鈴木邦男の愛国問答

 「『創』や『マガ9』を読んでるけど、今や鈴木さんはすっかり左翼だね。昔はあんなに過激で暴れてたのに」と康芳夫(こう・よしお)さんに言われた。康さんは「呼び屋」と言われていた。いまなら、イベント・プロデューサーだろう。かつて、モハメド・アリを日本に呼んでアントニオ猪木と闘わせた。また、ネッシーを探しに探検隊を組織して行った。「人間か? 猿か?」と騒がれたオリバー君を連れてきた。そうした派手な「虚業」だけでなく、出版もやった。沼正三の『家畜人ヤプー』を世に出した人でもある。三島由紀夫もこの本には驚き、絶賛した。康さんは三島とも親しかった。「楯の会」の人間も康さんの出版社でバイトしたことがある。1970年に三島と共に自決した森田必勝氏も康さんのところでバイトしていた。右翼、左翼を超えて広い人脈がある。不思議な人だ。小説家の島田雅彦さん、宗教学者の中沢新一さんなども康さんに紹介された。他にも多くの人を紹介してもらった。
 その康さんと久しぶりに会った。5月4日(日)、信濃町の千日谷会堂だ。九條今日子さんのお通夜だった。九條さんは寺山修司の元奥さんだ。しかし、別れてからも寺山の仕事を支え、寺山死後は出版、芝居…と尽力した。評論家の中森明夫さんにもお通夜で会ったが、中森さんは言う。「30年前に寺山修司が亡くなりましたが、寺山はむしろ亡くなってからビッグになった。死後、急成長した。10年後、20年後、30年後と、どんどん大きくなった。これは九條さんの力が大きい」と。「そうですよ」と康さんも言っていた。
 「そんな話を九條さんの前でしたんだよね、鈴木さん。九條さんはニコニコして聞いてたよね、とても元気だったし、お酒も飲んでたし」と中森さん。そうなんだ。ついこの前だ、九條さんに会ったのは。2月17日(月)、月蝕歌劇団の芝居を見に行った。阿佐ヶ谷で午後2時半からだった。5時ごろ終わり、劇団代表の高取英(たかとり・えい)さんに、「ちょっと飲みに行きませんか」と誘われ、駅前の店に行った。そこに中森明夫さんや劇団の人、雑誌社の人がいて、高取さんが僕の隣にいた女性を紹介してくれる。「九條今日子さんですよ」と。ビックリした。あの有名な九條さんか。僕の頭の中では伝説的な人だ。感動し、興奮して何を話したのかよく覚えてない。「死後もこれだけ騒がれ人気があるのは、寺山修司と三島由紀夫だけですね」と僕は言った。ノーベル文学賞を取った川端康成だって、没後何年だといって雑誌が特集するわけではない。関連本も出ない。その点、いつまでも取り上げられ、人気があるのは寺山と三島だけだ。「寺山は、演劇・映画・短歌・詩・評論など活躍した分野が広い。若者が関心を、持ちやすい。それにこれだけの寺山ブームを創ったのは、九條さんの力が大きいですよ」と中森さん。九條さんは楽しそうに聞いていた。そして2人に話をしてくれた。78歳だと言うが、元気だったしお酒も随分と飲んでいた。病気をしていたと言ってたが、もう元気になっていたと思っていた。
 ところが、2ヶ月後の訃報だ。驚いた。僕は初めて会ったのに、それが最後になった。中森さんも同じだ。でも、こんな伝説的な人と会えて幸せだった。高取さんのおかげだ。千日谷会堂には大勢の人が来ていた。お通夜の式が終わった後も、一般の人やファンの人たちが献花をしようと長蛇の列が出来ていた。我々は別室のお清めの席で献杯し、九條さんのことを話し合う。皆は思い出を話しあってるが、中森さんと僕は会ったのは一度だけだ。他の皆から思い出を聞く。高取さん、康さん、篠田正浩さん(映画監督)、林静一さん(画家)などから話を聞いた。その席で、康さんから「鈴木さんは今や、すっかり左翼ですね。リベラル左翼だ」と言われた。昔、僕が暴れて、よく警察に捕まった頃を知っているので、今の変貌ぶりには驚いているのだ。
 篠田さんが言う。「今や僕の方が鈴木さんより右翼だよ。でも。鈴木さんのような立場の人が、ズバズバと言ってくれるのはありがたいね。“左翼だ”と叩かれるだろうけど、頑張ってくれている。いや、ありがたいです」。篠田さんは、ゾルゲの映画を撮って以来、映画を撮ってない。去年までは早稲田大学で教えていたという。今度ゆっくり話を聞かせてもらいたい。

 「鈴木さん、彼を知っている? 彼は?」と康さんは、いろんな人を紹介してくれる。元全共闘世代の評論家を見つけ、「この人が鈴木さんだよ」と紹介する。「鈴木さんは、昔はバリバリの右翼だったのだ。今は左翼ですよ。極左ですよ」。ところが、紹介された彼は「ぺっ! 何が左翼だ。偽装左翼だよ!」。本人を前にして、これだけ毒付くのは、むしろ偉い。僕なんて、どんなに嫌いな人でも、ニコニコして、ついお世辞を言って名刺をだしちゃう。「お前なんて偽物だ、嫌いだ!」なんて言えない。紹介した康さんもビックリして、唖然としていた。その人は「世の風潮にこびて、左翼のふりをしている」と言いたいのだろう。「でも、今は右傾化の時代だし、左翼が右翼や愛国者を偽装してることはあっても、逆はないよ。何の得もないし」と康さんは訝(いぶか)しんでいた。
 そういえば、3月4日(火)、唐牛健太郎さん(元全学連委員長)の追悼集会で、元左翼リーダーに紹介された。彼は憤然としている。「俺は天皇主義者とは口をきかない。帰れ!」と言う。今どき珍しく頑固な人だと感心した。又、数年前だが、あるパーティで、有名な左翼文化人を見かけた。考え方は違っても、論理は通っているし鋭い指摘をする。僕は尊敬していた。突然話しかけたら失礼と思い、知り合いの左翼的な人に頼んだ。「鈴木が挨拶をしたいと言ってますが、どうですか」と。ところが、伝言を頼んだ人はすごすごと帰ってきた。「ダメでした、“右翼反動とは話したくない。同じ場にいたくない”と言われました」。これも凄い。パーティだったんだから、もう「同じ場」にいるじゃないか。
 でも、こんな頑固な人たちは、まだ僕のことを“右翼”だと思っている。“敵”だと認めてくれているんだろう。それは有難いことなのだろう。それに、「話し合いたくない」「同席したくない」とは言われるが、いきなり殴りかかったりはしない。その点は紳士だ。ところが、右翼の集会だと、「裏切り者め!」「転向者め!」「恥を知れ!」といきなり詰め寄られることが多い。知らない人に「売国奴め!」と言われて胸ぐらをつかまれたこともある。アパートに火をつけられたこともあるし。ネトウヨのデモに抗議したら、いきなり殴られたこともある。やられっ放しだ。
 右翼からは「転向した!」「堕落した」と言われ、左翼からは「反動め!」「偽装だ!」と言われる。どこにも居場所はない。孤立無援だ。でも三島にしろ、寺山にしろ、九條さんにしろ、もっともっと孤立し、無援の闘いをしてきたんだろう。僕なんかは、まだまだ甘い。
 青森には寺山修司記念館がある。九條さんはそこの名誉館長をやっていた。寺山は地元の誇りだったし、さぞかし多くの人々に愛されたんだろう。そう言ったら、中森さんに言われた。「そんなに単純じゃないんです」と。地元に寺山修司記念館を作ろうとした時、「“しゅうじ”は一人で十分だ」と言って、反対されたという。太宰治の本名は津島修治だ、“しゅうじ”は太宰だけで十分だ。何も寺山なんか…。という声が多かったという。又、寺山が亡くなり、記念館を建てた時は、まだまだ寺山は知られていなかった。「死後、有名になったんですよ。九條さんの力ですよ」と中森さんは言う。皆、激しい道を通ってきたんだ、と痛感した。

 

  

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第150回 孤立無援で闘ってきた人たち」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    〈左も右も両方が、「敵」が何か言うととにかくそれに反対する、互いに相手にパラサイトするということを続けてきた〉のが戦後の日本だ、と言ったのは中島岳志さん(こちらなど)ですが、そうではない「孤立無援の戦い」を続けてきた人たちも(鈴木さんを含め)もちろんいます。ちなみに寺山修司については、同じ青森県出身の山田勝仁さんが、寺山の言葉を引用しながら下北半島の核問題について書いてくれたコラムがこちらから読めますので、これもぜひ。

  2. 多賀恭一 より:

    織田信長は右翼だろうか、左翼だろうか。
    右翼でもなく、左翼でもない。
    信長は信長だ。
    これが「孤立無援の戦い」をする者だ。
    因みに、右翼左翼にこだわる政治家にかぎって、信長好きだったりする矛盾は嘲笑える。

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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