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2011-04-20up

マガ9対談:雨宮処凜さん×中川敬さん(その1)東日本大震災と福島原発事故 私たち/僕らができることって何だろう

その1その2

3月11日に東北・関東地方を襲った大震災。福島での原発事故を含め、あまりに甚大な被害と動き続ける状況とに、押しつぶされそうな不安が広く日本を覆っています。
その中で、私たちはこれから、何を考え、どう行動していけばいいのか。16年前の阪神・淡路大震災の際、被災地でのライブ活動を続けていたミュージシャンの中川敬さん、若者の労働問題などに取り組み続けてきた作家の雨宮さん、立場は違えどともに「行動」してきたお2人に、それぞれの経験と、今の思いを語っていただきました。

雨宮処凛●あまみや・かりん  1975年北海道生まれ。作家・活動家。2000年に自伝的エッセイ『生き地獄天国』(太田出版)でデビュー。現在は新自由主義のもと、不安定さを強いられる人々「プレカリアート」問題に取り組み、取材、執筆、運動中。『反撃カルチャープレカリアートの豊かな世界』(角川文芸出版)、『雨宮処凛の「生存革命」日記』(集英社)、『プレカリアートの憂鬱』(講談社)など、著書多数。2007年に『生きさせろ!難民化する若者たち』(太田出版)でJCJ賞(日本ジャーナリスト会議賞)を受賞。オフィシャルブログ「雨宮処凛のドブさらい日記」

中川敬●なががわ・たかし 1966年生まれ。「ソウル・フラワー・ユニオン」のボーカリスト。「ニューエスト・モデル」などを経て、1993年に伊丹英子らと「ソウル・フラワー・ユニオン」を結成。世界中の音楽を精力的に取り入れた「ミクスチャー・ロックバンド」として、国内外で高い評価を得ている。また、1995年の阪神・淡路大震災の際には、アコースティック・ユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」として被災地を訪れ、避難所や仮設住宅でのライブ活動を行った。「ソウルフラワー震災基金2011」呼びかけ人の1人。

◆現地に行って、初めて「人の営み」が見えた

編集部  東北・関東大震災から2週間が経ちました(取材時)。福島の原発事故も収束する気配が見えない中、本来は被災地でなかったはずの首都圏までも、大きな不安に覆われ、私たち自身も何をしていいのか分からないまま立ちすくんでしまっているような状況が続いています。
 中川さんは16年前、阪神・淡路大震災の際に、アコースティックユニット「ソウル・フラワー・モノノケ・サミット」で被災地を回り、ライブ活動を続けておられました。もちろん、今回の震災と阪神・淡路とは被害の規模や状況も大きく違うのですが、それでもなお、当時の経験や体験を共有することで、見えてくるものもあるのではないかと思います。
 そこでまずは、当時の中川さんの経験をお聞きするところから始めたいと思うのですが…阪神・淡路大震災が起こったときは、どちらにいらしたんですか?

中川  大阪の自宅にいました。震度5で、家中にビデオやCDが散乱して、停電にもなったけど、死傷者が出るような地域ではなかったです。ただ、関西はそれまでそんなに大きい地震を経験してなかったし、当初一週間ぐらいは自分も被災者みたいな気分で、余震を怖がりながらテレビや新聞ばっかり見てましたね。
 そんな中、地震から一週間ぐらい経った頃に、ソウル・フラワー・ユニオンのメンバーの一人、伊丹英子が、「神戸へ行かへん?」って言い出して。「絶対避難所で、おじいちゃんおばあちゃんの娯楽が必要になるときが来るから、民謡とか歌いに行こう」って。「歌いに」って、「ヴォーカル、俺やん!」って思ったけど(笑)。
 それで、まずバンド・メンバー全員でミーティングをして。もちろん、中には「こんなひどい状況で、音楽をやりに行くのはどうなんや」という声もあった。でも、最終的には、とにかく呼ばれれば一回は演りに行こう、一回行ったら何かがわかるはずやっていう話になったんやね。
 それでヒデ坊(伊丹さん)が、新聞やNHK教育テレビに掲載されてたボランティア団体に片っ端から連絡を取り始めた。「ロック・ミュージシャンなんですけど、民謡とかできるんで、娯楽が必要になったら連絡をください」みたいな。で、とにかく、俺は猛練習を開始した(笑)。

雨宮  練習、されたんですか? 

中川  まず被災地は当初ライフラインが寸断されてたし、電気や場所に頼らずに、基本的にみんなで共有出来る音楽、民謡や、古い流行り唄をやろう、というコンセプトがあったから。普段演奏してるのはロック・ミュージックで、オリジナル曲やからね。ちょうどその二、三年前から、沖縄のミュージシャンとセッションしたり、遊びで日本列島各地の民謡をやったりし始めてはいたし、三線も持ってはいたけど、その段階では、ライブで三線を歌いながら弾くということはまだやってなかったんよね。
 それに、普段のライブと違って、行く前は「観客の顔」が全然見えないから、選曲が難しかった。相当、心を砕いたよ。とりあえず、阪神地区は在日コリアンや沖縄出身の人が多い町もあるから、朝鮮民謡や沖縄民謡の代表的な曲は必ずやろう、と。で、朝鮮、沖縄と来たらアイヌ民謡も、もちろん当然ヤマトの民謡も。あとは<聞け万国の労働者>みたいな労働歌や、<カチューシャの唄><籠の鳥>とかの流行り唄…とレパートリーを選んでいって。結果的には、その方向性がすごくよかったんやけど。

雨宮  ミュージシャンの方だと、オリジナル曲以外をやるのには抵抗がある方もいると思うんですけど、それはなかったですか。そんな状況じゃなかった?

中川  むしろ逆やったよ。オリジナル曲ってある種「エゴのかたまり」みたいなところがあるから、それを押しつけに行くんじゃなくて、世代を超えて音楽空間を一緒に共有できる楽曲がやりたかった。「被災地に勇気を与えたいです」みたいな目線はまったくなかったし、俺らが「演奏する側」なのもたまたま、ただそこに「音楽がある」場所をつくろうやないか、と。当初のコンセプトは「演奏後は、おじいちゃんおばあちゃんと団欒する」やったし。

雨宮  最初に被災地へ行ったのは…。

中川  地震から2週間くらい経つと、だんだん「うちの避難所に来てくれ」っていう電話がかかり始めて。2月10日に、西灘の、避難所になってた青陽東養護学校へ行ったのが最初でした。
 で、メンバーと大阪から楽器車で行ったんやけど、初めは車の中でみんな、その日演奏する曲の話とかをわいわいやってたわけ。ところが、武庫川を越えて西宮市に入って、コンビニで車を駐めて下りたとき、ふと前を見たら、そこに全壊した家があって、おばあちゃんが1人で後片付けをしてたんやね。ピアノが倒れてて、阪神タイガースのメガホンが転がってて…。それを見て初めて、そこに「人の営みがあった」ことが見えてきた。2週間、テレビで被災地をずっと見てたはずやけど、画面を通してでは本当には見えてなかったんやね。衝撃的な瞬間やったよ。その時のことは鮮明に憶えてる。

◆「やっと泣けた」の言葉に「続けよう」と思った

雨宮  ライブは学校の中でやったんですか。

中川  そう。学校の踊り場みたいなところで、100人くらいを前にして。もちろんマイクも何もなしのアコースティック。で、これがむちゃくちゃ盛り上がって。<安里屋ユンタ>あたりの曲は大合唱になって。
 で、演奏が終わった後、1人のおばちゃんが近づいてきた。顔はめっちゃ笑ってるんやけど、明らかにその顔は「泣いた後」。で、「にいちゃん、ありがとうな。私な、今回の地震で家は全壊、夫も子供も死んで独りになってしもた。でも、周りもみんなそうやし、ずっと避難所でボランティアやってて、泣くのを忘れてたんよ。あんたの<アリラン>でやっと泣けたわ。ありがとうな」って、破顔で背中を思いっきり叩かれて。そのときに「続けよう」と思ったんよね。あれはほんと、一生忘れへんと思う。

雨宮  すごい経験ですね。その後、ライブは全部で何回くらいやったんですか。全部避難所で?

中川  150回くらいまでしか数えてないけど、全部で200回以上やったかな。最初は避難所で、その後は仮設住宅、障害者イベント、そして復興住宅で。初めのころは、ほとんど2日おきくらいに通ってた。距離が近かったことと、当時メジャーのレコード会社と契約してたから比較的時間にゆとりがあったんやね。
 あのころ、避難所はどこも年寄りと子供たちばっかりやったね。働き盛りの世代は、俺らが演奏する昼下がりの時間帯はみんな仕事に行ってるというのもあったと思う。で、子どもたちもずっと避難所暮らしが続いてるから、興奮してギンギンにテンション上がっててね。演奏後に「にいちゃん、サインしてー」って列が出来て、サインをする。そしたら横から「こんな売れてへんミュージシャンのサインもらってもしょうがないやろ」とか言うガキ(笑)。サングラスかけてアコーディオンを弾いてた奥野真哉(キーボード)は、子どもらに「サングラス、取ってみてー」って言われて取ったら「ほ〜ら、変な顔や〜」って爆笑。「このクソガキ!!!」って感じやったね(笑)。

雨宮  さすが関西ですね(笑)。

中川  でも、後で大人たちに聞くと、そんな感じの子どもたちが実は、夜に泣いてたりね。大人もそうやけど、やっぱりみんな、心にすごい深い傷を負っていて、そうやってはしゃぐことでなんとか気持ちを保ってたんやと思う。

雨宮  でも、子どもがいるというのはいいですよね。以前「年越し派遣村」をやったときに、「被災地の避難所と同じ光景だ」という人がたくさんいて。ただ一番の違いは、子どもがいないからシーンとしてるんですよ。被災地取材経験のある人にも「被災地に子どもがいるっていうのは、すごいことなんだよ」って言われましたね。

中川  ああ、それはやっぱり違うところやろうね。あと、子どもたちがあれだけ高揚してた理由の一つは、日常普段は疲れ切って無表情なお父さんお母さんが活き活きと地域のためにボランティア活動してる姿を子供たちが見ていたことも関係ある、という話も聞いたよ。

◆それまで信じていたものが、全部崩壊する気がした

編集部  さて、雨宮さんの体験もお聞きしていきたいのですが…阪神・淡路大震災のときはおいくつでしたか?

雨宮  20歳でした。東京にいたから、自分自身は何の被害もなかったんですけど、テレビで街が瓦礫の山になってしまった光景を見て、「こんなに一瞬で何もかもが崩壊してしまうんだ」とただただショックでしたね。「戦後日本の繁栄」的なものがすべて、一瞬で焼け野原になっちゃったような気がして。
 さらに、その2カ月後くらいにオウム事件があって、今度は戦後日本の価値観そのものが崩れた気がしました。物質主義と拝金主義じゃもう駄目なんだよ、というメッセージに思えたというか。学校で教えられていたこと、それまで信じていたものが何もかもウソになっていく、みたいな感覚は確実にありました。その意味で、あの95年というのは、自分の中ですごく大きな年でしたね。

中川  右翼団体に入る前?

雨宮  はい。逆に、あのふたつの出来事があったから右翼に入っちゃったという感じです。今、自分の立っている足下だっていつ崩れるかわからない、それまで自分の周りにあった物質主義とか拝金主義的な価値観もバブル崩壊で怪しくなっているところにそういうものを根本から否定するオウムが現れた。これからの時代は本気で政治とか社会のことを考えないと生きていけないんじゃないか、と思って。で、どうやら右翼とか左翼という人たちがいるらしいと(笑)いう知識はあったんですよね。
 ただ、どっちがどっちかは全然区別がついていなかったので、知人に最初は左翼の集会に連れて行ってもらったんです。でも、そこで話されていることが、専門用語だらけで難しくて全然わからなかった(笑)。ところが、その後右翼の集会に行ったら今度はすごくわかりやすかったんです。それも、たまたま「物質主義と拝金主義の日本で、若者が生きづらいのは当たり前だ」みたいなことが話されていて。
 そんなふうに、戦後50年を迎えた日本でどんどんいろいろなものが崩れていく中、『学校で教えてくれない靖国史観』的なものがすんなり入ってくる土壌ができていたのかもしれません。何があってもひっくり返らないのは天皇くらいしかないんじゃないかと思えたりとか…実際、私がいた団体にも当時、同じような若者がたくさん入ってきていたし、「95年ショック」を経て、行き場のない底辺の若者たちが「右翼へ行く」必然性は、今振り返ればちょっとあったのかなと思います。

中川  今考えれば、95年というのはたしかにそういう年。日本社会が大きく変わった分水嶺やったね。
 被災地では、固くなった一個のお握りをみんなで分け合うというような光景が日常にあり、その一方で、オウム事件を通じて、他者を信用しない、疑心暗鬼な空気が生まれて、管理社会のほうへどんどん社会全体が舵を切っていった。そういう分かれ目の年やったね。

雨宮  「右傾化」といわれた現象も、その後にすごく広がった感じがしています。
 経済的にもちょうど停滞が始まっていたころで、私もフリーターにしかなれなかったし、時給はどんどん下がっていくし、「頑張ったら報われる」というそれまでの価値観も、全部ウソになってしまった気がしたんですよね。

中川  そう。俺が10代後半やった80年代あたりの頃までは、どこかにぼんやりとした希望みたいなものがあって、永遠にこのまま「右肩上がり」というような幻想がやっぱりあった。
 当時、俺はバイト先の店長とケンカばっかりしてたけど、それができたのは「ここをやめても、次はあそこ」という選択肢がある時代やったからやと思う。髪の毛が紫で、おっ立ってても(笑)。今の若者には当時のような選択肢がない。その辺の団塊以上のオッサンらは、「若いやつらが牙を失った」とか簡単に言うけど、それは違う。上司にたてついたり、文句を言ったりできない状況に、彼らを、社会が追い込んでるんやね。

雨宮  そう。そして、その「右肩上がりの時代」が完全に絶たれたのが、1995年だったという気がするんです。
 そういう流れで考えると、去年くらいから「無縁社会」という言葉が流行って、「絆」とか「助け合い」が大切だと言われ始めていました。そうしてこのタイミングで今回の災害が起こったということが、何か示唆的な気がしないでもないです。こんなことを言うと、被災されている方には「なに言ってんだ」って思われてしまうかもしれませんが・・・。ただ、日本社会がすごく変わっていく契機になるのかもしれない。ちょうど、一緒に運動をしている人たちとも、日本も世界も、大きな転換点にいるという話をしていました。リーマンショックを経て、一定の人が簡単に路上に放り出されるような社会になって、そういう社会でいいのか、と多くの人が思っている。その果てにもしかしたら、更に強烈な資本主義に揺り戻ってしまう可能性もあるけれど、そうじゃなくて「助け合い」が大事だという方向性に行く可能性もある、と。私たちは今、その過程にいて、ここから10年20年かけて模索していくんだという話をしていたところだったんです。

その2へつづきます

阪神・淡路大震災とオウム事件のあった1995年は、
日本社会にとっての一つの「分水嶺」でした。
地震・津波そして原発事故に襲われた2011年もまた、
「大きな転換点」となることは必須です。
次回、今回の震災を受けてお2人が考えたこと、感じたことを、
それぞれに語っていただきます。

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