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2011-05-11up

【被災地とつながる】#03: 南相馬→二本松→東京へと避難したある夫婦の話

渥美京子●あつみ・きょうこ 静岡県に生まれる。労働問題の専門出版社、雑誌記者などを経てフリーランスに。夫と中学生の息子と東京に暮らす。原発爆発後、まず考えたのは「子どもを連れて西に避難したい」ということ。だが、仕事あり、(息子の)高校受験あり、故郷には浜岡原発ありで、現実的でないと断念。「福島と全国をつなぐメルマガ」をボランティアで配信中。著書に『パンを耕した男~蘇れ穀物の精』(コモンズ)など。

3月12日の朝「私ら、これから逃げます」

 大震災から一夜明けた3月12日土曜日、福島県南相馬市に住むタエコさん(59)は午前6時に起きた。余震が続き、ほとんど眠れなかった。地震で書棚や家具は倒れたが、2階建ての家に大きな被害はなかった。断水しているものの、電気とガスはつながっていた。散乱した食器や本の片付けをした後は、二本松市に一人で住む母を訪ねるつもりでいた。
 台所で朝食のしたくをしながら、リビングにおいたテレビから流れるNHKのニュースに耳を傾けていた。午前7時、ニュースは大津波による被害を伝えている。何かのタイミングでアナウンサーが「福島第一原発で…」と言葉を発した。瞬間的に、
 「(放射能が)漏れる」と思った。
 2人の家は原発から約22キロ地点にある。
 「お父さん、逃げるよ」と夫のケンイチさん(64)に伝えた。
 「そんなにあわてなくても…。避難指示が出てからでいいんでないか」
 「信用できない」
 妻の勢いに押される形で、ケンイチさんも立ち上がった。
 通帳、病院の診察券、年金手帳、保険証券など貴重品と、数日分の着替えを鞄につめた。
 外に出ると、「NHK」の腕章をつけた男性3人が家の前を歩いていた。
 「この辺り、被害はどうですか?」と尋ねられた。
 「私ら、これから逃げます」と告げると、記者は驚いた顔をした。〈避難指示も出ていないのに、なぜ?〉と思っているように見えた。
 「だって、原発なんか信用できないから」と言うと、記者の一人は「そうなんですか」と答えた。
 午前9時前には車を出し、母の住む二本松市に向かった。その時点で避難する人は少なく、道はすいていた。

 二本松市は福島市の南に位置する。浜通りといわれる沿岸部から、中通りにある二本松市まで車で約1時間半。原発から60キロ以上離れている。昼前に二本松についた2人は「ここまで来れば大丈夫だろう」と安心した。
 翌日からは、原発に近い浪江町の住民が続々と避難してきた。市内の公共施設には避難が遅れた人たちがヘリコプターで運ばれ、放射能被曝のスクリーニングも行われた。タエコさんの実家は、津波で家を失った友人一家を受け入れていた。モノが不足するなかで食事のしたくなどに追われ、あわただしく時間が過ぎた。
 3月14日の午前11時、3号機が爆発した。その様子をテレビで見た。1号機の水素爆発とは違う、閃光が見え、黒煙が上方に立ち上る映像に、とてつもないことが起きているのではないかと恐怖を覚えた。その日以降、東京など県外で暮らす3人の子どもたちから連日のように、
 「ドイツ気象台の放射能拡散予報をネットでみた。二本松も危ない」
 「アメリカは自国民に対して、80キロ圏内からの避難指示を出した」
 「外国人はみんな帰国している」
 「東京に逃げてきて」
 と連絡がきた。動揺した。

 3月25日、1500ccの小型車に積めるだけの荷物を積み、母を連れ東京に住む息子が手配してくれた都内のUR賃貸住宅に向かった。農家を営み、土と親しんで生きてきた母に都会暮らしは戸惑いが多いと考え、母は静岡市清水区に住む姉夫婦の家に避難させた。

原発事故後、この道を通り避難した

地震の後、原発からいち早く避難。しかし・・・

 4月22日、私は東京に避難している2人を訪ねた。郊外にある11階建ての団地の5階の部屋は約60平米の3DK。キッチンとリビング、和室が2つある。部屋に通されると、生活雑貨含めてモノがなく、妙に壁が白く見えた。家具がほとんどないせいだと気づく。
 共に二本松市に生まれの2人は、地元で知り合い結婚した。ケンイチさんは地元の銀行に勤め、20年前に南相馬市に家を建てた。3人の子どもたちは東京をはじめ県外の大学を卒業し、そのまま他県で就職した。2人は親の介護をしながらも、ケンイチさんの定年後は年に数回、夫婦で旅行に行き、趣味の映画鑑賞を楽しむなど、穏やかに暮らしていた。
 団地の6畳ほどのリビングには、家具調コタツと大型液晶テレビがある。書棚も食器棚もない部屋で存在感を示す。4月17日に、小型トラックをレンタルして南相馬の家に行き、運んできたのだという。
 原発からいち早く、避難したわけを聞いた。
 「あれだけの大きな地震があったのに、原発が何ともないわけないと思ったから。これまでも、放射能漏れや事故はしょっちゅうあったのに、すぐ公表されたことは一度もない。ずっと黙っていて、かなり後になってから『×月×日に漏れていました。すみません』と発表する。地震がなくても、漏れていたんだから、この地震で漏れないわけがないと直感しました」(タエコさん)
 1号機の爆発は12日の午後3時36分だが、実は大震災当日から異変はあった。11日の午後9時23分には、原発から半径3キロ以内の住民に避難指示をしている。また、12日の午前5時44分には、1号機の中央制御室で放射線量が上昇し、避難指示区域を半径10キロに拡大した。しかし、この時点では半径10キロより外に住む住民に緊急事態を知らせる連絡はきていない。
 午前9時、原子力安全・保安院は格納容器内の蒸気放出を東京電力に命令し、午後2時には1号機の周辺で放射性物質のセシウムが検出されたことが判明する。
 そして午後3時36分、1号機建屋で爆発音がして白煙が上がる。多くの人は爆発後に避難を開始し、沿岸部から避難する人で道路は大渋滞した。ちなみに、福島県が官邸の指示で避難指示の範囲を半径20キロに拡大したのは午後7時になってからだ。

地域とのつながり、
友人とのつながりが絶たれるのは辛いが

 故郷への想いを聞いた。
 「あそこにはもう住めないと思っています。私らの家がある辺りの放射能濃度は、通常の基準の10倍以上。これまでの積算値を見ると、とても住める値ではない」とケンイチさん。
 「もう年なので、できれば帰りたい。でも、放射能のことを考えると怖い。実はこの9月に初孫が生まれるんです。子どもからは『お母さん、向こうに帰ったら、孫とは会えないよ。(放射性物質で汚染された地に)連れて行くことはできないから』と言われました」とタエコさん。
 地域のつながり、友人との関係が絶たれるのはつらいが、子どもたちや孫が決して来ることのない場所に住むのはもっとつらい。
 20キロ圏内は警戒区域として立ち入り禁止になったが、20キロから30キロ圏内は「緊急時避難準備区域」と曖昧な状態が続く(一部は計画的避難区域に指定)。
 今も南相馬市には3万人以上が住んでいると言われる。地元に戻れば、放射性物質による発ガンリスクが高まる。しかし、避難することで生活が崩れ、生活崩壊リスクに直面する。どちらも選べないまま、結局地元に留まらざるを得ない人がたくさんいる。具体的な解決策を示さない国に対して、こう疑問を投げかける。
 「あいまいはよくないですね。外部被曝に加えて、空気や水、食べものから内部被曝する。『直ちに健康に被害はない』っていうけど、20年後にガンになるかもしれない不安を抱えながら暮らすのは恐怖です。国が『30キロ圏内は移転してもらい、新しい環境を用意する。土地は東電が買い上げる』と決めたら、救われるのに…」と話した。

 それからも数度にわたって2人に会い、交流を深めた。2人は「自分たちはどれくらい被曝しているのか」を気にしていた。福島県がホームページ上で公表している放射能測定結果をはじめ、現状でわかる限りのデータを集め見てもらった。2人が気にしたのは15日に福島市内で計測された値と、17日以降の二本松市の値だった(17日以前の二本松市のデータはホームページ上では公表されていない)。
 「15日はすごい。福島市内でも20マイクロシーベルトを越している。ちょっと考えられない値だね。15日は二本松の値もきっと強烈に高いはずだよね。その2日後の17日でさえ、13.00マイクロシーベルトもあるんだから。がっくりだね。逃げて来たから安心、と思ったのに南相馬より高いんだもの。二本松に避難したのは、何だったの?といいたいよね」(タエコさん)
 被曝を避けて避難したはずが、放射能値がより高い方に逃げていたことへのショックは大きかった。

南相馬の海岸(この先に原発がある)

東電のしていることは憲法違反

 原発爆発からまもなく2ケ月。ゴールデンウイーク明けの9日、再び2人に会った。「今日を生きる」ことで精一杯だった時期が終わり、「将来」の不安がふくらんできているようだった。
 UR賃貸住宅の家賃は半年間は無料だが、その後は管理費込みで9万円。4ケ月後には孫が生まれるが、その時、自分たちはどこに住んでいるのか。原発のために帰ることのできない家を野ざらしにした状態で、家賃9万円を払って東京で暮らすのか。家賃を払うと、年金は残り半分。食費だけでなく交通費、通信費もかさむ東京で、どうやって暮らしていくのか。
 公的な見舞金は、福島県から5万円、赤十字から35万円。4月のうちに手続きはしたが、まだ入金されていない。東電からの100万円については5月6日にようやく申請書類が送られたばかりだ。南相馬の自宅にいればかからないはずの出費は、すでに50万円を越えた。
 「地元に残った友だちからは、被災地の避難所ではモノが余っていると聞きました。余った救援物資は『ご自由にお持ち下さい』と張り紙が出ているらしい。私らみたいに県外に避難していると、なんの救援物資ももらえない。余っているならもらいたい」
 と話すタエコさんの今の願いは「みんなバラバラになった。東京に避難してきている地元の人たちと会いたい。みんなで話して、これからのことを考えたい」
 ケンイチさんはこう語った。
 「私からすると、憲法違反だと思うんです。人の生命や財産は誰も侵害することはできない基本的人権のはずです。『避難』というのは、放射能から逃げろって意味でしょ。原発のために迫害を受けているわけだ。これまで住んでいた土地、ささやかだけれど築いてきた財産、そして健康すら脅かされている。それが永久に続くかもしれない。基本的人権の侵害だよね。東電のしていることは憲法違反。賠償だけで話をすませてはいかんと思うんです」

救援物資は送られたが、県外避難者には届かない

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定年退職され南相馬市でおだやかに暮らしていたご夫婦。
原発の危険性については、以前より独学で勉強していたため、
「異変」に気がついた時には、すぐさま「避難」を考えたのだそう。
今、首都圏にはたくさんの方が、福島より避難されて来ています。
その方たちがこれからどうして生きていけばいいのか? 
それは当事者だけの問題ではないはず。
まずは共有・共感の輪を広げていきたいと思います。

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