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2012-08-22up

この人に聞きたい

青井未帆さんに聞いた(その2)

憲法は、
権力と立ち向かうための
「武器」になる

今年春、自民党など三つの政党がそろって改憲案を発表。8月には、民主党が国民投票法における投票年齢の18歳引き下げ方針を表明、国民投票の実施が可能となる環境整備に向けた一歩を踏み出すなど、「改憲」をめぐる状況が、再び大きく動き出そうとしています。今出されている改憲案は、果たして何を目的としているのか? 憲法学者の青井未帆さんにお話を伺いました。

あおい・みほ
憲法学者、学習院大学法科大学院教授。 国際基督教大学教養学部社会科学科卒業。東京大学大学院法学政治学研究科修士課程修了、博士課程単位取得満期退学。成城大学法学部准教授などを経て、2011年より現職。主な研究テーマは憲法上の権利の司法的救済、憲法9条論。共著に 『憲法学の現代的論点』(有斐閣)、『論点 日本国憲法―憲法を学ぶための基礎知識』(東京法令出版)など。

「表現の自由」を恐れる国家権力
編集部

 最近、脱原発などを訴えるデモや抗議行動が、急速に規模を拡大していますが、自民党が発表した憲法改正案では、現行憲法の21条にある「表現の自由」についても「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」は認められないと明記されるなど、かなり制限が加えられる内容になっていますね。これなら、何らかの理由をつけてデモを禁止することもできるようになるかもしれない。

青井

 国家が「表現の自由」を恐れるのは、ある意味で当然のことなんですよね。国家なんて、単なるフィクションじゃないですか。たしかに国家権力って非常に強い、怖いものでもあるけれど、しょせんは観念に過ぎない。みんなが信用しなくなったらあっという間に瓦解しちゃうわけですよね。
 その「観念に過ぎないもの」が、 国民に司法サービスを提供することで、国民に対して「親を殺されても敵討ちしちゃいけない」「お金を盗まれても実力で取り戻しちゃいけない」と実力行使を禁止しているわけですが、表現の自由というのは、実力行使につながりかねない潜在的可能性を秘めているわけですから、権力にしてみれば当然怖い存在なんです。中でもデモなんて、本当に怖いと思います。大手メディアが報道しないのも国家統治の側から見れば理解できる道理でしょう。だからこそ、そうやって声をあげていくことが、私たちの自由を守るために必要なんですよね。

編集部

 その意味では、3・11以降、国民の意識はかなり変わってきたかもしれません。もちろん「憲法で保障されている権利だ」と意識している人は多くないでしょうが。

青井

 それはそれでいいんじゃないですかね。憲法って、「それがあるから」権利がある、平和や自由といった価値が守られるというものではない。そうした価値は、憲法から引き出されるものではなくて私たちがもともと持っているものだし、同時に私たち自身が常に、家庭とか職場とか社会のさまざまな場面で鍛え上げ、強化して、醸成していかなくちゃいけないものだと思うんです。憲法というのは、そこにプラスアルファの形で存在する、ある意味では単なる仕組みでしかないわけですよね。
 デモに参加する、反対の声をあげるといったことについても、憲法で保障されていようがいまいが、私たちはそういう権利を持っているんだという感覚が広がることこそが重要だと思います。ただ、その権利を権力側が否定しようとしたときに、それをひっくり返す理屈として憲法があるんですよね。権力と立ち向かうときの「武器」なんです。

編集部

 その意味では、今出てきている改憲案は、その「武器」を骨抜きにしようとしているものともいえます。

青井

 おっしゃるとおりです。「こういうものだ」と国民に思わせれば、非常に扱いやすくなるだろうし、効率的に統治ができる。そのために、表現の自由なんてものは認めるのは危ないと思っている。本当は「国に逆らうな」と言いたいんだと思いますよ。

「手続き」を踏むことの重要性を再認識しよう
編集部

 また、ここまで見てきた改憲案発表などとは別に、昨年末に官房長官談話のみで「武器輸出三原則」の緩和が決定されるなど、「改憲」の手続きを踏まずに実情を変えていこうとする動きも目立っている気がします。7月初めにも、政府の国家戦略会議が集団的自衛権の行使について、これまで「できない」としてきた政府の憲法解釈を見直すべき、とする報告書を提出しました。さらに自民党も、集団的自衛権の一部行使を可能にすることを、次期衆院選の公約に盛り込むとしています。

青井

 解釈改憲については、自民党政権のころから行なわれていて批判もずっとありましたけど、最近はそれがさらにスピードアップしていますよね。武器輸出三原則なんて、国会の閉会中に、副大臣級の会議を3回くらいやっただけで変えられてしまったわけで。
 国会を通さず、きちんとした手続きを踏まずにいろんなことが変わっていくというのは、本当にまずいと思います。日米安保条約についても、「極東」の平和維持に寄与するため米軍が日本国内の基地を使用することを認める、という「極東条項」が本来はあったわけですよね。実はそれは今も残っているんだけど、拡大解釈が重なって、いつの間にか日米安保は全世界での活動を対象とする同盟、みたいな位置づけになってしまっているでしょう。
 手続きを踏まないでどんどん変えてしまうというのは、前回お話しした「仕組みによって権力を統制して自由を守る」という、立憲主義の考え方にももとりますよね。「手続きを踏む」ということは、「自由を守る」という上ですごく重要なことですから。東日本大震災後の対応についても、政府が国会会期中にもかかわらずちゃんと法律をつくって対応しようとしなかったという話をしましたけど、かわりに行なわれていたのが「通達で対処する」ということ。でも、通達って、行政機関内部での定めに過ぎないわけですから、いくら柔軟に対処するためとはいえ、それでいいのかな? と思いました。

編集部

 改憲への動きと、改憲という手続きを踏まずに実情を変えていこうとする動きと…。やはりそこはつながっているんですね。

青井

 そう思います。さらに言えば、そうした「手続きを踏む」ことの重要性への認識について、どうも日本人はやや欠けているところがあるんじゃないかという気もしますね。

編集部

 どういうことでしょうか?

青井

 例えば「悪いことをした人間には人権なんていらない」とか、「重要なのはやったかやってないかだけだ」みたいな考え方にも、けっこう「そうだ」という人が多いんじゃないでしょうか。でも、それってやっぱり違うんですよ。いくら「罪を犯したかもしれない」人であっても、裁判などの手続きをきちんと踏まないと刑罰を科すことはできない。そういうルールで国家権力を、刑事権力を縛っているからこそ、国家は移動の自由や人身の自由を「刑罰」という形で制限できるんであって。その手続きを軽視するのは、「やったのは分かってるから」といきなり銃殺刑、というのとレベルは変わらないですよね。

編集部

 特に最近は、「加害者の人権を保護しすぎている」という批判の声が高まるなど、そうした傾向が強くなっているようにも思えます。どうしてだと思われますか。

青井

 経済も低迷しているし、明日のこともよくわからないし、誰かを叩きたいという意識があるのかもしれないですが…やっぱり、「恐れるべきは権力である」という感覚が今の日本では、非常に薄い気がしています。むしろ国家や行政機関というのは、例えば「ごみを回収してくれる」といったサービス提供者である、といった感覚や国家観が強いんじゃないかと。
 でも、それこそ福島第一原発事故の後の対応を見ていれば分かるように、国家権力はやろうと思えば何でもできます。その恐ろしさを、改めて認識しなきゃいけない時期なのかもしれないですね。

編集部

 権力によって「自由を奪われる」ことへの恐怖感が非常に薄いという気もします。

青井

 そう考えると、日本人のメンタリティって昔からあまり変わっていないのかも、という気がします。「お上が何とかしてくれる」みたいな感覚もあるし、戦時中は「神風が吹く」で最近は「安全神話」。自分で何とかするんじゃなくて、なんとなく大丈夫になるんじゃないかという系列の考え方がありますよね。戦時中は自由がなくて、戦争に負けていきなり憲法が自由を保障したけど、メンタリティとしてはつながったままなのかも。
 戦後すぐのときって、憲法学はすごく懸命に人々を啓蒙しようとしました。また、労働組合が中心になって「職場に憲法を!」みたいな活動をした。それは分かるんですが、今から思えば上から目線の議論だったんじゃないでしょうか。それも、ちょっと違うんじゃないかと私は思うんですよね。自由や平和といった感覚、価値観は、自分たち自身の中から内省的に鍛え上げて、つかみ取っていかないといけないものだと思うので。
 ただ、そういうことを考えて私が憲法学徒として誰かに伝えようとすると、それもやっぱり上から目線の啓蒙主義になってしまうわけで…憲法教育って難しいなあ、やっぱり義務教育の中でやってほしいなあ、と思いますが。

司法の場での「武器」として、憲法を使う
編集部

 青井先生ご自身は、どうして憲法に関心を持たれたんですか?

青井

 大学の学部生時代、アメリカのテネシー州議会の議員定数不均衡に関する連邦最高裁判決である「ベイカーVSカー判決」を読んだことです。議員定数不均衡は違憲だという判断を示した判決なんですが、「違憲だ」となって、その後どうなったのかな? と興味を持って調べていったら、いろいろと面白いことが分かってきたんですね。
 この判決を機に、連邦最高裁はそれまでの、定数不均衡問題は「政治的問題」で司法審査権は及ばない、司法府は「政治の藪」に入るべきではないという立場を覆して、一転してブルドーザーのように(笑)、司法的救済という形で不均衡是正へ取り組んでいくようになります。州の裁判所が州議会に対して、「この日までに区割り案をつくれ」と命令して、「できなかったらこれを使え」と、区割り案までつくっちゃう。「司法府がそんなことしていいの?」と思いました。

編集部

 日本ではちょっと考えられないですね。

青井

 まあ、あくまで州単位の話なので、日本の国会と最高裁との関係とは違うんですが、なんだかずっと違和感があって。そこから「司法権って何だろう」という興味が膨らんでいったんですね。立法府と違って選挙で選ばれたというような正当性もない、日本の最高裁判所なら15人の裁判官。この人たちは何をどこまでできるのか。彼らもまた国家権力ですから、国家権力というのは縛られなくちゃいけないものだということから考えれば、あまりに権力を持ちすぎてもいけない。でも一方で、国民の自由を守るためには、一定程度彼らに力がないといけない。どこまで許されてどこから許されないんだろう。司法権ってどういう権力なんだろう。そう考えたのが憲法との出合いで、今もそれをずっと考え続けているという感じですね。

編集部

 日本でも2011年3月に、2009年の衆院選における「一票の格差」は違憲状態であったとする最高裁判決が出ました。2010月7月の参院選についての裁判も各地の高裁で「違憲判断」が出されています。
 ただ全体として、法律などを明確に「違憲である」とする判決は、日本ではそれほど多くない、という印象があります。

青井

 そういう面はあるかもしれませんが、それは憲法を使わなくてもなんとかなってきた、ということでもあると思います。例えば刑事事件であれば、形としては犯罪構成要件に該当するけれども、これは処罰すべきではないと判断されたときに、「可罰的違法性がない」といった刑法の言葉を使って解決する。あるいはそもそも起訴されないという形で救われてきた人もいるでしょう。
 それはそれで私は悪いことだとは思いません。ただ、そこに憲法の議論を持ち出すことで、より「武器が増える」という思いはあります。そもそも、どうして裁判官が「この事件は犯罪構成要件を満たしているけど処罰すべきでない」と考えるかといえば、それはやっぱり「人権感覚」なわけですよね。ただ、「人権感覚」という言い方だと、人によって感じ方も変わってきてしまうけど、「これを処罰することは憲法違反だ」ということで、議論の内容がもっと可視化されるし、強い議論になる。その意味で、実際の訴訟の場でうまい具合に憲法を使う、そういう方法をもっと考えていきたいと思っているんです。

編集部

 最近では、福島県双葉町の井戸川町長が「私たちは憲法で守られていますか? 国民ですか?」と訴えたように、東日本大震災の被災地からも、今自分たちが置かれている状況は憲法違反だ、という声があがっています。

青井

 本来は被災者の方たちを救済するために、国会が適切な法律をつくるべきなのにそれをやらない。つまり、憲法に従えば国会は国民の人権を侵害してはいけないはずなのに、それができていない。これは憲法違反だという立論をする可能性はあると思います。
 そんなふうに、「法律をつくらない」政治の怠慢を訴える方法としても、憲法をもっともっと使っていくべきなんじゃないか、と考えています。今まで、あまりにもそれを前面に出さず、背後に置きすぎてきたんじゃないかなという気がしていますね。

(構成・仲藤里美 写真・塚田壽子)

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例えば、デモやビラ配りを通じて自分たちの意思表示をする。
「健康で文化的な」最低限の生活を守る。
子どもを安心して育てられる環境をつくる。
さまざまな場面で、権力と対峙するための「武器」となってくれる憲法。
この「武器」を手放してはならない、と強く思います。

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