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2012-12-05up

マガ9対談:中島岳志さん×想田和弘さん(その1)「熱狂」のサイクルに巻き込まれないために

その1その2

今月5日、いよいよ衆議院選挙が公示となりました。政治の場であまりにも「軽い」言葉が連発され、不信と混迷ばかりが広がる中、私たちは何を信じて行動すればいいのか。政治学者の中島岳志さんと映画作家の想田和弘さんに、2012年を振り返りつつ語り合っていただきました。保守とは何か、改革とは何か、いまメディアはどうなっているのか--。選挙前の今だからこそ考えたいテーマがいっぱい、というわけで、総選挙までの2週に分けてお送りします。

中島岳志●なかじま たけし 1975年生まれ。北海道大学大学院法学研究科准教授。専門は南アジア地域研究、近代政治思想史。『ヒンドゥー・ナショナリズム』(中公新書ラクレ)、『中村屋のボース─インド独立戦争と近代日本のアジア主義』(白水社)、『パール判事─東京裁判批判と絶対平和主義』(白水社)、『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房)、『秋葉原事件―加藤智大の軌跡』(朝日新聞出版)など著書多数。「ビッグイシュー」のサポーターであり、「週刊金曜日」の編集委員を務めるなど、思想を超えて幅広い論者やメディアとの交流を行なっている。twitter はこちら→@nakajima1975

想田和弘●そうだ かずひろ  1970年栃木県生まれ。東京大学文学部卒。スクール・オブ・ビジュアルアーツ卒。93年からニューヨーク在住。台本やナレーション、BGM等を排した、 自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーの方法を提唱・実践。その第1弾『選挙』(07年)は世界200カ国近くでTV放映され、米国でピーボディ賞を受賞。ベルリン国際映画祭へ正式招待されたほか、ベオグラード国際ドキュメンタリー映画祭でグランプリを受賞した。第2弾『精神』(08年)、番外編の『Peace』(10年)も世界各地の映画祭で上映され、受賞多数。最新作『演劇1』『演劇2』が全国で順次公開中。著書に『精神病とモザイク』(中央法規出版)、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社現代新書)、『演劇 vs. 映画―ドキュメンタリーは「虚構」を映せるか』(岩波書店)がある。以前に登場いただいたインタビューはこちらから。 twitter はこちら→@KazuhiroSoda

◆2012年を振り返って
——猛スピードで消費されるニュース

中島  少し早いですが、2012年を振り返るということで…。主なニュースがここに並べてあるんですが、これをごらんになって想田さんはどうお感じになられましたか。

想田  なんだか、最初のほうは遠い昔のことみたいに思えますね。非常に象徴的なのは、僕自身も含めて「何が起きたか」をよく覚えてない、ということじゃないでしょうか。ニュースが次から次へとメディアに流され、熱狂が起こって、それがすぐ忘れられていく。僕もそのサイクルに巻き込まれてるんだなということに今気づいて、ちょっと愕然としました。
 これって、我々の普段の「消費」の感覚とものすごく似てますよね。商品のモデルチェンジと同じような感覚でニュースも消費されてるなということを実感します。

中島  それはありますね。僕が今、一番嫌いな言葉が「スピード感」なんです。あれは、もともと日本人が「拙速」という言葉で表現してきたことを、全部「スピード感」と言い換えてるだけじゃないでしょうか。

想田  そういえば「拙速」という言葉は最近聞かないですね。

中島  僕は、インドの「独立の父」といわれるマハトマ・ガンディーが好きで継続的に読んでいるんですけど、中でも「いいことを言っているなあ」と思うのが、「良いものはカタツムリのように進むのです」という彼の言葉です。「そうでないものは本物ではない」というんですね。
 ガンディーは近代の機械文明や行き過ぎた資本主義経済などを疑いましたが、その根本のところには、近代のスピードに対する懐疑がありました。「近代は速すぎる」と考えたんですね。だからチャルカーという糸紡ぎ車をゆっくり回し、「汽車こそが文明の害悪を広めている」と言った。塩の行進(注)も、一歩一歩時間をかけて歩くことに意味があったんです。
 また、やはり僕が非常に大きな影響を受けている、エドマンド・バークら保守思想家も、「劇的な変化というものの中には、絶対に人間の理性に対するおごり高ぶりがある」と言っています。改革はグラジュアル(徐々)に、漸進的にやっていくべきだ、と。
 それなのに今は、自分を「保守」と言っている人たちまでが、スピード感とかわけのわからないことを言い出してるでしょう。

※注 塩の行進…1930年、ガンディーが弟子や支持者とともに、インドを植民地支配していたイギリスによる塩の専売に反対して、約380キロ離れた海岸まで23日間をかけて行進した抗議行動のこと。インド独立運動の重要な転換点ともなった。

想田  最大の保守政党であったはずの自民党が、変化とか改革とか言い始めたあたりから、そのへんの概念もすごく混乱してきている感じがしますね。例えば、大阪の橋下(徹)市長は保守政治家だとよく言われますけど、まったく保守ではない。急進派ですよね。

中島  はい。どの要素をとっても保守思想とは言えないと僕は思います。

想田  実は僕も、これまで自分のことを保守よりは革新だと思ってきたんですけど、最近の自分の言ってることを点検してみると、どうも保守としか思えないんですよ(笑)。
 例えば橋下さんが文楽を攻撃しているのを聞くと、「いや、それは絶対に守らないとダメだ」と言ってしまう。あれだけ長く続いている伝統には英知が詰まっていて、いったん失われてしまったら回復しないことは明らかなわけですから。でも、これって「保守」ですよね。

中島  本当にそうですね。僕の好きな福田恆存という保守の思想家が、佐藤(栄作)内閣のときに建白書を出しているんですが、それは当時の内閣が「愛国心」を国民に押し付けるような政策をとりながら、伝統文化に対する予算をどんどんカットしていることへの批判でした。伝統という足場を欠いた抽象的概念で人をコントロールしようとする発想には、人間に対するおごり高ぶりがある。おまえたちに伝統を語る資格はない、と。
 僕は橋下さんに対してまさにこれを突きつけたいし、福田だったら同じことを言ったと思います。ところが、その橋下さんに対して「そのとおりだ」と言い出したりするのが今の「保守」なんですよね。まったく反転してしまっている。

◆自民党も維新の会も「保守」ではない

想田  それがすごく不思議です。今、「保守」と呼ばれる人々は、一昔前なら過激派に属するようなことを言っています。例えば尖閣の問題でも、今まで「棚上げ」されてきたわけなんだから、それに準じてなるべく事を荒立てない方向に持っていくのが保守的な発想だと思うんですが、保守の権化みたいに誤解されている石原(慎太郎)さんが一番事態をこじらせるようなことをやってるでしょう。
 もう1回、保守思想というのは何なのかということを整理して、その誤解を解いていかないといけないんじゃないかと思います。議論やカテゴリーが混乱していますよね。

中島  それは僕もこの10年くらいずっと感じていることです。だからこそ、保守思想を引き受けたうえで、「保守とはこういう思想ですよ」ということを言ってきたんですが…。そうするとおかしな現象が起きてきて(笑)、保守系メディアの『表現者』でも革新系の「マガジン9」や『週刊金曜日』でも同じことを言っているのに、どちらかというとマガ9とか金曜日の読者のほうに共感されてしまう。僕は左に寄っていってるつもりは全然ないんですが、パラダイム自体がおかしくなっている。今年は特に、そのねじれが非常によく見えた年だったと思いますね。
 例えば、注目を集めた生活保護の問題。自民党議員などは扶養義務を強調して、まず家族に頼れというけれど、家族の存在が重要だと考えるならそんなことを言えるはずがない。今は、みんなの余裕がなくなっていて、家族がどんどん崩壊していますよね。年配の人に対して、市役所の窓口で「生活保護よりも家族がいるんだったらそっちに頼れ」と言ったところで、息子夫婦は都会で非正規雇用でいっぱいいっぱいの生活だったりするわけで、そこに頼れといっても不可能なわけです。結局どうなるかというと、「家族だから頼れって話になるんだったら、家族の縁を切って生活保護をもらえるようにしよう」という方向になりがちで、ますます家族が崩壊してしまう。
 若い人も失業給付などが充実していないので、あっという間に路頭に迷ってしまう。けど、田舎の親もギリギリの生活で、頼ることができない。「扶養してくれなんて言えないし、これ以上迷惑をかけられないから、やっぱり家族の縁を切ることにしよう」となってしまう。
 ただでさえ家族の基盤が脆弱になっているんだから、国はそれをサポートして守らなくてはならない、という方向性に保守思想なら行くはずなのに、自民党などがやっていることはそのまったく逆。それが自分たちは真正な保守だと言い出す。これもおかしな現象だと思うんですよね。

想田  ほんとですね。こうした「ねじれ」の現象は、いつごろから始まってきたんでしょうか。

中島  もしかしたら、日本は戦後一貫してそうだったのかもしれないですね。左は、自民党一党優位体制の中で、自分たちの声なんて全然政治に反映されないと主張してきたし、右は右で、メディアも教育界も戦後民主主義的な考え方に支配されていて、自分たちの声はどこにも届かないと言ってきた。左も右も両方が、ずっと自分たちはマイノリティだと言って、「敵」が何か言うととにかくそれに反対する、互いに相手にパラサイトするということを続けてきたわけです。
 それが今も続いていて、「靖国参拝」と言っていれば保守、「9条を変えろ」と言えば保守というように、フラグメンツ(断片)に熱狂するのみで、きちんとトータルでものごとを考える力がなくなっている。僕は「萌え現象」、つまりは「めがね萌え」ならぬ「靖国萌え」「9条萌え」みたいなものだと言ってるんですけど。

想田  アイテム化ですよね。だから尖閣についても強硬論を唱えるのが保守で右で愛国者である、というように、すべてイコールで結ばれてしまう。あまりにもそれが固着しているので、バラバラにして考えるのが難しくなって、「棚上げでいいじゃん」と言ったとたんに売国奴と言われる、みたいなことになってしまうんだと思います。

中島  脱原発の運動においてもそういう現象はありました。「原発推進」だと言っているかのように見える人々の多くは、実は「反・反原発」なんですよね。反原発運動をやってる人が「左っぽくってイヤ」だからそれに反対する。またしても「パラサイト」が始まっているわけです。

◆失われてきた「じっくり見て、読んで、考える」態度

中島  こうしたことがずっと繰り返されてきて、しかも最初に話が出たように、その一つ一つのテーマが非常に短いスパンで忘れ去られていっている。だから、例えばあれだけ大きな事件だったはずのオウムとか秋葉原事件についても、もうみんな忘れているし、「なぜ起こったのか」が問われることもない。その繰り返しが「フラグメンツへの熱狂」とつながっているという印象があります。

想田  そうですね。流れが速すぎて、その一つ一つが何を意味するのかを立ち止まってじっくり見る、考えるという態度そのものが、社会からかなり失われつつある気がします。
 僕が映画をつくっているときにも、「1時間で収めてくれ」「2時間でまとめてほしい」と言われることがあるんですが、どうしても2時間かかる、あるいは10時間かかる話があるというのは、当然のことのはずなんですよね。僕の新作の『演劇1』『演劇2』も合わせて6時間近くという長い映画ですけど(笑)。でも、商品としての扱いやすさという枠に閉じ込めようとすれば、どうしても短くてスピード感があって、というものが求められるようになる。
 映画だけじゃなくて、例えば日本の新聞の記事ってすごく短いですよね。僕なんかがインタビューを受けても、掲載されるときには発言が要約され過ぎちゃって、エッセンスをまとめたというよりほとんど意味がわからなくなっていたりするんです。
 ニュース報道でも、定型主義というんでしょうか、「こういう事件の場合はこういう切り口で、この辺で目撃者の証言を入れて、この辺で地元の人の感想を入れて…」みたいに、記者が穴埋めみたいな形で記事を書いている感じがする。原発事故みたいに既存の概念をひっくり返してしまうような事件が起こったときでさえ、定型の記事の書き方に収めようとするから、どこか変なことになってしまうんじゃないでしょうか。

中島  想田さんの映画を見ていると、本筋とは直接関連しない、猫が道を歩いてるとか掃除してるおじさんがいるとか、そういうシーンが入ってきたりしますよね。今のテレビや新聞の報道は、そういうところを全部そぎ落とした「エッセンス」と言われる形になっている。それが「わかりやすさ」だとみんな言うけど、実は違って、それは「単純化」なんですよね。

想田  おっしゃるとおりです。

中島  わかりやすさと単純化の区別がつかなくなったときに、メディアは死ぬんだと思うんです。僕は昔、NHKで『その時歴史が動いた』という番組のリサーチャーの仕事をしてたことがあるんですけど、実は結構イヤだったんですね。だって、歴史って「その時」動いたりするものじゃないから(笑)。
 なのに「動いたのはここだ!」と決めて、それに基づいた物語を設定して、そこに収まらない要素をどんどん切り落としていく。僕は、歴史ってきわめて複雑なもので、それをどれだけ丁寧に、伝わるように説明できるかが「わかりやすさ」だと思っていたけど、テレビの人たちは「単純化=わかりやすさ」だと思い込んでいたように感じました。

想田  僕もジレンマを感じることがあるんですよ。映画を宣伝するときにはある程度キャッチコピーをつけるわけですが、そのコピーに乗っ取った理解で感想を出してくる観客や批評家がけっこう多い。これはキャッチコピーがうまく効いてるということでもあるけど、同時に情報の受け手を簡単に操作できてしまうということでもあるわけで…。
 プロデューサー的発想ではやっぱりどうしても短くてインパクトのあるキャッチコピーを、と考えてしまうんですよ。自分でやりつつそんなことを言うのは無責任だというのも重々分かってはいるし、違う宣伝の形を考えればいいんでしょうけど、かなりのジレンマ…。

◆映像に隠された意図を読み解くリテラシーを持とう

中島  テレビについて言うならば、文芸批評のような「テレビ批評」が確立されていないこともあって、視聴者の側にリテラシーがつくられていないことも大きな問題だと思います。テレビの編集にも、相当いろんな意図が隠されている場合があるわけですが、それを読み取るだけの力が我々の側で身についていない。

想田  「映像の見方」というものが、すごく欠落していると思います。例えば以前、『朝まで生テレビ』に橋下さんが出て、彼を批判する学者たちと論争して「勝った」と言われたときがありました。僕はそのときニューヨークにいたのですぐに映像は見られなかったんですが、ツイッター上で「橋下すげえ、強い」みたいなツイートがいっぱいあったし、「反橋下派はどんなに酷くやられたんだろう?」と思っていたんです。
 ところが、後で映像を見てみたら、全然そんなことはなかったのでびっくりしたんです。「反橋下派」が、討論の内容では全然負けてないどころか結構押している。ただ、映像のつくりが「橋下さんが勝っている」ように見える形になっていただけなんです。
 そもそも、橋下さんの側は東浩紀さんと2人だけで、逆側に「反橋下派」がずらっと並んでいる。この構図そのものがヒーローをつくりやすい形なんですよね。例えば三船敏郎の『用心棒』だって、三船敏郎が20人いて悪役が3人くらいしかいなかったら全然かっこよくないでしょう(笑)。

中島  『座頭市』とかもそうですね。

想田  そうです。ヒーローは必ず少数。これはもう定石の構図です。さらにカメラワークも、橋下さんを捉えるときはクローズアップしたり下からあおったりとバリエーションがあるのに、「反橋下派」のほうはみんな単純なバストショットで、非常に凡庸に見える。結果的になのかわざとなのかはわからないですが、非言語的なメッセージを視聴者に対して送ってしまう絵づくりだったと思います。
 それに、橋下さんという人も非常にうまくて、厳しく突っ込まれて普通ならタジタジになるところを、にやにや笑ってみたりするでしょう。そうすると突っ込んでるほうがバカに見えてしまったりする。きちんと議論を聞いてれば「なんで痛いところを突っ込まれてるのにあんなにやにやしてるんだ」と思うかもしれないけど、みんなテレビってそんなに一生懸命見ないですからね。「ながら見」をしてる人には、橋下さんが勝ってるような印象だけが伝わっちゃう。

中島  討論に負けたのではなくて、テレビの文法に負けたということなんですよね。やっぱり、見てるほうもそこの部分をもっと鍛えないといけないと思う。
 先日僕、想田さんとほとんど同じ内容のことをツイッターで書いたんですが、それは尖閣問題を扱うテレビ番組のナレーションや音楽の付け方についてなんです。尖閣諸島が画面に映るときには、必ずすごくおどろおどろしかったり、切迫感を与えるような音楽がかかる。そうした「テレビの文法」について、僕たちはもう1回ちゃんと知っておく必要があるんじゃないでしょうか。

想田  北朝鮮の指導者なども、出てくると絶対におどろおどろしい音楽がかかりますよね。ほとんどダースベイダーが出てきたみたいな(笑)。映像を作っている人間からすると、非常に違和感があるというか、やっちゃいけない線を簡単に踏み越えていると思うんだけど、そういう意見が全然聞こえてこないのは非常に問題だと思います。
 僕が子どものころのニュース映像って、すごく「退屈」だったイメージがあるんですね。ニュース映像にBGMをつけることもあまりなかったし、アナウンサーが淡々とニュースを読み上げる、という感じだった。それが、『ニュースステーション』あたりからかな、と思うんですが、ニュースに作り手、送り手の感情を交えることが普通にやられるようになって、ニュース番組が「ショー」化していった。例えば、何かニュース映像が流れた後に、キャスターの久米宏が怒ったようにペンを放り投げる。それだけで久米宏の怒りが伝わって、視聴者も同じように感じてしまう。そういう類の演出が、非常に増えていると思います。

中島  僕は、テレビの番組でも橋下さんの批判をしますけど、そのときに「反橋下」だけを言っててもなかなか共感されないんですね。でも、例えば大阪の番組で「阪神タイガース勝ちました」のニュースに「よかったですね~」とちょっとオーバーに言って、その上で話をすると、内容は同じでも「先生いいこと言ってる」と言ってもらえたりする。これは意見への共感ではなくて、画面に映っている人間のキャラへの共感ですよね。そして、この共感に言論の受容度が左右される。これは恐ろしいなと思ったし、テレビというのはこういう効用をもったメディアなんだって思いました。
 今年の自民党総裁選で、石破(茂)さんが一般の党員から支持を集めましたけど、あれも彼がバラエティ番組などに出て、芸能人と同じ目線で話をしていたからだと思います。そんなふうに、バラエティ番組に出るか出ないか、といったことが政治のアリーナになっちゃってるのが、僕が恐ろしいと思うところなんですけど。

想田  多分、世界的な現象なんでしょうね。少なくともアメリカはそうです。大統領選でも、勝敗を一番左右するのはテレビでの討論会。よく考えるとすごく変な話ですよ。討論会で負けたように見えたとしても、掲げている政策がよければそちらを選ぶのがロジカルな思考だと思うんですが、実際には討論会で「勝ったように見える」候補のほうが有利になる。しかもそれは、さっきの『朝生』の話と同じで、ほとんどは非言語的コミュニケーションによるものですよね。どっちが長けた演技者かとか、そういうことで大統領も決まっていってしまうんです。

中島  だから今、想田さんたち映像にかかわる人の重要な役割は、そうした映像に対する「リテラシー」をつくっていくことなんじゃないかと思います。僕も以前、マガジン9で「橋下徹の言論テクニックを解剖する」というコラムを書きましたけど、誰かが話しているのを聞いたり、見たりしているときに「あ、今あの手法を使ってる」ということが分かれば、つまり、メタレベルで映像を解析できる力を視聴者の側が身につけられれば、状況はだいぶ変わってくるんじゃないでしょうか。橋下さんは特にロジックの政治家ではなくて、レトリックの政治家ですから。

構成/仲藤里美 写真/マガジン9

その2へつづきます

今回の選挙をめぐる報道を見ていても、
テレビの映像や演出に隠された意図に、
私たちが流されているのでは? と感じることは多々あります。
ニュースさえも「熱狂」とともに消費され、
検証されることのないままに忘れ去られていく。
そんな状況を少しでも変えるためにはどうしたらいいのか?
そして、お2人が揃って警鐘を鳴らしてきた、
「橋下的なるもの」に対抗していくための手段は?
次回、さらに熱いトークが続きます。

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