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2013-07-10up

この人に聞きたい

武藤類子さんに聞いた(その2)

「福島の問題」として
封じ込められないために

福島第一原発事故における法的責任を追及するため、「福島原発告訴団」を立ち上げた武藤類子さん。ご自身の生活も、原発事故の前と後とでは大きく変わってしまったといいます。まるで事故が「終わったこと」であるかのように、再稼働などの動きが活発化する一方で、福島では何が起こっているのか? お話を伺いました。

武藤類子(むとう・るいこ)
1953年福島県生まれ。福島県三春町在住。和光大学卒業、版下職人、養護学校教員を経て、2003年に里山喫茶「燦(きらら)」を開店。チェルノブイリ原発事故を機に反原発運動にかかわる。現在、「ハイロアクション福島」事務局、福島原発告訴団団長。著書に『福島からあなたへ』(大月書店)がある。

原発事故で奪われた「自然と調和した暮らし」
編集部

 武藤さんご自身のことについても、もう少しお話をお聞かせください。原発事故の前は、福島で喫茶店を経営されていたのですね。

武藤

 自然と調和した自給的な暮らしがしてみたくて、2003年に福島県の三春町に、里山喫茶「燦(きらら)」をオープンさせました。もちろん、完全な自給自足は難しいけれど、まずは「自分の力で何かをつくる」ということがしたくて、川沿いの雑木林を自分たちで開墾して。建物も自分たちで建てました。
 独立型のソーラー発電システムを備え付け、薪や炭も使って、使用するエネルギーを抑える。食べるものも季節の山の幸や小さな畑の作物、山で拾ってきたどんぐりをカレーにしたり、野草を摘んでお茶を作ったり…。そういう暮らしを通じて、訪れてくれるお客さんに「自分たちの暮らしをもう1回考え直そう」と提案するための場所でした。遠くの大都市圏から来てくださる方もいました。

編集部

 それと並行して、脱原発の活動にも取り組んでおられた。

武藤

 チェルノブイリの原発事故を機に、いろいろ文献などを読んで調べるうちに、原発というのは「人の犠牲の上に成り立つ発電システム」だということに気づいたんです。事故が起きなくても、ウラン採掘の時点で被曝者を生み出すし、年に1回の定期検査も作業員の被曝が前提になっている。それで、地元の仲間たちと「脱原発福島ネットワーク」を立ち上げて活動するほか、3・11の直前には、稼働から40年を迎える福島第一原発の廃炉を求めて「ハイロアクション」という運動も新たに立ち上げようとしていました。「燦」でも、原発に関する勉強会などを開いていました。

編集部

 しかし、そこで原発事故が起こって…。お店は今、どうなっているのですか?

武藤

 三春町の空間線量は福島県の中では低いほうなのですが、以前のように家の周りでとれるものを食べることはできなくなりました。飼っていたミツバチの蜂蜜からも、それほど高濃度ではないものの放射性物質が検出されて。薪も使えなくなったので、冬は石油ストーブを使うようになりました。
 そういう状況ですから、少なくとも同じ場所での再建は難しいと判断して、今年4月26日に廃業届を出しました。この日は開業から10年目の日だったのですが、1986年にチェルノブイリの事故が起こった日でもあります。「チェルノブイリを忘れないように」と、その日を開業の日に選んだので…。その同じ日に、今度は廃業届を出すということになってしまったわけですが、ここからはまた、何か違う生き方をするしかないな、と考えています。

2年前に書いたことが、どんどん現実化している
編集部

 一昨年の「さようなら原発5万人集会」でのスピーチには、「真実は隠されるのだ/国は国民を守らないのだ/事故はいまだに終わらないのだ…」といった、情報を国民に公開せず、被曝や健康被害を防ぐための十分な措置さえ取らない政府への、強い怒りの言葉もありました。それについては今、どのようにお考えですか?

武藤

 先日、改めて読み返してみて、書いたことがどんどん現実化している、と愕然としました。
 マスメディアでの報道は減ってきてしまったけれど、福島の原発事故は、まだ何も終わっていません。核燃料を冷却するために、水をジャージャーかけ続けているだけ。それによって発生する汚染水を保管するスペースが足りなくなって、海に流そうという話にもなっている。そして、その中でおびただしい被曝をしながら働いている作業員がいて、その6割は福島県民だとも言われています。

編集部

 政府は「復興を加速するため」として、除染にも力を注いでいますが…。

武藤

 莫大なお金が投入されて、県外から大手ゼネコンが入ってきて、あちこちで進められていますね。でも、その除染で剥ぎ取った土をどこに持って行くかはまだ決まっていない。とりあえずはフレコンバッグ(フレキシブルコンテナバッグ)と呼ばれる袋に詰めるんですけど、それを持って行く場所がないんですね。しかたなく住民はの家の敷地に置くのですが、家からはなるべく遠くに置きたい。だから家の敷地ギリギリ、道路沿いにずらっとバッグが並べられています。でも、そこが子どもたちの通学路になっていたりもして…フレコンバッグのすぐそばに線量計を置いてみたら、毎時2マイクロシーベルトくらいある場合もあるんですよ。

編集部

 そもそも除染に効果があるのか、という疑問の声もありますが、それ以前の問題ですね。

武藤

 そのほかにも、私たちからすると納得できないさまざまな計画が「復興」の名の下で進められています。例えば、県の南部にある東白川郡鮫川村というところに建設されている、焼却実証実験炉。稲藁などを焼却して体積を減らす実験をするというのですが、1キロあたり8000ベクレル以上のものが焼却されます。そもそも、鮫川村は県内では放射線量の低いところですし、湧き水が豊富でいわき市などの水源地にもなっているところ。そこにそんな焼却炉を建設するというのはどうなのか…。
 それも、住民には何の説明もないまま、水面下で計画が進められていて。住民が計画を知ったときには、もう建物の基礎も打たれているような状態だったといいます。しかも、1時間に200キロ以上の焼却処理をする焼却炉を建設する場合には環境アセスメントが必要になるのですが、環境省は「1時間あたり199キロ」という形で申請をして、アセスも行わなかった。通常、悪徳業者が「アセス逃れ」のためにやるような手口です。

編集部

 それを国がやってしまう…。

武藤

 すでに住民の反対を押し切って焼却炉が設置され、焼却が始まろうとしています。そのほかにも、私が暮らす三春町でもIAEAが常駐する研究・広報機関の「環境創造センター」の建設が予定されていたりと、除染や廃棄物処理に関する研究施設などの建設計画がいくつか進んでいます。巨額の復興予算がついたために、そうしたハコモノ計画が次々に持ち上がってきたようなんですね。それによって儲かるのは、地元企業ではなくて県外から来る大手ゼネコンなのですが…。
 一方で、福島県は2020年までに原発事故による避難者をゼロにするという方針を打ち出していて、それに伴って避難している人への支援策が次々に打ち切られている。家族が県外と県内に分かれて住んでいたけれど、経済面で立ちゆかなくなって戻ってこられた方もたくさんいます。

編集部

 警戒区域の再編も進んでいますね。もちろん、県内で暮らしたい、帰れるのは嬉しいという方もたくさんいらっしゃるでしょうが…。

武藤

 もちろん年配の方など、違う土地で暮らしたくないという人もいるでしょうし、いろんな考え方の人がいます。だからこそ、どちらを選んでも――避難しても、とどまっても救われる、きちんと暮らしていけるような施策を望みたいです。
 今、「復興」という言葉があちこちで叫ばれて、「復興ムード」が漂っているという現実も福島にはあります。観光協会が「風評被害を吹っ飛ばして、観光客を呼び込もう」と呼びかけたり、林業の復興のために森林の除染をやろうとしている方たちがいたり…。それは難しいのでは、と思う一方、もちろん住んでいる人たちの暮らしを成り立たせることも大事ですし、状況はとても複雑です。何より、周りの人と立場や意見が違うだけでなかなかものが言えない雰囲気があること、事故から2年が経ってそれがますます強くなっていることが、非常に問題だと思っています。

生き抜いてきた沖縄の「強さ」に勇気づけられた
編集部

 さて、武藤さんは告訴団の活動で全国各地を飛び回られていますが、今年の春には初めて沖縄にも行かれたそうですね。沖縄も昨年来、オスプレイ配備などをめぐって激しく状況が揺れ動いていますが、訪れてみての感想を最後にお聞かせください。

武藤

 これまで、観光などでしか行ったことがなかったのですが、今回は地元の方に案内していただいて、普天間基地やその移設先とされている辺野古、米軍ヘリパッド建設が進む北部の高江、米海兵隊の飛行場がある伊江島なども訪れることができました。とても濃い旅で、自分の中でもうまく消化し切れていないのですが、考えることがたくさんありました。
 沖縄の中で米軍基地の占める割合の大きさも改めて実感しましたし、高江ではちょうど、オスプレイが低空飛行しているところに遭遇して…。これまで基地問題などに関心がなかったわけではないけれど、現地に行って、その土地の人たちと話をしないとわからないことがたくさんある、と実感しました。

編集部

 行って、話をしてみないとわからないことがたくさんある。それは、福島にも共通することかもしれません。

武藤

 そうなんだと思います。ともすれば「沖縄の問題」「福島の問題」として封じ込められてしまいがちな点も同じだと思いますし、どちらも「国策」としてやられている、国を相手に闘わなくてはならない、という点も共通項だと感じました。
 それだけに、ずっと闘い続けてきた人たちの話を聞いて、たくさんの苦しみを経ながらも、それでも生き続けてきた沖縄の「強さ」に触れたことで、力づけられる思いがしました。私たちも生き延びていかなきゃ、と強く思いましたね。
 沖縄の闘いの歴史を見ていても、私たちが生きている間に世界中の原発がなくなることは、もしかしたらないのかもしれない、と思うことがあります。チェルノブイリの事故のときだって、世界的に反原発の運動は盛り上がったけれど、時間とともにそれは低迷していった。でも、そこでふるいにかかったように、原発反対の運動を続けている人たちがいるわけです。今回の事故についてもそうでしょう。
 ほんの少しずつでも、やっぱり人は進化していくと思うのです。だから、一挙に何かが変わって、すぐに原発がなくなるなんてことはないとしても、せめて私たちがこれからどちらの方向を向いて生きていくのかという道筋はつけたいと願います。そのために、私たちは今、声をあげ続けなくてはならないのだと考えています。

←その1

(構成/仲藤里美 写真/吉崎貴幸)

福島第一原発作業員へのインタビューを紹介してくれている、
今週の雨宮処凛さんコラムを読んでも、
原発事故は、まだ何も終わっていないことを痛感させられます。
「終わったことにしよう」という動きに抗い、
「これから」の道筋を見出す。
それが、原発のある社会をつくってきてしまった私たちの、
最低限の果たすべき役割なのではないでしょうか。
武藤さん、ありがとうございました。

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