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2013-07-10up

2013参院選を前に~今、私が言いたいこと~

私たちは
「良き労働者」であらねばならないのか?
津 智

 最近の生活保護のバッシングには首をかしげてしまいます。
 生活保護とは、基本的人権だったのではないでしょうか。生存権であり、憲法25条に定められた「健康で文化的な最低限度の生活」を保障するものではなかったのでしょうか。 
 にもかかわらず、生活保護が問題になると必ずと言って良いほど「働いていないのに…」とか「働きたいけど…」という文言が出てきます。「最低限度の生活」は基本的人権なのですから、保障される条件は「人間である」という一点のみであり、働いているか働いていないかは関係ないでしょう。
 憲法25条は、ちょっと大げさに言うと、日本国民が(憲法規定の「国民」という表記について議論があることは承知していますが、ここではとりあえず置いておきます)全員「健康で文化的な最低限度の生活」を送れるよう、本来は国が保障すべきであるが、予算の都合というものがあって1億3千万の全国民に対して国家権力がお金を出すわけにはいかないので、収入がある人は恐れ入りますがご自分で最低限度の生活を賄って頂けませんか? その代わり収入がない人は国が保障しますよ。というものであると理解しているのですが、違うのでしょうか。
 そもそも国とは、民のためにあるはずです。全ての民の生命と生活を守ることが、国家権力の存在意義であるべきです。
 「働いていないのだから、色々我慢すべきだ」というバッシングの風潮は、まるで日本社会において「人間」=「良き労働者」であるかのようです。
 「憲法が認める基本的人権は全ての人間が享受できる権利ですが、ここでいう『人間』とは『良き労働者』のことですよ」
 というようです。
 ですから、働いている、つまり「良き労働者」であれば権利を認められ、生きていくことができるけれど、「良き労働者」でないのであれば権利は制限されて当然だし、最悪生きることができなくなっても仕方がないのです、と。
 「人間」にこういう条件が付いているのでしたら、バッシングも理解できます。

 「人間」=「良き労働者」。その図式は生活保護の問題だけなく、日本社会の様々な場面でも見受けられます。
 たとえば「女性」。バリバリ働く「良き労働者」であればその権利は認められます。そして、「良き労働者」をサポートする主婦であるならば限定的に権利は認められます。しかし、「良き労働者」でなく、しかも「主婦」として「良き労働者」を支えているわけでもない存在(非正規雇用の女性や母子家庭の母親、無職の単身者)は権利を制限されても仕方ありません。だって、「良き労働者」すなわち「人間」ではないのですから。

 また、「障がい者」もそうです。「障がい者」とは、「良き労働者」になるためには「障がい」がある人たちのことだと言わんばかりです。「人間」=「良き労働者」である以上、「障がい者」は「人間」として認められるあらゆる権利を制限されることに耐えねばならない。それどころか、社会から排除されても仕方がない。と。
 憲法11条の基本的人権も13条の幸福追求権も26条の教育を受ける権利どころか25条の生存権ですら、日本では「良き労働者」のためのものであり、「障がい者」には認められないようです。
 その直近の例が今年4月から日本でも受診可能となった新型出生前診断でしょう。
 産まれてくる子どものためにできるだけ良い環境を整えておきたい、という親心は理解できますし、それぞれの個々の家庭の事情もあるでしょう。しかし、出生前診断とセットのように中絶の可能性が語られる様を眺めていると、日本社会は「良き労働者」とならない可能性がある者は産まれてくることすらできない社会なのだ、と思わずにはいられません。

 たとえ中絶されず無事に産まれてきても、十分ではありません。日本社会は子どもたちを「良き労働者」、すなわち「人間」になれるかどうか選別していきます。子どもたちは「子ども」であるだけでは不十分なのです。子どもは「将来『良き労働者』になる存在」でなければいけません。それが一方では早期教育をはじめとするエリート教育の激化であり、一方では少年法の厳罰化の風潮として表れています。
 非行少年・非行少女たちはしばしば「『ろくな大人』にならない」と言われます。誰でも10代のころに多少のやんちゃをした記憶はあると思うのですが、「まぁ、若いころは無茶もするよね」という寛容さはどんどんなくなってきているように感じます。子どものころに罪を犯すような人間は「ろくな大人」=「良き労働者」にならない。だから社会から排除してもかまわない。一生刑務所に閉じ込めておけ。それも税金がかかるから、いっそのこと死刑にしてしまえ。と、露骨に排除が語られます。

 こうして「良き労働者」でない人たちを次々と社会から排除する一方、要求される「良き労働者」としての水準もとんでもなく高くなっているようです。
 本当は、「女性」も「障がい者」も「犯罪者」も、社会がちょっと手間と気遣いとコストをかければ、働くことで社会参加して賃金を得ることはできるのです。けれども、その手間も気遣いもコストもなかなか与えられません。
 なぜなら、「良き労働者」とは第一に「コストがかからないこと」が条件だからです。最近言われる「ブラック企業」が典型的ですが、日本市場が要求する「良き労働者」のイメージはもはや人間離れしています。
 すなわち、「良き労働者」とは「コストが低く、権利を主張したりせず、1日24時間1年365日働き、眠ったり疲れたり病気になったりせず、ミスもせず、創造的でかつ会社に従順で、教育しなくても即戦力として初日から完璧に仕事ができる」存在でなければならないようです。
 とても無理だと思うのですが、努力せねばなりません。努力して「良き労働者」にならなければ「人間」として認められませんし、そうすれば権利が制限されても文句は言えません。最悪社会から排除されますが、仕方がありません。努力が足りないのは自己責任です。

 一方で極めてハードルの高い「良き労働者」の姿を要求し、できない場合は権利を次々と剥奪していく。
 こんな社会、しんどくありませんか?

 少子化が問題になっていますが、当然でしょう。こんな過酷な社会に誰が可愛いわが子を放り込みたいものですか。現代の日本社会で、産まれてくる我が子に幸せな人生を手渡したいのであれば、「産まない」という選択肢が最善のように思えます。憲法13条の「幸福追求権」ですら、「良き労働者」にならなければ認められないでしょう。「幸せになりたい」と言うことすら許されないのです。
 今年の3月で、生活保護受給者数は11カ月連続過去最多となったそうです。つまり、「働いていないくせに」と人間扱いされなくても我慢しなければいけない人たちが過去最多。「いや、働いていますよ」「働きたいんですよ」と言い訳をしなければ生きていけない人たちが過去最多、というわけです。はたして、「生きる」ということは言い訳をせねばならないようなことなのでしょうか。

 そろそろ、「人間」=「良き労働者」という構図を壊す頃ではないでしょうか。
 一体いつから「人間」=「良き労働者」なんていう構図ができてしまったのでしょうか。「働かざる者食うべからず」と言うけれども、一方では民話の「三年寝太郎」のように日本社会には働いていない人も許容するような土壌があったはずです。その寛容さはどこへ失ってしまったのでしょうか。いつまで私たちはこんな「人間」=「良き労働者」という構図に従わなくてはならないのでしょうか。憲法のどこにも、「国民は『良き労働者』でなくてはならない」などとは書かれていません。そろそろ、「人間」=「良き労働者」という構図を壊す頃ではないでしょうか。

 「働いていないのに…」と言われた時、「だからどうした」と言ってみてはいかがでしょう。
 「私は『良き労働者』ではない。だからどうした。私は『人間』だ」
 「私は『人間』だ。だから憲法に書かれてある全ての基本的人権を私は享受できる」
 と。
 そしてもう一言付け加えましょう。
 「あなたも『人間』だ」
 と。
 憲法を読んだことのない人は結構多そうです。そして、今の日本社会の中で、自分の持っている権利を知らない人、自分の権利を侵害されていることに気づいていない人も、結構多いようです。
 ですから、
 「あなたも『人間』だ。だから憲法に書かれてある全ての基本的人権はあなたも享受できる」
 と言って、それから自分たちがどんな権利が認められているか、一緒に憲法を読んでみる、ということを試みてはいかがでしょうか。
 それはバッシングへのカウンターとしても、素敵なやり方だと思うのです。

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