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2012-08-01up

この人に聞きたい

岩佐十良さんに聞いた(その1)

東京を離れて得た新しい価値観と満足

雑誌『自遊人』編集長及び(株)自遊人 代表取締役の岩佐十良さんは、「メディアは発信する情報に最後まで責任を持つべき」を企業理念に掲げ、出版業だけでなく、自社の田んぼを管理し、栽培や食品の企画・仕入れ・販売なども行ってきました。岩佐さんは、なぜ9年前に移住を決めたのでしょうか? 日本の米どころ魚沼に暮らし、日本の農業の将来をどう思い描いていたのでしょうか? そして迎えた3・11は? などについてお伺いしました。

いわさ・とおる
1967年東京生まれ。武蔵野美術大学卒業後、編集プロダクションを立ち上げ、1999年に「食と旅」をテーマにした雑誌『自遊人』を立ち上げる。創刊15年目の2004年に、東京・日本橋から新潟県南魚沼市に会社を移転し、米作りを始める。現在は株式会社自遊人代表取締役、日本全国の「本物の食品」を販売するショッピングモール「オーガニック・エクスプレス」運営責任者、農業生産法人「自遊人ファーム」代表。株式会社「膳」取締役。著書に『一度は泊まりたい有名宿 覆面訪問記』(角川マーケティング)、『実録!「米作」農業入門』(講談社)。

9年前、東京から新潟県魚沼市へ移住した理由
編集部

 岩佐さんは2004年の8月に新潟県魚沼に飛び込んでいかれました。住居だけでなく会社や編集部もまるごと魚沼に移転されたことで、当時、業界でも話題になりました。そもそもなぜ移住されたのですか?

岩佐

 端的に言えば、僕らの価値観が東京には見いだせなくなったからです。当時僕らは、それなりに裕福な生活をしていました。2000年に雑誌『自遊人』を創刊し、02年あたりは売り上げ部数を大きく伸ばし同ジャンルの雑誌としては、小学館が出していた『サライ』につぐ2位の部数を誇っていました。広告の収入も順調に伸びていました。でも僕らが考えていた「本当の豊かな暮らし」は、これじゃないぞという感じがずっとつきまとっていたのです。

編集部

 というのは?

岩佐

 制作プロダクションを立ち上げた当初は、とにかく来た仕事はなんでもやる、言われたことは何でもやると決めてやってきました。会社としてある程度の力が蓄えられた創業10年目で、僕らの考える価値観の詰まった雑誌を一から創ろうと出したのが『自遊人』だったのです。
 当時の雑誌のコンセプトは「本物の旅と食を追求する」。いわゆるいい宿に泊まって、おいしいご飯を食べて…なわけです。でもね、人間の欲望はとどまるところを知らないんですね。お金がいくらあっても足りなくなる、というか満足感を得られない。2003年頃、僕が1人で使う食費は、多い時で月に数十万ぐらいになっていた。でもぜんぜん「豊かだな」という満足感が得られなくなっていたんです。
 確かに昔のプロダクション時代からしたら、「夢のような生活」です。年収も何倍にも増えていた。でも豊かな気持ちになるのは一瞬で、もっともっとお金が欲しくなる。より広いマンションに住みたくなるし、車もいいものに乗りたくなるし、食費だって一流レストランに毎日行くのであれば、一日3万でも4万でも欲しくなる。

 お金がいくらあっても満足できない生活。果たしてこれって正しいのかな? と思うようになっていた。それに当然メタボにもなるわけです。猛烈に忙しいから運動不足でストレスがたまって不健康にもなる。とにかくこんな生活はやめたい、そのためには一刻も早く東京を抜け出したい、そう思っていました。

 でも当時この話を周りの人にしたら、完全に「変人」扱いになるので、これは話の脇において「日本の一流どころの米作りを勉強したいと思ってね」と言ってました。どちらかというと米作りは趣味に近かったのですが。で、2年ぐらい東京を離れようと思って魚沼に行ったところ、ズブズブとすっかり入り込んでしまい、今に至るという状況です。

編集部

 東京に住みつつ、ライフスタイルや価値観を変えることは難しかったのでしょうか?

岩佐

 人間ってやはり弱いですから、同じ場所や環境の中にいたらなかなか難しいでしょう。当時は、簡単に言えばもう全部切りたかったんです。しかしそれはできない。僕もスタッフも生活ができなくなっちゃいますからね。それで、生活やオフィスの環境だけ変えて、仕事はそのまま継続できるように、移住という選択をしたのです。

編集部

 2年の予定が「ズブズブと入り込んでいった」のは、なぜでしょうか? 今年でもう9年目ですね。

岩佐

 行ってすぐに、これまでのことが全部ばかばかしくなりました。これまで自分は何のためにあんなにがむしゃらに働いてきたのかな、と。そう思った理由というのが、本当に単純なことなのですが、空気がいいとか、水がおいしいとか、ダイナミックな四季の移り変わりを目にすることができるとか。春夏秋冬って言いますが、景色は毎日変わっていくんですよね。雪が山頂からだんだん降りてくる、溶けて川になる、草木が芽吹く、花が咲く。命のダイナミズムを生で、ライブで日々目の当たりにすることができる。それを見ているだけでうれしくなるし、生活に張りが出てくる。それで東京にはもう戻れなくなりました。

編集部

 そこには、お金は介していないですね。

岩佐

 お金はまったく関係ないですね。これらは全部ただですから。それに収入面で言えば、すぐに半分から1/3ぐらいに減りましたが、満足感は逆に大きくなりました。というかそれまでとは比較にならなかったですね。もちろん移住して最初の1、2年はいろんな外野の声がありましたから、少しは気になりました。東京にいる友人や仕事仲間から、「地方で雑誌なんて創れるわけない」、「あいつも焼きがまわったな」、「(しがらみを)捨てたんだな」とか、いろんなこと言われましたから。でも4年たつと、まったく気にならなくなっていました。僕らはこの価値観でいくんだから、言いたい人には言わせておけば…という感じで踏ん切りがつきましたね。

魚沼での米作りにチャレンジして見えてきたこと
編集部

 自らもやってみたいと飛び込んで行った魚沼の米作りの方はどうでしたか?

岩佐

 魚沼は国産米のトップブランドというイメージがあり、そこの米作りを学ぶぞ、と思って行ったのですが、実際に現地に入ってみるとブランドは揺らいでおり、トップの地位にはぎりぎりのところで踏みとどまっているように見えました。一方で福島や山形の米農家さんが、すごく米作りをがんばっていることもわかりました。

編集部

 トップブランドの地位をかけて、各地の米どころで競争があったわけですか?

岩佐

 そうですね。でも、トップブランドの地位ということで言えば、福島の米農家さんは魚沼を抜きたいと思っていたのかもしれないけれど、競争によって魚沼の米価がくずれてしまうと、結局は福島の米価も上がっていかない。日本の場合、お米が足りないわけでもないし、消費者の米離れはやはり続いていますからね。だからそういう価格競争をやっていても、下のピラミッドが広がるばかりで、美味しいお米を作っている米農家さんを守ることにはならないだろうな、と思いました。
 実際問題、美味しいお米ができている地域の農家さんは、本当に手間暇かけて作っています。だからお米の値段はむしろ適正な価格になるように引き上げなければならないのでは? そう思うようになりました。「魚沼産こしひかりが美味しい」、というだけでなくて、その中でも特に美味しいお米を作っている生産者の名前をブランドにしていく。福島でも山形でも同じようなことをする。こうしたことが、日本のトップクラスの米価の適正価格を維持することにつながるのではないか。そんなことを考えるようになりました。

編集部

 米作りを学びながら、現地に入ってからこそ見えてきたことですね。他にも何か気になった問題点はありましたか?

岩佐

 いわゆる農村の高齢化の問題ですね。農村に若者を呼び戻すためにはどうしたらいいのか? という話もよく聞きました。農村のインフラを整え、りっぱな施設を作る、という政策もありますが、そういうことよりもまず、ちゃんと農業専業で自立した生活ができて、友達にも自慢ができること。そういう環境があれば、外に出ていった若者も戻ってきますよ。
 そのためにも、米農家をやっている親父を有名にして、外からの評価がちゃんと見えるようになり、お米も適正な価格で売られるようになることが大事だと思ったのです。そうなると息子さんもちゃんと考えるわけですよ。
 そしてこれは、雑誌というメディアをもっていて、食品の流通・販売もやっている僕らができることだと思ったんです。そのためには、米作りについても、きちんと学ぶ必要があったわけです。じゃないと地元の皆さんに対して、説得力が持てませんからね。

編集部

 しかしそういったことは、地元の農協がこれまでやってきたことではないでしょうか?

岩佐

 農協は生産者の「スター」を作ったりはしません。全体をボトムアップしていくのが彼らの仕事で、地域みんなで一緒にまとまってやっていきましょう、というのが農協の方針ですから。それはそれで大事なことです。だから、僕らは農協さんができないことをやろうとしたのです。僕らは日本の米価の値崩れが起きないように、トップを引き上げたいと考えたのです。

編集部

 そうすると、ある地域の中で農協にも属しながら、岩佐さんとも一緒にやっていく生産者ができるわけですね。ブランドに認定された生産者さんは、他からやっかみをうけたりすることは、ないんでしょうか?

岩佐

 それはないでしょう。僕らは、農業生産法人を魚沼で初めて作ったということで、地元の人からは「外資」という呼ばれ方をしていましたから、ちょっと変わったことをする外から来た人たち、という見られ方はされていたと思いますが。僕らも、最終的には魚沼の地域全体が良くなっていかないと、意味がないと思っているし、がんばっている人だけ救えばいい、という考えは持っていませんから。

編集部

 なるほど。それにしても「外資」ですか?

岩佐

 「米」は日本の食糧ですから、従来からとても保守的で閉鎖的な環境にあるものなんです。例えば、米農家は、外国人研修生の受け入れをしていません。制度がないのです。日本の稲作制度は守らなくてはいけないもの、という考えからのことでしょう。僕も日本の米は、守らなくてはいけないと思っていますよ。だから市場の安売り競争の中で、値崩れを起こしてほしくないのです。そうなると、どうしても米づくりが雑になってしまう。当然お米の味も落ちます。

編集部

 でも米の輸入が自由化されたら、安い輸入米がどっと日本市場に入ってきますよね。

岩佐

 僕はそうなったら、逆においしいお米を日本から世界に輸出していくべきだと思っていました。日本の米は、抜群に旨いんですよ。確かにカリフォルニアで作っている「こしひかり」もそこそこには美味しいけれど、新潟、福島、山形で作られている米は、他の地域でそう簡単に作ることができない高品質の米です。特に福島は、有機栽培の技術も圧倒的に進んでいます。日本食ブームも背景にあるので、寿司だけでなく、「おにぎり」を輸出したいと考えていました。日本のお米の一番のポイントはあのもちもち感で、冷えてもおいしいところです。
 TPPの是非の議論もあるけれど、いつかはいやがおうでも市場は開放される。ならばその時には日本の美味しいお米を、海外への輸出品として打って出る。それは、日本の米価の値崩れを防ぐことにつながるはずだ。その時に日本の食糧基地になるのは、間違いなく新潟、福島、山形を中心とした東北だろう。そういったことを、自分たちも米作りをしながらいろいろ考えて、仕組みづくりもやってきたわけです。その下準備の最中に3・11が起こったのです。当然、これらの計画は、すべて吹っ飛びました。

ロンドンのテレビの前で、
絶望感のただ中にいた3・11
編集部

 3・11は、どちらでどのように受けとめたのでしょうか?

岩佐

 ちょうどロンドンの食品見本市に参加するため、出張に出ていました。震災直後から、ヨーロッパでは原発事故を含め非常にシビアに報道をしていました。それを毎日見ていたというのもありますが、ただただ「絶望」でしたね。日本にいるスタッフに連絡をして、オーダーを受けたものはとにかく全部出して、被災地への応援物資も倉庫にあるだけ出して、3月17日に事務所を閉めました。原発事故の最悪の場合を想定したので、新潟と東京にいた従業員には全員避難指示を出し、海外に出られる人間は出て、国内にとどまる者もとにかく西に逃げなさいと。そのぐらい絶望していました。

 自分たちがこれまで一生懸命にやってきたこと、日本の米のブランドを守るとか、魚沼のブランドを高める、なんてことを遥かに超越したものがそこにありました。すなわち、このまま日本という国家が破綻してしまうのではないか、ということです。
 ロンドンで、15日に福島第一原発の三号機の建屋が爆発する映像を見た時、東日本全域で手がつけられない状況になったら、僕も日本にはこのまま戻れないかもしれないし、今そこに暮らしている日本人を、世界の人はどのぐらい受け入れてくれるのだろうか。海外に日本人はたくさん住んでいるけれど、それもほとんどの人たちは、国籍は日本で、結局は日本に依存して仕事も生活もしている。でも日本という国がなくなったら、「難民」として世界のどこかで生きていかなくてはならならなくなったら…いったいどれほどに虐げられて辛い生活になるのだろうか、それも私たちだけでなく、何代もの子孫にわたってそうなるかもしれない。…と、そこまで考えたわけです。

編集部

 今までSF映画でしか見たことのないようなことが現実に起こり、映画『日本沈没』のラストシーンを、私も思い起こしました。

岩佐

 国家滅亡が、あんなもの一つのために、起きてしまう可能性があるんですからね。でも結果的には、とりあえず日本国はまだあるし、僕らは難民にはならなくてすんだ。だからこれから日本でやれること、できることは何かあるんじゃないか。そこは前を向いて考えていきたいと思っています。

(構成・塚田壽子 写真・小城崇史)

その2へつづきます

「日本の米は抜群にうまい。新潟、福島、山形で作られている米は、他の場所でそう簡単に作ることができない高品質の米。特に福島は有機栽培の技術が圧倒的に進んでいる」そう淡々と話す岩佐さんですが、3・11によって引き起こされた様々な困難を考えると、伺っているこちらの側に悔しさがあふれ出てきました。「最悪中の最悪は免れたのだから、前を向いてこれから何ができるかを考えていきたい」という岩佐さん。次回は、原発事故が起きた現状をどう考えるのか、これからの日本社会をどう考えていくのか、についてお話を伺っています。お楽しみに。

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