み手の想像力を刺激し、様々な映像が頭になかに浮かんでくるような記録。村岡さんは、折をみて、少しずつ当時のことを文章にしていこうと考えておられるそうです。被災地の方々のご経験には、私たちが学ぶべきことがたくさんあると思います。

(芳地隆之)

 

  

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