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2012-05-30up

原発のある地域から

昨年、「下北半島プロジェクト」で青森県下北半島を訪れたマガ9スタッフ。短い時間でしたが、核施設のある六ヶ所や東通も訪れ、地元の方ともお話しする中で、主要産業であり雇用の場でもあった原発を、即座に否定はできない事情や空気があるということを感じました。と同時に膨らんできたのが、他の原発立地地域はどうなのか? という関心。日本各地の「原発のある地域」で、反対運動をしてきた方のお話などをシリーズでお送りします。

第2回(静岡県・掛川市)元「浜岡原発を考える静岡ネットワーク」役員 内藤新吾さんに聞いた‐その1

内藤新吾(ないとう・しんご)牧師。 1961年兵庫県生まれ。2011年3月まで日本福音ルーテル掛川・菊川教会(静岡県)で牧師を務め、同時に浜岡原発の反対運動に携わる。現在は同稔台教会(千葉県松戸市)に勤務。著書に『キリスト者として原発をどう考えるか』(いのちのことば社)。「原子力行政を問い直す宗教者の会」事務局4人の1人。

昨年、二度にわたって下北半島を訪れ、地元の人たちとも話をする中で、強く印象に残ったのは、多くの人が口にする「地元での声のあげにくさ」でした。原発はないほうがいいと思う。違う経済のあり方を目指したい。でも、それを表立って言うのはあまりにリスクが高すぎる--。外側にいる私たちには時に想像しきれない「空気」がそこにあるのだということを、改めて感じさせられました。
けれど、立地地域以外の場所だけでいくら「脱原発」を叫んでいても、何かを変えられるはずはない。原発のある地域で、まずは一緒に考えよう、考えていいんだという空気をつくりだしていくには、どうしたらいいのか。そのヒントをお聞きしたくて、3・11の直後まで暮らしていた静岡県掛川市で、浜岡原発への反対運動を続けていた牧師・内藤新吾さんを訪ねました。

原発の地元で「反対」の声を広げていくには
「戦略」も必要

——牧師である内藤さんが、反原発の運動に関わられるようになったのには、何かきっかけがあったのでしょうか?

 掛川に赴任する前に勤めていた名古屋の教会での、ある出会いがきっかけです。
 教会があったのは日雇い労働者が大勢いる「寄せ場」の町で、僕も赴任後まもなくから炊き出しなどの支援運動に関わるようになりました。その中で知り合ったある日雇い労働者のおじさんが、毎週のように僕のいる教会に来てくれるようになったんですね。そのたび、人権問題についてなどいろんな話をして、外部の勉強会にも一緒に行ったりするようになった。
 その人に、知り合って1年ほどしたときに「実は自分は、原子力発電所で何度も働いた経験のある被曝労働者なんだ」と打ち明けられたんですね。「自分は年もとっていて普通の工事現場では雇ってもらえないし、ほかに仕事もないから仕方ないけど、本当は行きたくないんだ」と。そして、原発事故についての新聞記事などをこつこつファイリングしたものを僕にくれて、「この原発という仕組みそのものをなんとかしてくれ」というんです。
 そこから、教会やYMCAなどでの勉強会で、ホームレスの問題とともに原発の問題も取り上げるようになりました。ただ、「被曝労働者だということが知られたら、絶対に差別されるから誰にも言わないでくれ」とも言われていたので、そのおじさんのことには一切触れずに、でしたが。

——その後、転勤で静岡県掛川市の教会に移られたことで、主に浜岡原発の問題に絞って活動をされるようになる。

 そうです。掛川に赴任したのは2004年なんですが、その翌年の秋、中部電力が突然新聞に「プルサーマル発電の導入が決まりました」という広告を載せたんですね。原発立地の自治体と電力会社とが結ぶ「安全協定」というものがありますが、実は中部電力のそれは全国的に見ても非常に遅れていて、原発の新設などでない限り、運転の方式などの変更くらいではいちいち自治体の了解を得る必要がないという内容になっていました。それをいいことに、住民との何の事前協議もなく「やることにしました」という報告だけをしてきたわけです。こんなふざけた話はありませんよね。
 それで、さすがに怒った市民が集まって、反対運動として何か集会のようなことをやろうと準備会を立ち上げました。その会場として、当初は公共の会議室を使っていたんだけど、2回目を開くのに使用申請に行ったら「公共に反する内容の集まりには貸せません」と言われてしまったらしくて。

——公共に反する、ですか?

 プルサーマル導入は国が決めた方針だから、それに反対する内容の集まりには貸せませんというんですよね。いくら説明しても窓口の人はその一点張りで埒が明かないから、じゃあ僕の教会でやりましょう、ということになったんです。
 そこから、教会で準備会が開かれるようになって。翌2006年がちょうどチェルノブイリ事故から20年目の年でもあったので、それと絡めて「科学技術文明への警告」と題する学習会を掛川市内で開催しました。

——それはどんな内容のものだったのですか?

 企画するときに、まず考えたのは、直接的に「原発反対」とか「プルサーマル反対」をテーマにしたものにはしないでおこうということです。掛川市は、御前崎市など他の3市よりは少ないとはいえ、原発立地による交付金をもらっています。市民にも何らかの形で中部電力と関係する仕事をしている人が多い。そんな中で露骨に「反対」を打ち出せば、「あれに行ったら反対派だと思われる」「仕事の取引に影響があるかも」というので、みんな来ない、来れないだろうと考えたんですね。
 それで、内容的には地震が来たときの原発の危険性について考えてもらえるものを目指しつつも、テーマ設定は「科学技術は果たして万能なのか、過去の教訓から学ぼう」という、違う切り口にしようということになりました。ウクライナの元環境大臣と科学者を呼んで、チェルノブイリ事故のときの話をしてもらったんだけど、告知のときにも「脱原発」「反原発」という言葉は使わず、配布資料にも一切そういう言葉は載せなかった。長年反原発運動をしてきたような人の中には、「甘すぎる」と意見を言う人もいたけれど、そんなバカ正直なやり方じゃ誰も来ない。ともかく来てもらえば、そこで私たちが伝えたいことを実感して帰ってもらえばいいんだ、と。
 それが功を奏して、地元の新聞社や教育委員会、掛川のほか菊川、牧の原の各市の後援もとりつけることができました。直接的に「反原発」を言っているわけじゃないから、市のほうも断る理由がないわけです。通常は1〜2週間で後援許可が出るのに、1カ月近くかかったけれどもね(笑)。ただ、さすがに御前崎市は「浜岡原発はチェルノブイリ原発とは違うタイプだし、日本の技術は非常に優秀だから何の心配もしていません」といって断ってきた。テーマには一切「浜岡原発」の言葉は出していないんだから、本来この理由づけもおかしいんだけど。

——何人くらいの方が来られたんですか?

 頑張って200人集めようと言っていたのが、蓋を開けてみたら650席ある会場が満席で、立ち見が出ました。こんなことは静岡県内でも初めてだったと思います。

——それはどうしてだったと思われますか。

 やっぱり、テーマ設定を「ソフト」にしたからでしょう。当日、講師の2人には、チェルノブイリの事故後に甲状腺がんなどの病気が増えているといった事実を淡々と報告してもらいました。最後には、阪神・淡路大震災のときの、建物や高速道路が次々倒れていく様子を再現したコンピュータグラフィック映像を流したけれど、そこでも「原発を止めましょう」なんてことは一言も言わなかった。ただ「巨大科学は万能と言えるのでしょうか、皆さんそれぞれが考えて判断してください」という内容のナレーションを流しただけ。それでも、終了後に集めたアンケートの回答は「東海地震が来る前に浜岡原発は止めるべき」という声ばかりでした。

——そうした、直接的に「反原発」を言わないやり方が有効だと思われるようになったのは、なぜですか?

 名古屋で反原発運動にかかわっていたときから、「地元」に近づけば近づくほど声をあげにくくなるという実態を見ていたから。仕事に圧力がかかるとか、お金がもらえなくなるとか、みんないろいろと事情がある。そこで反対の声を広げていくには、戦略的なやり方が必要だなと思っていたんです。 
 掛川で反原発の運動がそれなりにあったのも、一つにはもともとそこが原発の「地元」ではなかったからです。2005年の合併で浜岡原発に近い大東町が掛川市の一部になって、それで原発交付金対象の自治体になったけど、それ以前の掛川市にとっては「原発」なんて遠い話だった。だからこそ安心して反対意見を言える人が出てきていたんですね。ただ一方で、地元自治体でもないのに口を出すなという空気もあったので、合併したことでそれ以前から「反対」を言っていた人たちが声をあげやすくなったという面もあるんですけど。
 さらに、まさに立地自治体である御前崎市になるともっと難しい。実際、私たちが集会をやろうとしてもなかなか場所も貸してもらえなかったし…。そうした状況を考えると、どうしても「使い分けること」が重要になってくるんです。

——使い分ける?

 反対を言うときはきっちりと、全力で反対の声をあげる。でも、直接「反対」を表に出さない活動も重要で、こちらの活動では露骨な「反対」のそぶりは一切見せないで、もっとソフトな言い方をする、という形ですね。
 掛川市周辺には反原発のグループがいくつかあって、僕もその大半に所属していました。その活動で陳情などに行くときは、きついことも言うし野次も飛ばす。その一方で「地震で原発だいじょうぶ?」会というグループを立ち上げて、そちらでは直接的な「反対」は一切掲げないようにしていたんです。勉強会などをやるときも、「だいじょうぶ?」会主催の場合は、明らかに「反原発」という人を講師に呼ぶようなことは避けるし、そういう言葉も口にしない。それは常に心がけていましたね。

——直接的な「反原発」ではないというと、団体としてはどんな主張をされていたんでしょうか。

 とにかく「地震があっても原発は大丈夫なのか、きちんと討論する会を開いてくれ」ということです。市に対しても県に対しても、そのことだけをひたすら言い続けていました。まずはちゃんと、安全だという学者と危険だという学者、両方の意見を聞かせてほしい。そうでなければ、私たちはプルサーマルも原発そのものも認めない、と。これならみんな「たしかにそうだ」となるし、お金や仕事のしがらみがあって「原発反対」は言えない人も声をあげやすいんです。他の点では連携できない場合もある反原発グループ同士も、そこなら一致できるし。
 例えば、先ほどお話しした掛川での勉強会の後、掛川市が主催する原発とプルサーマルについての説明会があったんですが、登壇したのは経済産業省の参事官や中部電力の役員、あとは原発推進派の学者が2人で、反対派の学者は1人だけというひどい内容。これはあんまりだというので、終了と同時に退席しようとする市長をつかまえて、もう一度「地震と原子力防災」をテーマにした懇談会を開くよう約束を取り付けたんです。それも、原発推進派と反対派、双方の学者を同じ人数呼んできて公平に討論する形で、と。

——それは実現したんですか?

 したんですが、推進派学者に登壇の引き受け手がいなくて(笑)。主催は市だから、出てもらう人とも市の職員が交渉するんだけど、みんな断られたらしくて。僕らも「彼らは安全だと言ってるんだから、ちゃんと説明する責任があるでしょう。この中から来てもらったら?」と言って、いわゆる政府御用学者のリストを渡してあげたりしたんですが、駄目でしたね(笑)。

 結局次の年も誰も来ず、翌年になってやっと1人だけ来てくれた。でも、反対派の学者の「地震が来たら危ない」という主張のほうがずっと説得力があったし、参加した人たちも口を揃えてそう言っていました。原子力安全・保安院の職員も来ていたけど、反論一つできないでいたし。
 ただ、結果的にはその3年目の懇談会と同じ日に、プルサーマル導入に関する市民への「最後の説明会」が開かれ、それをもって掛川市はプルサーマル計画を承認するということになりました。賛否を問う会ではなくて、「説明会をしました」というアリバイ工作のための会だったんですね。掛川市は当時、県内でも熱海市の次に財政状況が悪かったから、4市あわせて30億円、と提示されていたプルサーマル受け入れによる交付金が、さらに県の取り分まで4市にあげるよと言われて合計60億円と膨れ上がったので、それはどうしても欲しかったんでしょう。

※その後、2010年に中部電力は「プルサーマル計画の延期」を発表。さらに2011年3月、計画が進んでいた6号機の建設延期とともに、プルサーマル計画の凍結が表明された。

その2につづきます→

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